第一話 腐った祝福
町の名前は、まだ知らない。
戦場の跡から三日歩いて辿り着いた場所というだけだ。石造りの建物が並び、中央に広場があり、広場の端に神殿がある。どこの町も大体そうだった。
宿を取った。金は死体の懐から失敬した。生きている人間から奪う気にはなれないが、死んだ人間は使わない。合理的な判断だ。
三日が経つ。
指先に集中すると手応えがある。転生直後は魔力が空だった。絞っても何も出なかった。今は違う。まだ本調子ではないが、使えないことはない。
宿の裏手の路地へ出て、人気のない壁に向かい骨格強化を試みた。
通った。
腕の骨が軽く軋み、密度が増す感覚がある。出力は三割程度。それでも何もないよりずっとましだ。
次に重力制御を試す。足元の石ころがふわりと浮き、すぐに落ちた。
ある、と確認できれば十分だった。
昼過ぎ、広場のベンチに腰を下ろして人の流れを眺めていた。
「あの……」
小さな声だった。振り向くと子供が立っている。七、八歳くらいだろう。膝に包帯を巻き、目が赤い。泣いた後か、あるいは今も泣きそうなのかわからない。
数日前に瓦礫の下から出した子供だと気づくのに、少し時間がかかった。
「助けてくれた人ですよね」
答えなかった。
「ずっと探してました。町の人に聞いたら、ここにいるって」
子供は両手を握りしめている。何かを言おうとして言葉が出ない様子だった。しばらくして、頭を深く下げた。
「ありがとうございました」
声が震えていた。
礼を言われることに慣れていないわけではない。ただどう返すのが正解か、毎回わからない。
『ああ』
それだけ言った。子供は顔を上げる。何か続きを待っているような目だった。
『怪我はないか』
「はい。お母さんも」
『そうか』
沈黙があった。子供はまだそこに立っていた。
やがて何かを差し出してくる。小さな布に包まれた何かだった。
「お礼です。大したものじゃないけど、うちで作ったパンで」
受け取った。温かかった。
子供はようやく笑い、小走りで広場を横切り、路地の向こうへ消えた。
手の中の包みを見る。
何度転生しても、こういうものを渡されたことはなかった。金を置いていく人間はいた。頭を下げる人間もいた。だがパンを焼いて持ってくる人間は、いなかった。
しばらく、それを見ていた。
広場には人が絶えない。商人が声を張り上げ、子供が走り回り、老人がベンチで居眠りをしている。
だが広場の端にある神殿だけは、少し違う空気をしていた。
人が絶えず出入りしている。老若男女を問わず、みな一様に神妙な顔をして入り、出てくる時は少し軽くなったような顔をしている。神官が入口に立ち、通る人々に声をかけていた。
「神はいつもあなたを見守っています。今日も感謝を捧げましょう」
人々は頷き、中へ入る。
遠くからそれを眺めた。何度転生しても神殿だけは必ずある。形は違う。名前も違う。だが構造は同じだ。人が集まり、祈り、安心して帰っていく。
安心という感覚が、もうよくわからなかった。
ふと、首の後ろが粟立った。
何かがおかしい。理由はわからない。ただ体が知っていた。あの神殿の中で、人々の祈りの奥で、何かが静かに息をしている。
視線を逸らした。それでも粟立ちは消えない。
夕方、宿へ戻ろうとした時だった。
路地の奥で声がする。複数の男の声と一人の女の声が混ざっている。女の声が切羽詰まっていた。
角を曲がると三人の男が壁際の女を囲んでいた。武装している。女は壁に追い詰められ、胸の前で荷物を抱えていた。
「置いていけば済む話だ」
男の一人が言う。女は首を振った。
路地に入った。男たちが振り返る。
「関係ない奴は引っ込んでろ」
引っ込む気はなかった。
男が剣を抜く。残り二人も続いた。
先頭の男が踏み込んでくる。間合いが詰まった瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。
腹に剣を受けた自分が見えた。倒れている。痛みと静けさがある。
体が動いた。踏み込みを横へずらし、男の剣腕を骨格強化した手で掴んで捻る。握力が人間のものではない。
剣が落ちた。直後、掴んだ手も滑った。男が体勢を立て直す。
残り二人が左右から来た。
頭の奥がまた歪む。背後から刺された自分。石で頭を砕かれた自分。二つの痛みが重なった。
右の男の踏み込みに合わせ足元の重力を局所的に高めた。石畳が僅かに沈み、男がつんのめる。その隙に左の男の剣筋をかわし、背後へ回った。
足元の石が剥がれ、踏んだ瞬間に滑った。体勢を立て直す一瞬、距離が開く。
小石が跳ねて目に入った。一瞬、視界が消える。
その一瞬で先頭の男が剣を拾っていた。三人が間合いを取り直す。
男たちは顔を見合わせ、足早に路地を出ていった。
女が壁から離れた。
「ありがとうございます。あなたは……」
答えなかった。女は少し困った顔をしたが、深く頭を下げて足早に去る。
路地に一人残った。
頭の奥に三つの死の痛みが沈んでいる。消えない。
これはこのまま残り続け、しばらく後に体へ来る。
宿に戻る必要があった。
宿の部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした。
布に包まれたパンがまだ手の中にある。少し冷めていたが食べた。普通の味だった。小麦と塩だけの素朴なパンだった。誰かが時間をかけて焼いたものだ、と思った。最後まで食べた。
窓の外で神殿の鐘が鳴る。夕の祈りの時間らしい。
「神に感謝を。今日も守られた」
遠くで誰かが言っていた。
守られた。
その言葉がしばらく頭の中に残った。
やがて体に傷が来た。腹が裂け、肩が軋む。血がシーツに滲んだ。声は出さなかった。
路地の影が窓枠を越えた頃、痛みが引いた。肉が閉じ、皮膚が戻っている。
目を閉じた。
何かが、この町の底で動いている。
それが何かは、まだわからなかった。




