最終話 それでも歩く
動けなかった。
石畳の上に倒れたまま、体が言うことを聞かない。再生していた。わかった。だが追いつかなかった。痛覚解除はとっくに切れていた。全部が、一度に来ていた。
空が見えた。
雲が流れている。風が来る。草の匂いがした。
エウフェミアの声がした。何を言っているのかわからなかった。ただ、そこにいるのはわかった。
最初の夜が過ぎた。
体はまだ動かない。意識だけがある。エウフェミアが焚き火をおこした気配がした。煙の匂いがした。温かくはなかった。だが、消えなかった。
雨が降った。
冷たい。体に当たる雨粒の感触だけが、はっきりしていた。エウフェミアが何かをかけた。外套だった。顔に当たる雨が止んだ。
季節が変わった。
草の色が変わった。風の温度が変わった。匂いが変わった。風が来るたびに、季節だけが先へ進んだ。体は動かない。空だけが動いていた。
エウフェミアはいた。
毎日、そこにいた。声をかけてくることもあった。かけないこともあった。そこを離れなかった。その気配が、消えなかった。
雪が降った日があった。
冷たかった。体の感覚が薄くなっていく。意識が遠くなりかけた。エウフェミアの手が、頬に触れた。冷たい手だった。それでも、触れていた。
意識が戻った。
長かった。
空の色が、何度も変わった。
エウフェミアは泣いたことがあった。
声は出していなかった。だが気配でわかった。肩が震えている。しばらくして、止まった。また、そこにいた。
エウフェミアが何かを考えている気配がした。長い時間、動かずにいた。廃墟のことを考えているのかもしれなかった。あの神殿の向きのことを。神官が言っていたことを。答えは出ていないはずだった。それでも、何かが繋がりかけているのは、わかった。
何も言えなかった。
体が動かないのではなかった。言葉が出なかった。何を言えばいいのか、わからなかった。ありがとう、は違う気がした。すまない、も違う気がした。ただ、そこにいてくれていた。
指が、動いた。
気づいたのは、ある朝のことだった。
右手の人差し指が、ほんの少しだけ動いた。瓦礫の表面を、爪が引っかいた。小さな音がした。
エウフェミアが顔を向けた。
目が合った。
何も言わなかった。エウフェミアも、何も言わなかった。見ていた。
指が動いた。手が動いた。腕が動いた。ゆっくりだった。急がなかった。急ぐ理由もなかった。
ある日、肘をついて上体を起こした。
視界が変わった。地面だけだった景色に、草原が入ってくる。遠くの山が見えた。空が広い。
エウフェミアが隣に座っている。こちらを見ていた。
『立てる』
声が出た。掠れている。自分の声だとわからなかった。
エウフェミアが立ち上がった。手を差し出す。
握った。
引き上げられた。膝が震える。足が地面につく感触があった。石畳の固さが、靴底から伝わってくる。
立っていた。
空が、近かった。
エウフェミアの目が赤かった。
気づかないふりをしようとした。できなかった。
手が、まだ繋がっている。
エウフェミアが気づいて、離そうとした。
離さなかった。
エウフェミアが止まった。こちらを見る。
何も言わなかった。言葉はいらなかった。エウフェミアの肩が、少しだけ下がった。頭が、こちらの肩に触れる。重くない。軽くもない。そこにあった。
しばらく、そのままでいた。
風が来た。草原を渡る風だった。
『行くか』
エウフェミアが顔を上げた。
目が合った。
頷いた。
歩き出した。
どこへ向かうかは決めていない。向かった先に何かあれば、そこにいればいい。
呪いは解けていない。
神はまだいる。何も変わっていない。また誰かが泣いている場所がある。また誰かが助けを必要としている場所がある。
足が、地を踏んだ。
エウフェミアが隣を歩いている。半歩、近い。いつからかは、もう覚えていない。
名前は残らない。
英雄にもならない。神格化もされない。風化して、忘れられていく。
それでも、足が動いた。
名前のない方向へ、二人で歩く。
終
---あとがき---
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
実はこれが、初めて書いた作品です。
小説を書いたことはなく、文章を人に見せたこともなかった。それでも書き始めたのは、頭の中にいた二人を、どこかに書き置きたかったからだと思います。
書き終えてから、少しだけ手を入れて、小分けに投稿させていただきました。
この話を書き始めた時、決めていたことが一つだけありました。
主人公に、報われてほしくなかった。
英雄にならない。神格化されない。名前も残らない。呪いも解けない。それでも足が動く——そういう話を書きたかった。
救いに見返りは要らない、という言葉が頭にありました。死なないことは救いではない、とも。答えが出ない問いを抱えたまま、今日も歩く者の話を書きたかった。
エウフェミアについては、彼女が何を考えていたか、何を決めていたか——それは読んでくださったあなたの中にあると思っています。
神はまだいます。呪いは解けていません。二人はまた誰かのところへ向かいます。名前のない方向へ。
それでも、足が動いた。
それだけで、十分だと思っています。




