第九話 擦り切れた果て
街道が終わった。
地図の端だった。これより先は、書かれていない。誰も、戻らないのかもしれなかった。
エウフェミアが地図を畳んだ。何も言わなかった。
『行くか』
エウフェミアは頷いた。
草原が続いた。街道がなくなると、足元が変わった。土が柔らかい。草が深い。
二日歩いた。人も、村も、なかった。ただ草と空だけが続いた。
エウフェミアは前を歩いている。歩幅も速度も、変わらなかった。だが何かが、少しずつ変わっていた。
Oizysを倒したあの夜から、距離が変わっていた。半歩、近い。気づいていたが、確かめなかった。
二日目の夕方、川があった。
エウフェミアが靴を脱いで川に足をつけた。こちらを見た。誘っているのか、ただ見ているのか、わからなかった。隣に座った。靴は脱がなかった。
川の音がした。風が草を揺らした。
「冷たい」
エウフェミアが言った。感想だった。
たった一言なのに、何かが残った。名前のつかない感覚だった。
三日目、土が変わった。
足の裏から伝わるものが、また変わった。締まっている。人が踏み固めた跡に似ていた。だが草は深い。長い間、誰も来ていない。
『何かあった場所だ』
エウフェミアが足元を見た。
「神殿か」
『違う気がする。様式が違う』
エウフェミアはしばらく足元を見ていた。それから空を見た。
「消えた神のものか」
答えなかった。答えが出なかった。
エウフェミアも続きを言わなかった。確かめなかった。
四日目の朝、霧が出た。
薄い霧だった。Letheの時とは違う。ただの霧だった。草の縁が滲んでいた。
エウフェミアが先に起きていた。荷物も焚き火も、片付いていた。こちらが起きると、無言で歩き始めた。
半歩後ろを歩いた。霧の中でエウフェミアの背中を見ていた。
誰かの隣が、これほど自然だとは思っていなかった。
この感覚に、名前がつかない。
つかなくていい。ただ、在る。それでいい。
昼過ぎ、廃墟が見えた。
草原の端に、石積みが崩れていた。柱の間隔が今まで見てきた神殿とは違う。もっと古い様式で、供物台の向きが別の神を向いていた。
足が止まった。
気配があった。
今までとは違う気配だった。重く、密度があった。空気が変わっていた。草の匂いが消えた。
エウフェミアが剣に手をかけた。
視線が合った。
どちらも、何も言わなかった。
廃墟の中へ入った。石畳が残っていた。踏むたびに砂が舞う。柱の影が複数ある。どこかに、いる。
エウフェミアが先に動いた。剣を抜く。音が静寂の中に広がった。
その瞬間だった。
エウフェミアの足が、止まった。
剣を構えたまま、動かなかった。廃墟の奥を、見ていた。
今まで一度も見たことのない顔だった。怯えでもない。驚きでもない。もっと古い、遥か以前に決着のついていない何かを見た時の顔だった。なのに、知っている気がした。
「……まさか」
低く、小さかった。自分自身へ向けた言葉だった。
エウフェミアの目が、廃墟の奥を見たまま動かなかった。唇がもう一度動いた。
「お前が——ここにいたのか」
あれへ向けた言葉だった。
応えるように、気配が収束した。
先が、見えなかった。
頭の奥が軋んだ。だが何も来なかった。可能性が来なかった。
暗闇だけがあった。
違った。
暗闇の中に、いた。
無数の自分だった。全員、倒れていた。全員、同じものの前で終わっていた。別の転生の、別の体の、別の終わり。すでに答えが出た問いの残骸が、無数に、こちらを見ていた。
Keresという名が、流れ込んだ。
Keresがいた。形は人に近い。だが輪郭が揺れていた。その中に、見覚えのある気配が混ざっていた。Ateの重さ。Oizysの圧。Letheの静けさ。全部、そこにあった。眼窩に光がない。笑顔もない。声もない。言葉もない。ただ、在った。
倒さなければ。足が動いた。
『エウフェミア』
「聞こえる」
足元で爆発を起こした。
瓦礫が砕ける。体が弾けるように加速した。重力で骨格を固定する。引力で継ぎ目を縫いつける。
Keresが動いた。速くはない。だが重かった。空気が変わった。近づくほど、頭の奥が鈍く痛んだ。
踏み込んだ。拳を入れる。手応えがあった。だが深くない。
Keresは揺れた。だが崩れない。
重力を収束させた。Keresの足元が沈む。床が割れる。その隙に踏み込む。また拳を入れる。また揺れる。また崩れない。
空気の動き。体重の移動。頼れるのは、それだけだった。
エウフェミアが動いている。剣が鳴る。結界が展開する。
だが届かない。
Keresは形が定まらない。剣が当たっても、霞のようにずれる。重力で押さえても、すり抜ける。
「予見は、まだ見えるか」
『見えていない』
初めて、口にした。
短い沈黙。
「わかった。声を出し続ける」
それでよかった。
重力で骨格を固定するたびに魔力が落ちた。指先の感覚が薄くなる。Keresの攻撃が来るたびに、一瞬だけ意識が揺れた。
腹を裂かれた。動く。
脇腹を貫かれた。動く。
右腕を叩かれた。骨が軋む。引力で縫いつけたまま、動く。
その度に、何かが流れ込んだ。
砂漠ではなかった。橋でもなかった。もっと暗い場所だった。石の匂い。血の味。倒れた感触。別の転生の、別の自分だった。この感触は、知っていた。
また流れ込んだ。
別の場所。別の体。別の終わり。どれもKeresの前で終わっていた。
擦り減りながら、動く。
エウフェミアの声が来るたびに動いた。声がある限り、止まらない。
Keresが動いた。
重さが変わった。密度が上がった。空気が重くなった。足元が沈む気がした。
まずい。
足元で炸裂させた。高く。距離を取った。
距離など関係なかった。
体ごと吹き飛んだ。廃墟の壁に叩きつけられる。肋骨が折れる。背骨が軋む。引力が追いつかない。視界が暗くなった。
地面に落ちた。
立ち上がれなかった。
膝をついたまま息を整える。右脚がまだ動かない。左手の感覚がない。頭の中が白い。
エウフェミアの声がした。
「アロゴス」
返事ができなかった。
「——アロゴス」
今度は違った。静かだった。今まで聞いたことのない声だった。
口が、動いた。
『まだ終われない』
『誰かが、泣いていた。自分のために。顔は出てこない。名前も出てこない。それでも確かに、そこにいた。自分のために、泣いていた』
Keresが近づいてくる。気配でわかった。
立ち上がった。右脚がまだ痛い。構わなかった。
『誰かが、笑っていた。エウフェミアのために。声も出てこない。それでも確かに、温かかった。エウフェミアを見て、笑っていた』
足元で弾けた。加速する。骨格を縫いつける。引力で固める。
『その記憶が、消えない。Letheに奪われても、消えなかった。それがある限り、動ける』
Keresへ踏み込む。重力で押さえる。拳が入った。深かった。だが足りない。
弾き飛ばされた。また壁に叩きつけられる。
立ち上がった。
また動いた。
『エウフェミア』
「聞こえている」
『お前が隣にいた。それも、消えない』
短い沈黙があった。
「……ああ」
エウフェミアの声が、少し変わった。
痛覚解除を使った。
神経に魔力を流す。受容体を一つずつ焼いていく。骨を内側から燃やすような熱さが一瞬だけ来る。目の奥が熱くなった。鼻の奥が濡れる。口の中に血の味がした。
視界に赤が入った。拭わなかった。
痛みが、消えた。
足元で爆発を起こした。
さっきとは違った。限界がわからない。砕けながら加速する。爆発。加速。砕ける。固定する。爆発。
一点に向かった。
その時だった。
Keresが収束した。一点に集まった。密度が上がった。こちらへ向いた。
間に合わない。
エウフェミアが割り込んだ。結界を展開した。衝撃を受けて弾き飛ばされた。それでも、立っていた。
「——どうして、どうして私は——!」
今まで聞いたことのない声だった。叫びだった。エウフェミアの声が、初めて割れた。
自分の手を見ていた。緑の光が滲み始めていた。じわじわと広がっていた。消えなかった。強くなっていた。
わかった。
これでいい。
杭を召喚した。返しのついた杭を、魔力で無数に。Keresへ向かった。腕を回した。離さない。重力で縫いつける。引力で固定する。
杭を打ち込んだ。
Keresの体へ。自分の体へ。境界なく、同時に。食い込んだ。抜けない。
Keresが、初めて口を開いた。
「——何度目だ。何度繰り返しても、終わらない」
答えなかった。
内側から光り始めた。緑の光が、杭を伝った。体の奥から広がっていく。骨の隙間を通って、皮膚を突き抜けて、杭の一本一本を伝って——空へ向かった。
無数の線が、放射線状に伸びていった。
Keresの輪郭が崩れた。影が散った。
「——それが、恐ろしい」
声もなく、消えた。
華々しくなかった。泥の中で終わった。
静かになった。
痛覚解除が切れた。
全部来た。一度に。杭が刺さったままだった。返しが内側に引っかかっている。抜けない。骨が軋む。内臓が押される。皮膚が裂けたままの箇所が熱い。焼いた神経が戻ってくる。一本ずつ。全部が同時に。地に倒れた。
再生が始まった。
遅い。
エウフェミアの声がした。何を言っているのかわからなかった。ただ、傍にいるのはわかった。
手が、触れた。
擦り切れた果てに、静けさがあった。
それでも、傍に誰かがいた。
手が、まだそこにあった。
遠いところで、何かが揺れた。信仰が、薄くなっていた。二人が歩くたびに。二人が生きるたびに。
まだ、終わらない。




