8.温泉
温泉。温泉とは。なんなんだ?温泉。俺、入ったことないけど風呂だよな。体洗ったり髪洗ったり…そういうのだよな。それで、なんでそんなに兄ちゃんはこだわるんだ?
「いいじゃん、急ぐ旅でもないし。」
「だからダメだって、兄ちゃん。仕事が終わってからって言ったじゃん。」
「でも予定変わったじゃん。洞窟の前に魔法科学推進派と会うことになったろ?それがどんくらい時間かかるかわかんないけどさ、その後だと温泉行く時間ないかもしれないじゃん。」
それはそうかもしれないけど、ここから温泉街を経由すると南寄りに逸れて二日分位遠回りになる。急がないとは言え、遊びで二日無駄にしちゃうのはダメなんじゃないか?
「うー…。」
俺が地図を見て唸っているとふいにミリアムさんが口を挟んだ。
「温泉なら近くにあるよ。大きく道を外れるわけじゃないから、ここで野宿と大して変わらないんじゃないか?」
脳みそがジーンとして汗をかくような感覚。元々人付き合いは苦手、その上三十年間、兄ちゃん以外と話してないから他の人に対してどうしていいかわからない。
「えっ、あっ、み、ミリアムさんまで…?」
「八十三歳だぞ?温泉なんか大好物に決まってる。」
そんなの、幽閉されてる俺が知るわけがない。
「話わかるじゃん!ミリアムさぁん!」
兄ちゃんは大喜びでミリアムさんとハイタッチしてる。え?嘘?ある?温泉宿?俺は地図を見直した。
「でっでも…俺の、ちっ地図には、宿な、なんて…ナイデスヨ…。」
「君は知らないかもしれないが、この世には地元民しか知らない宿や食堂ってのがあるんだよ。」
「そうそう。地図やガイドは許可がないと載せられないからな。うちの牧場も断ってる。あんまり客が来ると手が回らなくなるからな。」
「ああ…そうなんだ…。」
だめだ、勝てるわけない。生来の性格に加えて、温泉の魅力、地元民しか知らない宿や食堂の存在…幽閉されてる俺は知らないことが多すぎる。
「心配するな。ここから十分とかからない。」
「んー…。」
渋々ミリアムさんに案内され温泉宿に向かう。確かに十分とかからないところにあった。
「はえー。こんなとこに宿があるなんて。」
兄ちゃんが目を丸くしている。
「温泉街と源泉は同じだが、この辺は地盤が硬くてな。たまたま五十年位前、魔物が暴れた時に地盤が緩んで吹き出してきたんだよ。でもまあ、この道自体あまり人が通らぬから自然と隠れ家的になった…だからこの道を選んだんだろ?ジュードくん。」
「あっ、と、えっ、は、はい。」
「君達の遠征ルートを分析しててな、なるべく人が少ないところを選んでいると感じたんだよ。」
「えっ?そうなの?」
「うん。万が一、俺が暴走しても人を殺さないようにと思って。」
「お前…。」
兄ちゃんがなんとも言えない顔で俺を見て、優しく肩に手を回した。こうして躊躇いなく俺に触れてくれるのも兄ちゃんだけだな。
「しかし、もう大分夜も更けているが、こんな時間に部屋なんてあるのか?」
兄ちゃんが尤もな疑問を口にしたけど、意外にもすんなりと部屋に通された。
通された部屋は部屋というよりコテージで、広々としたリビングルームがあり、寝室は二間に分かれていた。
「まあ、じゃあ俺、早速風呂行ってくるわ。」
リビングの片隅に乱雑に荷物を置いて兄ちゃんはさっさと風呂に向かった。
「え。あ。うん。」
リビングには、俺と荷物を整えて風呂の支度をしているミリアムさんが残され、俺はなんとなく気まずく感じていた。
「君は入らなくていいのか?」
俺は行かれない。俺の体には…。
「あっあ…後で水ででも、ちゃんと洗うから…あの、臭くないように…だ、大丈夫…。」
「いや、温泉はそれだけじゃないだろ?泉質ごとに効能も違うし、疲れも取れるし、大浴場は開放的で気持ちも解れる。」
「でっでも…あの…だ、ダイジョブ…デス。」
ミリアムさんは眉間に険しい皺を寄せた。
「もしかして、体に何かあるのか?」
「えっ?!あっ!いやっ!あの…あの…だっダイジョブデスカラ…。」
思わず胸元を抑える。
「見られたらまずいようなものだな?勇者の秘密にまつわる…見せてみろ。私は八十三歳のババアだ。何なら孫もいる。今更男の裸を見ても何とも思わん。」
だめだ…見せることはできない。俺は首を横に振った。
「単純に興味があるんだよ。魔物を人間に取り込ませるなんて、そんな非人道的なこと、普通はしないからな。果たして肉体的にも変化があるのか…知的好奇心というやつだ。」
「う…。」
魔法科学者なら…いや、ダメだ…見せてはいけない。でも…魔法なら…もしかしたら…。
「余計なことすんな!」
「ゔ…」
頭の中であいつが叫ぶ声がした。普段ならこの期間は制御できてるのに抑え込めないほどブチギレてるってことか。だったら…。
「いや、大丈夫か?ごめんよ、君が嫌なら別に無理にとは…あ…。」
服を脱いだ俺を見てミリアムさんはしばし絶句した。魔物が暴走するたびに炎を吹く無数の傷。少し血が滲んでる。さっき叫んだ時に裂けたんだろう。そして胸に大きく埋まっているあいつ…グロテスクな魔物の一部。怒りで目玉を真っ赤にしている。
「これは…惨たらしいな。」
覗き込んだミリアムさんを胸の魔物の目玉がギョロリと睨んだ。
「こいつ、生きてる。生きたまま埋め込まれているのか?」
「はい。い、いつも…お、俺の脳みそに…色々…言っ…うぁ…今も…。」
「可哀想に…。すまんな、今すぐに取り除く事はできないが…私の魔法で短時間なら低活性化する事はできる。」
「え…。」
ミリアムさんが俺の胸にそっと手をかざすと魔法陣が現れた。
「二年に一度しか兄と過ごせないんだろう?一分一秒だって惜しいはずだ。一緒に風呂入ってこい。」
「うあっ!あっ…クソババアあああああっ!やめろ!やめ…。」
頭の中があいつの叫びで満たされ、俺の意識が一瞬黒く曇る。魔法が発動する衝撃を受け、ブッツリと叫び声は消え、意識の曇りが消えた。胸を見るとあいつが見えなくなっていた。
「あの…こ、これ…?」
「仮死状態になってるから見えなくした。所詮目眩し程度だが。まあ保って二時間だ。早く風呂に行かないと時間なくなるぞ。」
「あ…アリガトウゴザイマス…。」
ミリアムさんは俺の手を取った。躊躇いなく…。
「私はこっちだから、後はオリヴァーくんに頼りな。」
ミリアムさんはヒラヒラと手を振って女湯へ行った。途端に心細くなる。早く兄ちゃんの所へ行こう。俺は服を脱いで風呂場へ足を踏み入れた。
でかい…!これが大浴場というものなのか。それにすごい湯気!熱気!兄ちゃんはどこにいるんだろう?
「に…兄ちゃん?」
声が反響する。激しい水音がして、湯気の向こうにぼんやりとした人影が現れた。人影は近づくにつれ、はっきりと兄ちゃんの姿となった。
「ジュード!」
「に、兄ちゃん…よかったぁ。一人じゃ、ちょっと無理。」
「お前!体、綺麗じゃん!傷も魔物もない!」
「ミリアムさんが魔法で低活性化して隠してくれてる。」
「そっかあ。そんなことできるのかあ。ミリアムさん、すげえんだな。すぐ自慢するけど…。」
「それは…確かに。」
「来いよ。背中流してやる。初めてだもんな、こういうの。これでお前も温泉に先に行きたくなる気持ちがわかるようになるぜ?」
風呂なんて何十年ぶりだろ?国は俺が話の通じない魔物か頭がおかしくなってると思っているから、人間らしい扱いなどせず、牢獄に水道はあっても風呂はなかった。しかもこんな大きなのは初めてだ。お湯に入るのはそれこそ子どもの時以来かも…そっとお湯に足を入れてみるとじんわりと暖かさが伝わる。
「ほら、こうやって肩までしっかり浸かるんだよ。」
「わあっ!」
兄ちゃんが俺の背中を押してお湯に押し込んだ。
「お。」
すご…一気に体があったかくなる!
「気持ちいいだろ?」
「ん。すごい…。俺、風呂自体久々。」
「そっか…ごめんな、何もしてやれないまま三十年もあんな暮らしさせてて。」
兄ちゃんの顔が曇る。
「二年に一度こうして旅をしてくれるだけで十分だよ。それだけで生きていける。」
それがなければとっくに俺は魔物に乗っ取られてる。偽勇者をやってくれてる兄ちゃんには感謝しかない。
「ありがとな。全部片付いたらまた来ような。」
「うん。はあ〜…それにしても気持ちいいもんだね。これは兄ちゃんがハマるのもわかるな。」
「だろ?俺らの牧場の側にもあるんだぜ?こことは泉質が違ってな。ここのは透明でちょっとぬるっとしてる感触だけど、うちの側のは白く濁ってて、もっとこう、柔らかい感じで。肌荒れとか腰痛とかに効くらしい。ここも肌荒れにはいいみたいだな。あ、後、子宝に恵まれるとか…流石にそれは嘘くさいけどな。」
「へえ…。」
あったかくて気持ちよくて、兄ちゃんの話が頭に入ってこないけど、こうやって二人でお風呂で話すのは子どもの時以来で嬉しかった。
「あえ…なんか頭ぼーっと…す…」
気がついたら俺は牧場にいた。よく晴れた空の下、牛達がのんびりと草を喰むのを眺めてる。牛舎の方を見ると兄ちゃんが掃除していて、俺に気がつくと笑顔で手を振ってくれる。俺もふり返す。暖かい風が頬を撫でる。仕事の後は温泉に行って…今日の夕飯はなんだろう…そんでふかふかのベッドで寝て…
「ぶあっ?!」
なっ?何これ?!突然鼻と口にお湯が入って来た。痛い。激しく咽せてる俺を見て兄ちゃんは笑ってる。
「お前、勇者のくせに風呂で溺れんなよ。」
「溺れ…え?え?何で?」
頭の理解が追いつかない。
「寝てたんだよ。ぜってー溺れると思ったからほっといた。」
「ひどい。」
「ははっ、本格的にのぼせる前に上がろうぜ。」




