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短編集

「透明人間のラブレター」

作者: 山太郎

「透明人間のラブレター」


第一章 消えた日


朝目覚めた時、隆輔は自分の手が見えないことに気づいた。


鏡の前に立っても、そこには何もない。パニックに襲われた。病院に行くこともできず、何度も自分の体を触って確認した。確かに存在している。温かく、脈も打っている。だが、映らない。見えない。


それから三ヶ月。隆輔は社会から消えた。仕事も辞め、アパートに籠もった。外出することすら恐ろしかった。もし誰かに見つかったら。もし警察に通報されたら。そうした恐怖の中で、彼は徐々に人間らしさを失っていった。


食事をしても味がしない。好きだった詩を書いても、言葉が心に響かない。唯一の救いは、誰も自分を見ていないということ。誰も期待してこない。誰も失望させない。そういう意味では、彼は本当に自由だった。だが自由ほど重い鎖はなかった。


第二章 言葉との出会い


隆輔がメールアドレスを作ったのは、偶然だった。


アパートのポストに入っていた無料のWebサービスチラシ。「あなたの言葉を世界に発信しよう」というキャッチコピーが目に留まった。見えない自分の言葉なら、誰かに届くかもしれない。そんな淡い期待で、彼はアカウントを作成した。


最初の投稿は、透明になった日の記録だった。


「朝、目覚めたら世界が変わっていた。いや、僕が変わっていた。見えない存在になった僕は、今、どこにいるのだろう。ここにいるのだろう。それとも、もうどこにもいないのだろう。」


アクセス数は少なかった。コメントも数件。だが、その中に一つ、光のような言葉があった。


「素敵な表現ですね。あなたの『ここにいるのだろう』という問いかけが、心に残りました。もっと読みたいです。」


名前は「桜子」。プロフィール写真には、メガネをかけた女性が笑顔で写っていた。隆輔は何度もその顔を見つめた。そして、彼女に返信した。


「読んでくれてありがとうございます。あなたのコメントで、初めて誰かが僕の言葉を受け取ってくれたのだと感じました。」


第三章 デジタルの中の恋


それからの毎日は、桜子とのやり取りで満たされるようになった。


隆輔は毎日、自分の感情を言葉に変え、ブログに投稿した。透明になったことの苦しみ、世界から消えた恐怖、それでも生きていることの意味。一つ一つの投稿に、桜子はコメントをくれた。その時間が、隆輔にとって唯一の光になった。


やがて、彼らはメールでのやり取りを始めた。


ブログのコメント欄では書けない、もっと深い話。隆輔は桜子に、自分が舞台俳優だったこと。役になりきることで、自分を忘れていたこと。透明になることで、初めて本当の自分に出会ったことを話した。


桜子は隆輔に、自分が演劇評論家だったこと。彼の舞台を何度も見に行ったこと。彼の演技に救われたことを打ち明けた。


「実は、あなたのお名前で気づいてました。あなたの投稿を読んだ時、『あの隆輔さんだ』って心臓が止まりそうでした。」


メール越しの告白に、隆輔は涙した。彼女は自分を知っていた。見えない彼を、言葉の中で知っていたのだ。


第四章 見えない関係


デジタルの世界で、彼らの関係は深まっていった。


朝、隆輔が目覚めると、桜子からのメールが届いていた。夜中に彼が書いた詩を読んで、泣いたこと。その詩が、自分の人生をどう変えたのか。そうした言葉たちが、隆輔の心を満たした。


同時に、不安も募った。


自分は透明な存在なのに、桜子は実在の人間だ。いつか彼女は、自分に会いたいと言うだろう。そしてその時、自分が透明であることを知って、失望するだろう。その恐怖が、隆輔を苦しめた。


隆輔はメールで書いた。


「君は、どうして見えない僕を愛してくれるのですか。」


返信はすぐに来た。


「あなたが見えないからです。だから、あなたの言葉だけを受け取ることができるのです。もし見えてしまったら、先入観や偏見が入り込むかもしれません。でも、今の僕たちは純粋です。言葉だけで、心だけで繋がっています。」


隆輔は、その言葉に救われた。そして同時に、桜子に嘘をついている罪悪感に苦しめられた。彼女は自分が本当に透明であることを知らないのだ。


第五章 舞台という約束


ある日、桜子からメールが来た。


「実は、新しい演劇企画があります。テーマは『透明な人間』。あなたの投稿を読んで、製作委員会に提案しました。あなたのように、見えない存在として生きる人の物語です。もし良かったら、あなたも関わってもらえませんか。」


隆輔の心臓は高鳴った。


舞台。自分が何より愛した世界。だが、彼は透明だ。どうやって舞台に立つのか。


しかし、ここで彼は気づいた。舞台役者にとって、見えることが必ずしも必要ではないのだ。むしろ、演じるということは、見えない部分の感情を表現することではないか。


隆輔は返信した。


「参加させてください。ただし、一つ条件があります。舞台の中で、見えない人間の姿を、見える形で表現したいのです。」


第六章 見えない演技


舞台稽古が始まった。


桜子はプロデューサーとして、舞台に関わった。隆輔は本人が透明であることを明かさず、「透明人間の生活経験者」として脚本のアドバイスをした。彼の言葉は、舞台に深さと現実性をもたらした。


稽古中、桜子は隆輔の存在を何度も感じた。舞台の端で、彼の指示の声が聞こえる。でも見えない。あたかも幽霊のように。だが、その声は確実に舞台を変えていた。


やがて、桜子は気づき始めた。


この声の主は、本当に透明人間なのではないか。単なる脚本アドバイザーではなく、実際に透明な存在として、舞台に立っているのではないか。


稽古の後、桜子は隆輔にメールした。


「あなた、本当に透明人間ですね。気づいてました。」


返信は、長い沈黙の後に来た。


「申し訳ありません。ずっと言えずにいました。」


桜子の返信は、すぐに来た。


「謝らないでください。あなたが透明だからこそ、この舞台は完成するのです。見えない存在が、見える舞台を作る。それ以上に美しいことがあるでしょうか。」


第七章 初日


舞台の初日、隆輔は夜明け前から劇場に入った。


彼の役割は、「見えない存在」として舞台に立つことだった。セリフはない。ただ、そこに存在する。主人公の女性が独白する時、その傍に彼はいる。彼女が絶望する時、彼はそっと手を差し伸べる。だが、観客には見えない。見えるのは、彼女が何かに支えられているという感覚だけだ。


舞台が始まった。


スポットライトが当たる。観客の息遣いが聞こえる。隆輔は歩いた。見えない彼の足音は、舞台を揺らす。主人公役の女優は、その存在を感じ、演技をした。


二幕目。隆輔は舞台の中央に立った。セリフはない。だが、詩を紡ぐような身体の動き。見えない人間が、見える空間に存在することの美しさ。観客は何かを感じた。言葉にならない何かが、舞台から放たれている。それが、隆輔の身体から生まれている。


最後の場面。主人公は、見えない存在に向かって叫ぶ。


「あなたはどこにいるのですか?」


隆輔は、見えないまま、主人公に抱きついた。その瞬間、観客は理解した。見えなくても、愛は伝わるのだ。見えなくても、心は繋がるのだ。


終章 光のメール


舞台は大成功した。


評論家たちは、その「見えない存在」の表現を絶賛した。どのようにして、あの効果を作ったのか。透明になるという特殊メイクなのか。それとも、本当に何かが見えないのか。


誰も真実を知らなかった。知ったのは、桜子だけだ。


舞台終了後、隆輔の元に、桜子からのメールが届いた。


「隆輔へ。舞台を見ました。素晴らしかった。あなたの『見えない演技』は、世界で最も美しい表現だと思います。これからも、一緒にいてください。見える世界でも、見えない世界でも。言葉の中でも、沈黙の中でも。」


隆輔は、返信を打った。


「桜子へ。君に出会えて、僕の人生が変わった。透明になったことは、呪いだと思っていた。だが、君の言葉が僕を照らし、僕の見えない存在を肯定してくれた。君こそが、僕の光です。」


その夜、隆輔は新しい詩を書き始めた。題名は「透明人間のラブレター」。


それはWebサイトに投稿され、やがて多くの人に読まれることになる。見えない愛が、見える言葉となって、世界を回っていく。


透明な隆輔と、彼を愛する桜子。二人は、見えない世界で、最も確かな愛を育んでいった。



終わり

ここまで読んでいただきありがとうございます!

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― 新着の感想 ―
透明になり、見つかってはマズイのは警察か、はたまた研究者か……。  味覚が途絶えてしまうほどの恐怖と孤立というのは、家賃などはどうするのか等の疑問すら消えてしまいそうな狂気に追い詰めそうですね。  …
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