第2話『記憶喪失とゲーム』
目を開けると、白い天井が最初に目に入った。
自分がベッドで仰向けで寝ていることに気がつき、視界に入る範囲で周りを観察する。
腕から管が伸びて点滴に繋がっている。ここは病院だろうか?
「遊悟?目が覚めたの?!」
「っ……!」
視界の外から声をかけられ、驚いて心臓が跳ねる。
ゆっくりと頭を動かしてその声の人物を確認する。
三十代半ばくらいの女性は椅子から立ち上がり、涙目でこちらを見ていた。
「本当にあんたは運がないんだから。信号無視の車に轢かれるだけでも運が悪いのに、轢いた相手も最悪で」
「信号無視?……轢かれた?」
女性はハンカチで涙を拭きながら、意味の分からないことを言う。
「運は悪いけど、遊悟は悪くないわよ。それよりもどこか痛むところはない?」
女性が自分の頭を撫でる。なんだか照れくさい。
「だ、大丈夫ですので!それより自分は一体どうして」
「自分?どうしたの?変な口調になってるわよ」
「え……?変な口調?」
そう言えば、今まで自分のことを何と言っていたんだっけ?俺?僕?私?
「あ、あれ……?」
自分の一人称が分からないだけじゃない。自分が何歳なのか、どこに住んでいるのかも思い出せない。
頭を抱える。自分は一体誰なんだ?
「どうしたの?どこか痛いの?」
「いえ……何も思い出せない、です。あの、どうして自分は寝てたんですか?それにあなたのことも、その……誰なのか分からない」
「ま、まさか記憶がないの?!」
記憶がない。そうだ、何も分からないんじゃない。記憶が無くて、何も思い出せないんだ。ここがどこで、自分は誰で、心配そうにしている目の前の女性のことも思い出せない。
「……すみません。そうみたいです」
「そう……いつも冗談ばっかり言うけど、今回は本当みたいね」
本気で動揺している自分を見て、女性は演技ではないことを感じ取ったようだ。
女性は備え付けてあったナースコールを押した。
「少し待ってて」
そう優しく女性が言うと、すぐに看護師が慌てて部屋に入ってきた。
そこから色々な検査をして医者の説明を人ごとのように聞いた。
検査をする前に待ち時間があったので、自分と女性について話を教えてもらった。
自分の……いや俺の名前は日野内遊悟。年齢は十七歳の高校二年生だそうだ。鏡で初めて自分の姿も見たが、ルックスは普通だった。女性は薄々は察してはいたが、お母さんだった。
「運が悪いとは言ってけど、遊悟は運が良いわよ。車に轢かれたのに打撲だけで済んだんだから。まあ轢かれた時に頭を強く打ったせいで一時的に記憶を失くしたから、やっぱりは悪いんだろうけど」
「そうなんですか……?」
「遊悟風に例えるなら、ゲーム機を落として本体は無事だったけどデータは全部消えたみたいなかんじかしら?あと敬語はやめてね」
人間をゲーム機で例えるのはどうかと思うが、とても分かり易い。
「私は一度、遊悟の家に行って着替えを持ってくるわ」
「お、お願いします」
「敬語禁止!」
「ごめん」
先ほどもお母さんが言っていたように、打撲だけという軽傷ではあるが五日ほど入院しないといけない。
事故が起きてから四日間も寝ていたそうなので、入院は当然だろう。
五日間病院に拘束されることになってしまったが、家に帰ってもすることもないので別にそこまで入院は苦痛というわけでもない。
そういえば現在の俺は春休みだそうで、長期休みに病院で五日間も潰れるのは最悪かもしれない。
「安心しなさい。タンスの中を少し漁るだけだから、遊悟の見られたくない物は見ないから」
記憶喪失なので見られたくない物があるのかも覚えていないので、そんなことを言われても困ってしまう。
それからの退院まで五日間は現状を知っておくことに時間を使った。
記憶喪失で全ての記憶を失くしたわけではない。お母さんが言った例えのように、俺の身体というゲーム機は無傷なので、操作やシステムは無事だ。スマホの使い方は分かるが、今までスマホを使ったことは覚えていない。
「遊悟、その……大事な話があるの」
退院の日。午後に病院を出て俺の自宅に向かう車中、運転をするお母さんが言いづらそうに話し始めた。
「遊悟の信号無視の事故、その轢いた人なんだけど……」
俺を轢いた人間。俺から記憶を奪った人間。
信号無視で人を轢いたのだから、もちろん逮捕されているのだろう。
「遊悟を轢いた相手はね、有名な大企業の息子だったの。何とか死に物狂いで戦ったけど……そいつは捕まらないの」
俺が事故で寝ている間や入院中に、お母さんはどうにかして司法によって裁いてもらうようにしてくれていたようだ。
「相手が強過ぎた。完全に揉み消されたわ。生きているから問題ないだろう、あなたの息子さんが生きていくには十分なお金を支払うのだから問題ないでしょう。だって?……ふざけないでよ!」
悔しそうにお母さんが言う。
俺のためにこれほどまで怒ってくれることに、お母さんには申し訳ないが嬉しくなってしまう。
「ありがとう、お母さん。でも俺なら大丈夫だからさ、これ以上無茶しないでよ」
「そう……そうね。遊悟がそう言うなら、これ以上アイツらと争うのはやめておくわ。それにこれ以上遊悟の精神に負担は掛けたくないから」
「それって……?うわっ!」
車がマンションの駐車場に勢いよく停まった。お母さんはあまり車の運転に慣れていないのかもしれない。
どうやらここが俺が住んでいるところのようだ。
部屋へと案内されて説明を受ける。
俺は一人暮らしで、ゲームの配信でお金を稼いだりして自由に生きていたらしい。
「私はこれで帰るけど、何かあればすぐに連絡しなさいよ」
ちなみに隣の市に俺の実家はあるそうなので、帰ろうと思えばいつでも帰れる。
「くれぐれもゲームのやり過ぎに気をつけるように!」
自室の学習机の上に置いてあったヘルメットを指差し、お母さんは帰って行った。
一人になると、部屋の中を色々と見て回った。
風呂場、トイレ、台所、自室、冷蔵庫と順番に見て回り終えるとベッドに座る。
「ゲームか……」
お母さんが最後に指差した机の上にあるヘルメットがやけに気になった。
そのヘルメットの使い方は分かる。コードをコンセントとスマホに繋いで、額にある電源ボタンを押せば良いだけの簡単な接続だ。
使い方は分かるが、それがどういう内容なのかが分からない。
ヘルメットの前に置いてあった小箱を開けてみると、ゲームのソフトが入っていた。
「これをここに挿すのか」
ケースに入っているソフトを取り出してヘルメットに差し込む。これでゲームができるはずだ。
だが記憶喪失で記憶を取り戻さないといけないのに、ゲームなんてしていて良いのだろうか?
その考えとは裏腹に心臓の鼓動が早くなっている。このゲームに思い出はないが、このゲームをやらなければいけない使命感に駆られた。
俺はやることを色々と後回しにしてベッドで横になる。
黒いヘルメットを被り、電源ボタンを押す。意識がヘルメットの中に吸い込まれるような感覚が襲う。