おぉい
※この作品には若干のグロ描写を含みます。
ぴちょん、ぴちょん。
何処からか水の音が聞こえてきて、けれどその出処は分からない。
そういう時には、絶対にその水の音の源を探ってはいけないと、いつか田舎で祖母から聞いたことがあるような気がする。
不確かな記憶だけれど「水の音がする」と言った子供の頃の自分に、祖母は「しー」と黙るように促してから「聞いたらいけないよ」と言った。
なんで聞いてはいけないのかわからなくって、もしかしたら祖母の家の何処かが水漏れしているのではないかと心配になったものだ。
けれど、祖母は気にせず自分を膝に抱いて子守唄を歌い始めた。
幼い自分はそれだけでどんどんと眠くなってついには眠りに落ちてしまって、翌朝になったらもう水の音は聞こえなかった。
だから結局、それが何の音だったのかはわからないままだ。
ぴちょん、ぴちょん
そうして今、また水の音が聞こえてきている。
八月の暑い盛り。
カッと照りつける太陽は肌の表面を焦がすようで暑さよりも熱さを感じて、男でも日傘は必要だなとじわじわ滲む汗を拭いながら考える。
ぴちょん、ぴちょん
音は絶えることなく、一定の間隔で聞こえてきている。
ここは外だ。
祖母の家に居た時と違って、こんな音が聞こえてくるわけがない、場所。
けれどまず間違いなく音は聞こえてきていて、それが自分の幻聴なのかどうかもわからない。
幻聴ではないんだろう。
それは、なんとなくわかっているけれど、認めたくない気持ちもある。
だって、だってそうだろう。
認めてしまえば、それは現実になるわけなのだから。
ぴちょん、ぴちょん
見ちゃいけないとか、聞いちゃいけないとか、そうやって意識するとなんだって逆に意識が向いてしまうんだろうか。
舌打ちしたら一瞬だけ音は消えてくれたけれど、やはり水の音はいつまでも聞こえ続ける。
「おぉい」
自分を呼ぶ声に、ハッとして顔を上げる。
手を振っている人影はこちらからでは逆光でよく見えないけれど、あの背の高さはきっと弟だ。
そういえば少し先に行くと言っていたから、いつまでも追い掛けてこない自分を心配して追い掛けてきてくれたんだろう。
ホッとして、軽く手を上げて応じる。
「おぉい」
「はいはい」
ブンブンと手を振る姿に苦笑して、少しだけ足を急がせる。
水音はいつの間にか聞こえなくなっていて、ソレにも少しホッとした。
のに、不意に足元がバシャリと音と飛沫を大きくたてて、ズボンの足元を濡らすその感覚に動きが止まる。
えっ、と思っても、遅い。
反射的に下を見るとそこは大きな水たまりで。
いや、大きさは水たまりなんていう大きさには到底思えなくって。
こんなもの、さっきまではなかった。
足を水たまりから引っ張り上げようにも、まるで足首を誰かに掴まれているような、水の中に引きずり込まれているような重みのせいで足を上げる事が出来ない。
おかしい。
こんなに、足首の深さまで水が来るような場所ではないのに。
ぴちょん、ぴちょん
また、音が聞こえる。
水たまりの端っこに雨のような波紋が出現して、それは段々と、ゆっくりゆっくり、まるで雨の境目がこちらに向かってくるように、増えていく。
ざぁざぁ、ざぁざぁ
音は段々と勢いを増し、強さを増し、どうしてか水の音が何かの叫び声のように、群衆の雄叫びのように、聞こえてくる。
雨の銀の帳はさっぱり見えない。
のに、そこに「降っている」のは、わかる。
何かが、足首に触れる。
掴むので、握るのでもない、ただ触れるだけのそれ。
でも、波紋から目を離してそちらを見れば、男と目があってしまった。
顔の半分が砕け散り、黒焦げになった頭と、肩のない腕。
ブラブラと揺れる残った腕は水の中を鯉のようにグダグダ泳いでいて、身体に巻き付いているのは服かと思ったら、そうじゃなかった。
ひらひらと、風に泳ぐ布のようなもの。それは、本人の身体から剥がれた、もの。
『水を……』
水を、ください。
その顔は、頭は、半分顎が砕け散っている口を必死に開いて、そう言った。
お前がそれを言うのか。
水の中に居るのに。
一瞬そう思ってしまったけれど、でも、そんなことにこだわっている場合でもない。
足を上げようにも足裏は吸い付いたように水の中に沈んだままで、どれだけ力を入れても少しも動いてくれない。
『水……水を……』
ざぁざぁ、ざぁざぁ
段々と雨が近付いてきて、この波紋はあまりよくないものだというのがわかる。
近付いてくる波紋で足を掴んでいる男の身体がぐにゃりと歪んで、ゆらゆらと波紋の上を泳ぐようにうごめいている。
気味が悪い。
吐き気を催すようなその光景に、でも、どうしていいのかわからない。
足は上がらない。
視線は波紋の形に歪んで、男の口の中に水は入りこんでいるように見えるのに吐き出されているようにも見えて、
足が、口の中に沈んでいくように、見えて、
気持ちが、わるい
ざぁざぁ
「兄貴?」
「っ!」
ビクッと身体を震わせて反射のように声のした方に振り向くと、不思議そうな顔をしている弟が首を傾げていた。
「どしたの? 熱中症?」
「いや……あ?」
「あ?」
ハッとして周囲を見回すと、雨も、水たまりも、あの男も、いつの間にかどこにも居ない。
ジーワジーワと叫んでいる蝉の声と突き刺すような日光はさっきと変わらずで、さっきまでのおかしな空間はあっという間に消え失せていた。
くそっ……
「なんでも無い。助かった。お前先に行ったのかと……」
「いやいや、後から追いかけるって言ったじゃん」
後から追いかける。
あぁそうだった、と思って、それからすぐに、またハッとした。
さっき目の前で手を振っていたのは、じゃあ、弟ではない、のか?
気付いたけれど、気付かなかった事にして、弟の背中を押して歩き出す。
今、立っていたのは、日陰だった。
人間1人がやっと入れるくらいの、まぁるい小さな木陰の下。
それはきっと、遠目から見れば、水たまりの上に立っているように見えたんだろうなと、思う。
雨なんか降っちゃいないのに、身体がびしょ濡れになったような気分だった。
おぉい
その声に、俺はもう顔を上げない。
結構前に書いた作品ですが、適度にブラッシュアップして定期的に出す程度には気に入っています。