最終話 雨上がりの青空
雫はゴールの前に立った。静寂が体育館を包み込む。
「大丈夫よ、無理しなくていい」
井上の声が優しく響いた。しかし、雫の心は既に決断していた。彼女はゆっくりと呼吸を整え、ボールを手に取った。
その瞬間、過去の記憶が走馬灯のように流れる。全国大会準決勝。同点の場面。残り時間わずか。彼女はジャンプシュートを放ち、そして——。
雫は目を閉じ、再び開いた。今、彼女の目に映るのは、期待に満ちた新しいチームメイトたちの姿。
「やってみます」
雫の声は、かすかだが芯があった。
彼女はドリブルを始めた。一歩、また一歩。膝の痛みを恐れる気持ちはまだあったが、それを超える何かが湧き上がっていた。
シュートの体勢に入る。右足を軸に、体を沈め、そして跳躍——。
「あっ!」
恐怖が襲い、膝が震えた。着地の瞬間の痛みを予期して、シュートが乱れる。ボールはリングに当たり、外れた。
「もう一回!」
雫は自分でも驚くほど大きな声で言った。亜美が拾ったボールを再び雫に手渡す。
「星野さん、あなたのシュートはね、一番美しいんです」
亜美の言葉に、雫は息を呑んだ。
「怪我する前も、した後も、その本質は変わらない。だから...怖がらなくていいんです」
亜美の瞳は、真っ直ぐに雫を見つめていた。そこには憧れだけでなく、理解があった。
雫は再びボールを構えた。今度は違った。恐怖と向き合いながらも、彼女は自分の感覚を取り戻していた。
跳躍——今度は躊躇なく。
「シュート!」
ボールは完璧な放物線を描き、ネットを揺らした。清々しい音が体育館に響く。
雫の足は、無事に床に着地した。鈍い痛みはあったが、恐怖ほどのものではなかった。
チームメイトたちから歓声が上がる。彼女たちの笑顔が、雫の心の氷を溶かしていった。
「感じてる?星野」
井上の声。雫は静かに頷いた。
「はい...水が、流れてる」
名前の由来である「雫」のように、彼女の中で凍りついていた感情が、再び流れ始めていた。
あれから二週間が経った。雫は正式に女子バスケ部に入部していた。彼女の右膝には今も手術痕が残っているが、もはやそれは彼女を縛る鎖ではなく、乗り越えてきた証だった。
「雫先輩、このドリブル教えてください!」
「私も!シュートのコツを!」
新入部員たちが彼女を囲む。かつての「天才」ではないにしても、雫には今、新たな役割があった。
「まず、恐れずにボールと向き合うこと」
自分自身に言い聞かせるように、雫は指導を始めた。
練習後、雫は一人残って夕暮れの体育館でシュートを続けていた。
「相変わらず、バスケはやめられないのね」
井上が体育館の入り口に立っていた。初めて再会した日と同じ構図。しかし、今回の雫の表情は違った。
「はい...でも、違う形で」
雫は静かに微笑んだ。かつての栄光を追い求めるのではなく、今を生きる自分にできることを。
「あなたにとって、バスケとは?」
井上の問いに、雫は少し考えてから答えた。
「私の...居場所です」
翌朝、雫は登校途中で空を見上げた。梅雨明けの青空が広がっていた。
彼女は右膝に手を当てた。そこには傷跡があり、時に痛みもある。完璧ではない。かつての天才シューターに戻ることはできない。
しかし——。
雫はポケットから小さなボールを取り出した。もう隠れるように持ち歩く必要はなかった。
「行こう」
彼女は呟き、一歩を踏み出した。その足取りは、かつてないほど軽やかだった。
彼女が向かうのは、新しいチームがある場所。過去の自分と向き合い、それでも前を向いて進む場所。
そこでは、雨上がりの青空のように、澄んだ未来が待っていた。