第2話 記憶の雨音
「なぜここに...」
雫の声は、体育館の広い空間に吸い込まれていった。井上麻衣子、中学時代の監督。彼女の存在は、雫の心の奥底に押し込んだ記憶を一気に呼び覚ました。
「転任してきたの。ちょうど今日から、この高校の体育教師」
井上はそう言いながら、雫の手に握られた小さなボールに視線を落とした。そして微笑んだ。その笑顔は、三年前と変わらなかった。
「あなたのジャンプシュートは、今でも忘れられないわ」
井上の言葉に、雫は身体を固くした。耳元で風を切る音。指先から離れるボールの感触。そして、膝を突き抜ける痛み。記憶が一気に押し寄せてくる。
「もう、昔の話です」
雫は冷たく言い放った。内側では感情が渦巻いていたが、表情には出さない。そんな自分を守る術を、彼女はこの二年間で身につけてきた。
「そう...でも、その体はまだ覚えているようね」
井上は、雫の無意識のドリブル動作を指差した。雫は慌ててボールを握りしめた。まるで秘密を見透かされたかのように。
「部活、再開するわよ」
井上の言葉は、静かな体育館に響き渡った。
「女子バスケ部...ここには、ないはずですが」
「だからこそ、私が作るの」
雫の目が、一瞬だけ輝いた。しかし、すぐに曇りガラスのような目に戻る。
「私には関係ありません」
振り向いて歩き出す雫。しかし次の言葉で、足が止まった。
「怖いの?コートに立つのが」
言葉は、雫の心を鋭く突き刺した。怖い。そう、怖かった。シュートを打つたび、膝が折れる恐怖。期待に応えられない自分への失望。
「私はもう...」
「あなたはまだ終わってない」
井上は強い口調で言い切った。雫は振り返らなかった。振り返れば、涙が溢れるから。
「明日、放課後に来なさい。見学だけでいいから」
井上の声が、雫の背中を追いかけた。雫は何も答えず、体育館を後にした。しかし、密かに握りしめた拳には力が入っていた。
外は相変わらず雨。雫は濡れることも気にせず、通学路を歩いた。頭の中は混乱していた。バスケをやめると決めたはずなのに、なぜ今、心が揺れているのか。
「嘘よ...」
独り言のように呟きながら、雫は濡れた頬を拭った。それが雨の滴なのか、涙なのか、彼女自身にもわからなかった。
その夜、雫は久しぶりに引き出しを開けた。中には丁寧に畳まれたユニフォームがあった。背番号は「7」。かつて彼女の誇りだった数字。指でそっと撫でると、布地はまだ柔らかく、懐かしい匂いがした。
「一度だけ...見るだけなら」
呟きながら、雫は窓の外を見た。雨は止んでいた。