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第1話 降りしきる雨の音色

挿絵(By みてみん)


雨滴が窓ガラスを叩く音が、閑散とした教室に響いていた。梅雨の中休み、外は灰色の雲に覆われている。星野雫は、机に突っ伏したまま、窓の外を見つめていた。雨の音が、彼女の心の中で渦巻く感情と不思議なほど調和していた。



「またあの夢を見た」


雫は小さくつぶやいた。夢の中で彼女は飛んでいた。床を蹴り、空中で体をひねり、そしてシュートを放つ。ボールは完璧な放物線を描いて、ネットを優しく揺らす。観客の熱狂、チームメイトの歓声、そして「中学バスケ界の至宝」と呼ばれる自分自身の誇らしさ。


でも、夢はいつも同じところで終わる。


着地の瞬間、鈍い音と共に激痛が足首を襲う。そして暗闇へと落ちていく。



雫は16歳。身長168cm、細身だが筋肉質な体つき。肩まで伸びた漆黒の髪は、今日も無造作にポニーテールに結ばれていた。本来なら輝きを放つはずの瞳は、今や曇りガラスのように生気を失っている。


「星野、授業中に居眠りするな」


教師の声に、雫はゆっくりと顔を上げた。クラスメイトたちの視線が一斉に彼女に向けられる。かつては注目を浴びることに慣れていた彼女だが、今はそれが苦痛でしかなかった。


「すみません」


形だけの謝罪を口にし、教科書を開く。でも、そこに書かれた文字は目に入ってこない。



雫の右膝には、長く鮮やかな手術痕が残っている。その傷跡は、彼女が失ったものの大きさを物語っていた。中学3年、全国大会準決勝。彼女はチームのエースとして躍動していた。残り時間わずか、同点の場面でジャンプシュート。しかし着地の瞬間、膝に激痛が走る。前十字靭帯断裂。そして、リハビリ中に足首も痛めてしまった。


医師の言葉は、雫の耳に残響し続けている。


「バスケットボールを続けるのは難しいでしょう」



雫という名前は、母が水の滴りに魅せられて付けたものだという。皮肉なことに今、彼女の内側では感情が水滴のように一滴ずつ落ちていき、やがて何も残らなくなっていた。


彼女は高校入学と同時に、バスケットボールから距離を置くことを決めた。いや、正確には「置かざるを得なかった」のだ。才能が咲き誇り、未来が約束されていたはずの道は、突然閉ざされてしまった。


当然、彼女はバスケの名門校ではなく、このスポーツに特に力を入れていない高校を選んだ。過去の栄光と現在の自分を比較されることが、何よりも耐えられなかったから。



「ねえ、星野さんって前にバスケやってたって本当?」


ある日、クラスメイトが好奇心から尋ねてきた時も、雫は平然と答えた。


「昔の話」


それ以上、踏み込まれたくなかった。バスケについて語ることは、傷口を広げるようなものだった。


しかし、本当に諦められていたら、なぜ彼女は今も古い体育館に忍び込み、誰もいない深夜にボールを握るのだろう。膝を庇いながら、恐怖と戦いながら、それでも放つシュート。かつての感覚を取り戻そうとする儚い抵抗。



中学時代、雫はシュートの精度と瞬発力で名を馳せた。一度見たプレーは体で覚え、試合中に再現できる模倣能力も高かった。しかし、その才能は今や彼女の心を縛る鎖となっていた。かつての輝きを取り戻せない自分を、雫は受け入れられなかった。


「あの頃の私はもういない」


そう言い聞かせながらも、夜になると古いバッシュを握りしめ、空っぽの体育館に向かう日々。シュートの音だけが、彼女の存在を確かめるように響いていた。



放課後、雫は誰にも気づかれないように体育館へと足を向けた。今日も雨。グラウンドは水たまりだらけで、部活動は全て中止になっている。だからこそ、彼女は堂々と体育館に入ることができた。


古びた体育館の木製フロアは、年月を経て独特の光沢を放っていた。雫はその床を愛おしむように手で撫でる。どれだけの汗と涙がここに落とされたのだろう。そして、彼女自身のものは、その中にどれほど含まれているだろうか。


バスケットゴールに向かって立ち、ポケットからボールを取り出す。小さな練習用ボール。これなら人目を気にせず持ち歩ける。小さな一歩ながら、それでも彼女がバスケを完全に手放せていない証だった。



「どうして、まだそんなことしてるの?」


突然の声に、雫は驚いて振り向いた。そこには見知らぬ女性が立っていた。30代半ば、スポーティーな服装に短く切りそろえた髪。しかし、その姿に見覚えがあると感じた瞬間、雫の体は硬直した。


「まさか...井上先生...?」


中学時代、全国制覇したあの強豪校の監督。雫が心から尊敬していた指導者。なぜ彼女がここに?


「久しぶりね、星野雫。相変わらず、バスケはやめられないみたいね」


井上の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。雫の凍りついた心に、小さな波紋が広がり始めた。

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