13-6
風吹き砦の地下牢へ向かう途上、その錆びた鉄扉に手を掛けたフィルゼは、少々億劫な気分で問う。
「……本当に一人で大丈夫か?」
「はい!」
元気な返事に振り返ってみれば、毛玉は何やら気合いを入れるように髪や服装を整えていた。そしてゆるく握った拳をぐるぐる回すと、彼女は「よし!」と扉の握りを掴む。
しかし彼女が、中にいる囚人──〈豺狼〉と二人きりで話すことにまだ何も納得していないフィルゼは、素知らぬ顔で扉を押さえつけておく。
「あれっ? おかしいな、開かない……ふんっ」
「毛玉」
「はい、何でしょうっ?」
「奴と何を話すつもりなんだ?」
毛玉は後ろの青年のせいでビクともしない扉と格闘しながら、淡い瞳をそろりと寄越す。
「えっと……あの、い、言えません」
「……」
「あっ、今は! 今は言えないだけです! 後ほどフィルゼさまにもお話ししたいので、そのときはどうかあの、毛玉にお時間を割いていただきたく……! ふんん」
フィルゼは溜息を飲み込み、いよいよ全体重を掛けて鉄扉を開けようとする毛玉をやんわりと引き剥がした。
「分かった。後で教えてくれ」
「! はいっ」
あっさり開かれた鉄扉を、毛玉が不思議そうに眺める姿を後目に、フィルゼは地下牢の奥を真っ直ぐに見据える。
鉄格子の向こうにだらしなく座るのは、数日前までこの風吹き砦を私物化していたケレム・バヤットだ。
彼は虚空に遣っていた瞳をこちらへ移すと、薄い唇だけで笑って見せた。
「三日ぶりだな。フィルゼ殿。そして……そちらは皇女殿下か?」
仮にも囚人だというのに不遜な態度を崩さない彼に、フィルゼは沈黙を返す。傍ら、毛玉は「そうです!」と正直に返事をして大股に鉄格子へ歩み寄った。
「おやおや……想像よりも随分と大人びていらっしゃる。ずっと幼児と話しているような気分だったんだが」
「よ、幼児……!?」
近くで対峙するや否や失礼な言葉を投げ掛けられた毛玉は、目に見えてショックを受けながらも頭を振る。
「フィルゼさま、席を外していただけますかっ」
「ああ。……何かあったら大声で叫ぶんだぞ」
「はい!」
フィルゼは逡巡の末、毛玉を鉄格子から五歩ほど離れた場所まで遠ざけてから、地下牢を出ることにする。
鉄扉をゆっくりと閉ざす間際、彼女の華奢な肩が緊張気味に上下した。
「ケレム・バヤット、聞きたいことがあります。……あなたは、何故──」
◇
湿った石壁の通路を出ると、小柄な少年と鉢合わせた。
こちらを待っていたかのような素振りで、少年──セリルは壁に預けていた背をゆっくりと離す。
「毛玉に用か?」
先んじて問えば、セリルはかぶりを振った。
「これを返しておこうと思って」
そう言って少年が差し出したのは、鞘に収められた純白の宝剣。
風吹き砦を制圧後、この剣はフィルゼからセリルに返したはずだ。例えそれが最も手に馴染む一級品と言えども、剣の主はもう自分ではないのだから。
過去の愛剣を受け取らずにいれば、セリルは苦笑を漏らした。
「安心して、フィルゼ殿。僕は自分が〈白狼〉の器じゃなくても、落胆したりしないからさ」
「……知っていたのか」
「うん。何となくだけど……。……だから少し、この剣は重荷に感じてたんだ」
最後にぽつりと加えられた小さな声は、少年のまぎれもない本音なのだろう。
ベルカントの騎士たちにはない、淡く美しい藤色の双眸。遠い異国の血を匂わせる顔立ちを見つめ、フィルゼは小さく息を吐き出した。
「……これを手放せば、今の地位を失うも同然だぞ」
「貴方達に加担して、〈豺狼〉を地下牢にブチ込む手伝いをしたんだ。今更だと思わない?」
「まぁ、そうだな」
セリルが宝剣を引っ込める気配はない。大方、この三日間で既に決意を固めてしまったのだろう。
最後に深呼吸一つ分だけ待ってから、フィルゼは宝剣を受け取った。ずしりとした重みが全て移ってしまえば、少年の笑みには安堵が滲んだ。
「……セリル。オズトゥルク殿と一緒に、暫く風吹き砦にいてくれないか」
「え?」
「このまま解放したら、デルヴィシュの元に帰って潔く断頭台にでも上がりそうだからな」
はたと目を丸くしたセリルは、一瞬の戸惑いを経て笑う。フィルゼの言葉にどう返そうか──どうやって誤魔化そうかと考えるような、危うげな表情だった。
ついに何も答えられずに俯いた少年に、フィルゼは静かに告げる。
「オズトゥルク殿から聞いた。宮廷を正常化しようと働きかけたのは、〈大鷲〉の爺さんを除いてセリルだけだったと」
「……」
「デルヴィシュの騎士だからってだけで、お前まで責任を取る必要はない」
かつてティムールの右腕だったあの豪傑が、何故セリルの補佐官に立候補したのか。
それは言うまでもなく、少年が誰よりも有望な騎士だったからに他ならない。
貴族たちの悪意に染まることなく、味方が少ない中でも狼月という国を守らんとする姿勢を、オズトゥルクは高く評価したのだろう。この少年が公平かつ高潔な精神の持ち主であることは、僅かに言葉を交わしただけのフィルゼでも分かることだった。
ゆえに、その責任感の強さもまた、十分に察せられる。
だからこそフィルゼはこうも付け加えた。
「お前は〈白狼〉じゃなくなるが、これからも毛玉の友人なんだ。……頼むから悲しませないでやってくれ」
「!」
言葉に詰まったセリルを一瞥し、その肩を軽く叩いたときだった。
「フィルゼさまっ! 終わりました!」
地下牢から駆け足で出てきた毛玉が、フィルゼの背中に激突する。後ろ手に難なく受け止めて振り返ってみれば、ちょうど毛玉も顔を上げて笑う。
その笑顔にほんの少し違和感を覚えたのも束の間、彼女はすぐさまセリルに気付いて嬉しそうに飛び跳ねた。
「ああっセリル! やっとお会いできました! わたくしずっと心配して──……あ、わわ、わたくし、わたくし毛玉なんですけども、信じてもらえますかっ? お望みならば今すぐいつもの姿に……!」
忙しなく喋る毛玉とは打って変わって、初めて彼女の人間の姿を見たであろうセリルは、先程の会話が全て吹っ飛んだかのような呆けた顔をしていた。
「え……あ、いや、そのままで……大丈夫です」
「!? ど、どうしてそんな他人行儀な……えーん……」
自分よりも二、三歳上の、それも皇女に対して親しげな態度を取ることは難しいのか、セリルのギクシャクとした言動はその後も暫く続いたのだった。




