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〈豺狼〉ケレム・バヤット、及び彼の下で数々の悪評を轟かせていた部隊は、風吹き砦にて降伏を余儀なくされた。
この報は、近辺の都市に暮らす人々に何重もの驚きをもたらすことになる。
デルヴィシュ帝の側近とも言える男が敗れたのは勿論、〈白狼〉セリル・スレイマンが先帝の四騎士たちと手を組んだこと、そして──その日、天を震わすほどの美しい遠吠えを聞いたという声が後を絶たなかったことも、理由の一つだった。
「あれはきっと獣神様の声だ!」
「狼月の神がお怒りになったに違いない」
「愚帝デルヴィシュを玉座から降ろせと!」
デリンの街に灯った反抗の火は、風吹き砦の嵐に乗って燃え広がる。
賢帝の不審死を経て、デルヴィシュ帝が治めてきた三年間。その結果がいよいよ、民によって示されようとしていた。
◇
「あちこちで領主が追い出されてるみたいだね。ま、宮廷からの監視が無いのを良いことに、どうせデタラメな税を課してたんだろうけどさ」
自業自得の一言に尽きる。エスラは肩を竦め、簡素な作りの長椅子に腰掛けると、切れ長の瞳をつと横へずらした。
風吹き砦の中庭には、幾つかの大きな天幕が張られていた。僅か三年で荒れに荒れ、廃墟と化したこの砦では、ここに押し寄せた人々を満足に収容することが出来なかったのだ。
「デリンの警備隊に、自治都市の自警団、通りすがりの隊商まで……。耳が早いこった」
「はは、マフムト殿が方々で今回の件を触れ回ってるみたいだからね。皆、フィルゼに期待してるんだよ」
レベントは軽口半分、本音半分といった具合に微笑み、自身も足を休めるべく長椅子に座る。彼がここ数日ずっと着けたままだった籠手を外す様を横目に、エスラは溜息をついた。
「フィルゼもあたしも、何なら〈白狼〉の坊ちゃんもいるんだ。少しは気ぃ抜きな」
「え……ん!? おや!? エスラ、もしかして僕のことを心配」
「してるさ。姫様が一人で消えちまったとき、顔真っ白だったよ、あんた」
気だるく指摘してやれば、彼は意表を突かれたように固まり、やがて苦々しく口角を緩めて笑った。
「……だって、あれは焦るじゃないか。下手をすれば、フィルゼも皇女殿下も失うところだった。セリル殿が僕たちに加勢してくれたから助かったけどね」
──数日前、毛玉がネズミたちに連れ出されてしまった後、レベントたちはすぐさま作戦を変更し、大急ぎで風吹き砦の内部に侵入した。
如何せん毛玉とネズミの移動経路が掴めず、彼らがどこへ向かったのかも分からなかったため、ひとまずカドリの提案でフィルゼの救出を優先することにしたのだ。
『獣を味方につけたあの子が、敵に見つかる可能性はとても低い。私たちがあの子を見つけられる可能性も、同様にね』
それに、とカドリは保護者の顔で笑って見せた。
『あの子は賢いし、勇気もある。もしかしたら先にフィルゼ殿を見つけて、私たちへ何かしらの合図を送ってくれるかもしれないよ』
そう語った彼の顔が、亡き主人に重なって見えたのはエスラだけではないだろう。
珍しく表情に焦りを浮かべ、毛玉を闇雲に探し回りそうだったレベントも、カドリの言葉で少しばかり冷静さを取り戻したように見えたから。
──とは言え、毛玉が風吹き砦の兵士を半分ほどごっそりと外に追い出す事態を引き起こすとは、誰も予想していなかったが。
「姫様、何をしたんだろうねぇ。外に出て行った奴ら、怯えて戻って来ないらしいじゃないか」
「確か怨霊がどうとか……あまり詳しく聴取できなかったけど」
毛玉のおかげで、レベントたちは想定よりも楽に砦内部の制圧に動くことが出来たのだが、更に幸運だったのは──〈豺狼〉によって幽閉されていたセリル・スレイマンが手を貸してくれたことだ。
その傍らにはかつてティムールの右腕として活躍していたオズトゥルクの姿もあり、牢屋の見張りを薙ぎ倒して少年を助け出したのは、十中八九この豪傑だろうというのは容易に想像がついた。
二人の助力もあって、風吹き砦を半日ほどで攻略したレベントたちは、屋上に向かったという〈豺狼〉を追い、そこで信じがたいものを見たのだった。
「……で、姫様はまだあのお姿なのかね」
エスラが微かな心配を滲ませつつ言う。
二人が背にしている大扉の奥には、風吹き砦の大宴会場がある。かつて狼月の騎士たちが集い、その日の出来事を語らいながら食事を共にした馴染み深い場所だ。言うまでもなく、現在は掃除も手入れもされていないため、駄々広い空間に物寂しげな光が差し込むのみとなっている。
先日図らずも目撃してしまった真っ白な狼を思い浮かべ、エスラは小さく溜息をついたのだった。
「今はフィルゼに任せるしかないか」
◇
「──駄目か」
当のフィルゼは途方に暮れていた。
無論、それは目の前で悲しげに耳を伏せている大きな狼も同じだろう。
のそのそと床に顎をくっつけ、如何にもしょんぼりとした様子で前脚を鼻の上辺りに乗せた狼は、「くぅん」と犬よろしく鳴いた。
フィルゼはその鼻面を片手で撫でてやりながら、自身も埃っぽい石床に胡座をかく。
「参ったな。何で戻れないんだ……?」
彼の神妙な呟きに合わせて、白い狼──毛玉は「わふ」と同意するように鳴いた。
彼らの傍らではメティが大人しく腹這いになり、不思議そうに真っ白な巨体を見上げている。いつも一緒にいたピンク色の小さい生き物が、突如これだけデカくなったのだから驚きもするだろう。
それでもメティが怯えずにいてくれたおかげで、毛玉はまだ心折れることなく元の姿に戻ろうと奮闘を続けられていた。
ちなみにその奮闘も、今日で四日目に突入したところである。
「カメオも見せたし、人間のときの特徴も教えたし、あと……それも渡したけど無理そうだな」
それ、とはフィルゼの上着だ。厳密にはその裏地に縫い付けられた、花柄の赤い内ポケット。人間には戻れずとも、手のひらサイズには戻れないだろうかと思ってこれを差し出してみたのだが、馴染みのある匂いに安心して一晩ぐっすり眠っただけだった。
何ならいつも以上に長時間たっぷりと熟睡してしまい、ついさっき目を覚ましたばかりの毛玉は、恥ずかしげに顔を隠す。それでも鼻先はぐりぐりとフィルゼの手のひらに押し付けつつ。
こうして言葉も理解できているので、獣神の力に呑まれたというわけではなさそうなのだが、如何せん変化は見られなかった。
「フィルゼ殿」
「! カドリ」
そこへやって来たのはカドリだった。彼はさっと扉を後ろ手に閉めると、大きな狼を見て苦笑する。
「まだ無理そうかね」
「ああ、悪いが……」
「構わないよ。ほら、君もまずは朝食を取らないと。お嬢さんは果物でもどうかな?」
毛玉は淡い瞳をぱちぱちと瞬かせ、目の前に置かれた果実を鼻先でつつく。うち一つをメティの方へ転がしては、嬉しそうに齧り付いた。
ぶんぶんと激しく揺れる尻尾にフィルゼが顔面を叩かれる傍ら、逡巡を挟んでカドリが口を開く。
「ふむ……自我はそれなりにはっきりとしているようだけど、先日の騒動がまだ尾を引いているのかな」
「先日?」
「気絶した君に、〈豺狼〉が剣を振り下ろそうとしたそうじゃないか。もしかしたら本能的に警戒が緩まないのかもしれないね」
フィルゼは携帯食を咀嚼しながら、ちらりと毛玉を見遣る。大きな口に似合わず、前脚で果実を押さえながらちまちまと齧っていた彼女は、視線を感じるや否や擦り寄ってきた。
……言われてみれば確かに、ケレムを風吹き砦の地下牢に入れて以降、毛玉は極力フィルゼの傍から離れたがらない。
言葉が出ないため細やかな機微は分かりづらいものの、フィルゼの身を案じているがゆえの行動と言われても納得はいった。
「……毛玉、俺なら大丈夫だ。麻酔も完全に抜けたし、吐き気もなくなったし……」
「わふ」
「本当に?」と問うような動きで、毛玉が頭を傾ける。フィルゼが両手の指をぐーぱーと動かして見せれば、またふわふわの尻尾が嬉しそうに跳ねた。
……しかしやはり姿が変わる兆しはない。
フィルゼは暫し毛玉の前脚を見詰めていたが、ふと、顎を持ち上げた。
「毛玉、もしかして何か思い出したのか?」
「?」
「俺が意識を失ってる間、あんたのことだから〈豺狼〉と話してたんだろう? そこで何か──」
「!」
淡いブルーとピンクの瞳が見開かれ、三角の耳と上機嫌な尻尾がピンと立つ。
直後、やわらかな光が彼女を包み込み、ふわりとほどける。それはさながら、綿毛が風に吹かれるような光景だった。
「あぅ」
そうやって綿毛が散るのに合わせて、べしゃりと床へ落ちるピンク髪の乙女。
相変わらず着地が下手くそな彼女に、フィルゼがやんわりと手を差し出したのも束の間、その手は逆に強く引き寄せられたのだった。
「フィルゼさま! お、お願いがあります!」
「え?」
「わたくし、あの意地悪なおじさまに確かめたいことがあるのです……!」




