13-3
「──それ以降、あの侍女のような人間と話すのが、少しクセになってしまってね」
決して褒められたものではない過去の行いを振り返り、ケレムは風に煽られた黒髪を煩わしげに払った。
「今の地位に満足できない連中ってのは、目先の餌に簡単に飛び付く。俺に媚びを売ろうと躍起になって、それがどんなに非人道的な命令であっても遂行するんだ」
「……」
「そうやって堕ちるとこまで堕ちてゆく様を見るのが、俺の唯一の娯楽になった」
そしてそれは今もなお続いているのだろうと、毛玉は孤独な幼年期を過ごした少年を思い浮かべる。
多忙で屋敷を空けがちな父親。恐らくは侍女の悪意によって精神を擦り減らし、自ら命を絶ってしまった母親。幼い少年が健全な心を育むには、些か環境が芳しくなかったと言えよう。
父親譲りの聡明さが徒となり、侍女の野望も過ちも全て見抜いてしまった少年は、それらを脅しの材料にして人を弄ぶことを覚えたのだ。
ルスランとカドリが重視した、「対話」という手段を用いて。
「……。あなたは、その後も同じようなことを繰り返したのですか?」
「ああ。獲物は大体、俺よりも先に罪を犯した連中だ。特に罪悪感もなかったな」
当時、帝室の頭脳となりつつあったオルンジェック公爵家には、その威光やおこぼれに肖ろうと大勢の貴族が集まって来ていた。
公爵が宮廷から帰れない日が続いていることを承知の上で、留守番を任された十歳の息子に取り入ろうとする輩もごまんといたという。公爵の部下を自称する者、関わりなんて殆ど無い親類、婚姻目当てで押し掛ける赤の他人。ケレムは彼らを丁重にもてなし、調子づかせ、一線を越えたところで一人ずつ遊んでやった。
「まぁ、さすがに公爵家を訪問した奴が揃いも揃って薬漬けになったり破産したりするもんだから、怪訝に思った親父がいよいよ俺を問い詰めたのさ」
「……否定しなかったのですか?」
「当然」
ケレムは何も言い訳をしなかった。侍女が母に何をしたのか、その娘がどれだけ増長していたか、公爵が知らぬ間に何人の不届き者が屋敷の戸を叩いたか、何一つ打ち明けぬまま罪だけを認めた。
しかし先ほど述べた通り、彼は自身の行いに後ろめたさなど覚えていない。
ただ愉快だったから、彼らを手のひらで転がして遊んでいただけ。
それが世間的には悪事に類されることを知っていたから、処罰を受けただけ。
「親父はその瞬間、初めて俺を『公爵家の息子』ではなく『ケレム』として叱責した。なるほど、確かに対話ってのは大事だなと思ったよ」
二人の間には母の自死という悲劇が常に横たわっていて、父と子の役を演じているような気分だったとケレムは言う。初めて激高する父を見たとき、これが宮廷でのオルンジェック公爵の顔なのだろうと、ケレムは冷静にも感心を覚えた。無論、公爵もまた、品行方正だと思っていた息子の本性を目の当たりにして、さぞかし動揺したことだろう。
しかしオルンジェック公爵はそれ以上、愚かな父親にはならなかった。ケレムが多くの人々を陥れた罪を、自分の息子だからと有耶無耶にはしなかったのだ。
「身一つで放逐されてからは、縁を切った親父が正々堂々と罪を裁きに来た。別に捕まっても良かったんだが、まだ皇子が言った『対話』とやらを続けてみたくてね。しばらくあちこちで遊んでいたのさ」
毛玉は一通り話を聞き終えたものの、彼の心情は何とも理解しがたく、咄嗟に言葉が出てこなかった。
うんうんと唸り、彼女は体がほぼ一回転したところで口を開く。
「えっと……いろんなところで事件を起こしたのが、あなたのお父様との『対話』だったと……?」
「まぁそういうことだな。そしてルスラン帝もその一人だった」
胸壁に頬杖をつき、ケレムが気怠い笑みで言う。その眼差しは相変わらず不鮮明で淀んでいたが、どこか過去を懐かしむような色が宿っていた。
「あの当時、俺を真っ向から否定し続けられる人間は、親父とルスラン帝ぐらいだったのさ。他の奴らはどうにも意志薄弱で骨が無い。俺が少し唆しただけで、自分の信念すら忘れちまうような有様だったからな」
「そ、それはちょっと、仕方のないことだと思います……!」
「おや、何故?」
「あなたの話し方はとても意地悪です。何だかその、相手を不安にさせるような……自分が間違っているかのような錯覚を与えるからです。しかもそれを、わざとやっているのでしょうっ?」
「俺の話し方は生まれつきさ。生来の癖を否定するとは酷いじゃないか」
「え!? た、確かに……あっ騙された、そういうところです!!」
しゅんと縮んだのも束の間、すぐさま元の大きさに戻った毛玉がふるふると体を左右に振る。
こうして相手のペースを小刻みに崩し、あっという間に瓦解させてゆくのがケレムの常套手段なのだろう。まともに受け取っては駄目だと、毛玉はどっしりと鍵束に腰を下ろした。
「と、とにかく、あなたの言う『対話』は物騒です。わたくしのお父様が仰ったのは、相手のことをよく知ることで、自分の世界を少しずつ広げてゆくような……もっと前向きで穏やかなものだったはずです」
「ならば何故ルスラン帝は死んだんだろうな」
ずきりと全身に痛みが走った。
毛玉がややあってケレムを見上げれば、腹の読めない笑顔が彼女を見下ろしていた。
「貴女はルスラン帝とそっくりだ。俺が知る欲深い人間とは違って、いつも他人のことばかり気にかけて──俺の所業を聞いてもなお『対話』を続けようとする。本当に、正気とは思えない御人だ」
「……」
「よろしいかな、皇女殿下。この世に貴女たちのような人種はごく少数しかいない。貴女たちが『対話』をしたくとも、野蛮な者たちは武器を下ろさない。だからこそ聖君であるはずのルスラン帝は、肉親によって殺される羽目になった」
彼が守っていた狼月の肥沃な地も、そこに住まう獣も、結局は欲深い人間によって荒らされた。今の凄惨な状況は、人間が言葉ごときでは和解できないという証左ではないのかと、ケレムは問う。
毛玉は何も答えなかった。ただじっと、ケレムの試すような視線を受け止めていた。
「俺はずっと疑問なんだ。貴女やルスラン帝のような人間は──どこまで壊してやれば、己の勘違いに気付くのかってな」
そのとき、階段室の扉が開き、何かが床に倒れる音がした。
毛玉がハッと振り返れば、そこには見慣れた銀髪の青年が倒れている。
「フィルゼさま!」
彼女が鳥籠の中で飛び跳ねる傍ら、ケレムは悠然とした足取りでフィルゼの元へ向かい、動く気配のない青年の顎を掴んだ。
「ずいぶん時間が掛かったな。効きが悪かったのか?」
「は、はい。常人なら数分で気絶する量を調合しましたが……なかなか眠らず」
同行したエルハンの言葉から、フィルゼが睡眠薬の類を嗅がされたことを知り、毛玉は慌てて格子の間にぎゅっと体を押し込む。
「フィルゼさまに何をするつもりですかっ!」
「何って」
彼女の問いにケレムはへらりと笑うと、おもむろにエルハンから白い剣──セリルが携帯していた宝剣を受け取った。純白の鞘から解き放たれた刃の先が、ゆっくりとフィルゼの首にあてがわれるのを、毛玉は息を止めて見詰める。
「貴女と、この健気な〈白狼〉の勘違いを正してやろうと思ってな」
「な……」
「貴女は言葉では俺を止められないし、〈白狼〉……フィルゼ殿は己の使命を果たすことなく、貴女よりも先に死ぬことになる。それが現実だと、今ここで証明するのさ」
だから、貴女はそこで見ていればいい。
ケレムは軽薄に告げ、躊躇なく宝剣を振りかぶった。




