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その女人を間近で見たことはない、とイーキンは初めに前置いた。
彼女はティムールを初めとした極小数の人間にしか会うことが許されず、珍しく外に出たかと思えば常に白いベールを頭に被り、誰にも顔を晒さなかったという。
「オレが見たのは長いピンク色の髪ぐらいで、お名前も存じ上げないんですが……〈大鷲〉様はその御方を守るために、デルヴィシュの息が掛かっていない者を護衛として集めていらしたんです」
「あんたもその女が何者かは分からない、か」
「はい」
イーキンは少し申し訳なさそうに首肯し、「ですが」と言葉を継ぐ。
「〈大鷲〉様の奥方様も、そのご婦人を丁重に扱っておられました。かなり身分の高い御方かと……」
ティムールの妻、セダ・トクは亡き母后と親交が深く、ルスランの乳母も務めた高貴な女人だ。
そんな彼女が敬意を払うとしたら、当然──。
「……帝室の人間か? いや待て、陛下に子供はいなかったはず……いなかったよな?」
「は、はい、そう記憶しております」
先帝のルスランは婚約者を早くに亡くしてしまってから、誰とも婚姻を結んでいなかった。
妃候補を召し上げるはずの後宮では、小姓として身寄りのない子供たちに教育を受けさせるばかり。彼らの多様な未来を願っていたルスランが、その中から妃を見繕うわけもなく。
貴族から次々と持ち込まれる縁談に関しても、特に時間を割いているようには見えなかった。
──そうこうしているうちに、ルスランは亡くなってしまって。
三年前の記憶がじわりと脳を侵食しかけ、フィルゼは瞼をきつく閉じる。意図して大きく息を吐きながら、黒々とした感情を外に逃がした。
「……。血縁でなくとも、陛下にゆかりのある人間である可能性は高いな。問題は、デルヴィシュがその女を捜しているということか」
「……はい」
そのとき、イーキンの頬がさっと青ざめる。
どうしたのかと言外に尋ねれば、彼は重々しい口調で語った。
「オレたちの拠点が襲撃されたのは、〈大鷲〉様が拘束された一週間後のことでした。それで……そこから逃亡する際に、ご婦人の行方が分からなくなってしまったんです」
「!」
フィルゼは片方の眉を跳ね上げ、肩の上で大人しく傾聴していた毛玉を掴む。
「あぅ」
「どの辺りで見失ったか分かるか」
「ええと……奥方様は、ご婦人をレオルフ王国に逃すと仰っていました。予定ではこの近辺を通るはずだったのですが、ここまで来れたかどうか」
狼月軍はあらかじめ、イーキンたちの拠点を特定してから襲撃を仕掛けたのだろう。そこまで用意していたのなら、彼らの逃走ルートもいくつか抑えていたに違いない。
レオルフ王国にセダが亡命したというような話も聞かなかったため、彼らがこの近辺で待ち構えていた狼月軍によって分断された可能性は非常に高かった。
「あの、〈白狼〉様。どうかご婦人の行方を捜していただけませんか? オレ、ずっとこの辺りを捜していたんですけど、どんどん狼月軍が増えてきてしまって……お、お願いします!」
イーキンが勢いよく頭を下げると、その風圧で毛玉の表面がふわっと靡く。
フィルゼはしばらく毛玉を見詰めてから、「ちょっと待ってろ」とイーキンに言い残し、街道の反対側にある坂道を下りた。
「毛玉」
「はい!」
「今の話で何か思い出したことはあるか?」
元気よく返事をして足まで高々と上げた毛玉だったが、彼の問いかけにはキョトンとした様子で体を傾ける。
「え? わたくしと何か関係のあるお話でしたか……?」
「あると思ってるのは俺だけか」
フィルゼはゆるやかな勾配に腰を下ろすと、むむむと難しげに唸る毛玉を前に置いた。
「いいか、イーキンの言っていたピンク髪の女は、恐らくあんたが産まれたあの森で行方不明になった」
「まあ! そ、そんな、わたくしお見かけしませんでしたよ……!」
「いや、まあ、そうだろうけど」
他人事のようにそわそわハラハラと小さな綿を散らす毛玉は、ピンク髪の女が自分である可能性を微塵も考えていないことが分かる。
否、普通に考えれば有り得ない。人間は毛玉にはならないし、逆に毛玉が人間になることもないだろう。
だが現に毛玉は喋っているし──ピンク髪の女との共通点もある。
やわらかなピンク色に、どこか育ちの良さと世間知らずな雰囲気が滲む言葉遣い、更には女が行方不明になったとおぼしき森で目を覚ましたと来れば、さすがに疑わざるを得なかった。
「本当に何も覚えてないのか? それとも隠して……」
「!? えーん! 誓って隠し事などしていません! 待ってください、わたくし今から頑張って思い出します!」
ぎゅむとフィルゼの手のひらに顔を押し付けた毛玉は、訝しまれたことがよほどショックだったのか、しくしくと落ち込みながら記憶を漁り始めた。
顔もないくせに罪悪感を煽る天才かと、フィルゼは若干縮んでしまった毛玉をもう片方の手で撫でておく。
そうして暫く宥めているうちに、毛玉の大きさが元に戻り、控えめな泣き声も止み──長い沈黙が訪れた。
「…………毛玉?」
「……」
「……別に今すぐ思い出せなくても──」
「うぅ」
「!」
ころ、と毛玉が手のひらから離れ、勾配を転がり落ちる。
咄嗟に毛玉を掴み寄せてみれば、いつの間にか足が消えてただの毛玉になっていた。何を言っているか分からなくなってきたが、そうではなく。
「おい、どうした?」
呼び掛けつつ、心なしか形が崩れてきた毛玉を両手で包む。それでも毛玉は小さく呻くばかりで、こちらの声に応じる気配がなかった。
フィルゼは片方のグローブを口で外し、素手で毛玉を撫でてみる。体温を分けるようにじっと体を覆ってやると、暫くしてからようやく毛玉が「フィルゼさま」と弱々しく名を呼んだ。
「頭が痛いです……」
「頭ってどこだ。それもう全身だろ」
「わかりません……えーん……」
とにかく何かしら痛いのは事実なのだろう。フィルゼは逡巡の末、毛玉を腹の辺りで抱き込んで立ち上がる。
「メティ!」
勾配を登りつつ呼びかければ、すぐにメティがこちらへやって来た。賢い黒馬は毛玉の異変に気が付いたのか、どこか心配そうに頭を下げる。
フィルゼは鞍の後ろに積んだ荷物から外套を引き抜くと、それで毛玉をやんわりと包んだ。
「毛玉。……悪かった、無理に思い出そうとしなくていい」
「でも、わたくし、隠し事はいやです」
「あんたがわざと隠してるわけじゃないんだろ。さっきのは忘れろ」
出来るだけ声を和らげて告げると、段々と毛玉が綺麗な球形に戻っていく。それでも痛みは尾を引いているのか、すぐさま元気になるような兆しは見えなかった。
「〈白狼〉様、どうかしましたか? おわっ何で」
小走りにやって来たイーキンが他の馬からおもむろに頭突きをされたところで、フィルゼは顔を上げた。
「イーキン、ピンク髪の女は後で良い。先にセダ殿の行方を捜してくれ」
「え、しかし……」
「狼月軍もあんたと同じで、女の顔も名前も分かってない。なら、軍に素性が知られているセダ殿の方が危険だ」
ティムールが幽閉され、ピンク髪の女も消息を絶っている状況下、優先すべきはセダに他ならない。
頭の切れる彼女のこと、イーキンのような散り散りになってしまった仲間を集めているかもしれないし、孤立してどこかに身を潜めている可能性もある。
いずれにせよ早めに救出して、彼女から詳しい状況を知るのが先決だろう。
「……俺は〈大鷲〉の爺さんが所有する城をいくつか当たってみる。あんたも心当たりのある場所を捜してくれ」
「わ、分かりました!」
「だが、狼月軍がこの一帯を離れるまで無茶はするなよ。いいな」
フィルゼが念を押せば、イーキンは緊張した面持ちで小刻みに頷いたのだった。




