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12-5

『ベルカント』


 呼び掛けられ、それが新たな自分の名であることを思い出し、はっと顔を持ち上げる。

 老齢の紳士はその厳しい顔つきを和らげ、ゆっくりと膝をつく。同じ高さまで目線を降ろした彼は、少年の痩けた頬を手の甲で撫ぜた。


『フィルゼ・ベルカント。陛下がお与えになった君の名前だ。早く慣れるといい』

『はい』

『……して、食事は取っているのかね』

『はい』

『勉強熱心なのは良いことだが、君は育ち盛りなのだから休息も怠らないように』

『はい』


 ぽつぽつと返事をする少年に苦笑し、紳士はつと視線を横にずらす。正方形の庭をぐるりと囲む回廊では、大勢の人が忙しなく行き交っていた。

 皇帝ルスランは明日、宮廷を留守にする。亡き婚約者の命日に彼の追悼を邪魔すると、ろくなことにならないと皆知っているのだ。

 だからこそ、今日中に皇帝の承認を得ようと書類を抱えて走り回っているわけだが──狼月の宰相としては、もっと余裕をもって動かないかと眉を顰めたいところだろう。

 試しにちらりと紳士を窺ってみれば案の定、溜息をかろうじて抑え込んでいるような横顔がそこにあった。


『……オルンジェック公爵様』

『うん?』

『明日は公爵様も行く、行かれるんです、か?』


 少年のたどたどしい言葉遣いを、紳士はさして気に留めた様子もなくかぶりを振った。


『いや。私が同行しては、陛下の気が休まらないだろう。連れて行くとしたら、君の方じゃないかね』

『え……』


 戸惑いを多分に含んだ声が漏れる。


『どうした?』

『……陛下の離宮に、俺なんかが入ったら、駄目なのでは』


 口にした疑問は己を卑下してのことではなく、常識を問うものだった。

 少年が皇帝の命を救ったと言えども、あれはただの偶然で、その主犯が他国から差し向けられた刺客だったというのも、また然り。単なる幸運が重なって、今こうして宮廷の小姓として生きている現状を、少年はまだ上手く飲み込めていなかった。

 自分は平民の出身で、つい最近まであの薄暗い闘技場の地下に飼われていて──そんな卑しい子供が皇帝の宮殿を汚してよいはずがない、と。


『……いいや』


 大きな手が肩に置かれた。


『陛下は君をお連れになるだろう。……ベルカントと名付けたぐらいだ。恐らくは君が──』

『フィルゼに何をしておる、オルンジェック公! まさかそんな小さな子供にまで小言を投げておるのか!?』


 紳士は続けようとした言葉を飲み込み、煩わしげな顔で後ろを振り返る。少年もそちらを覗いてみれば、台形に整えられた髭が特徴的な、何かと世話を焼いてくる老将の姿がそこにあった。


『声を落とさぬか馬鹿者。私の耳が使い物にならなくなったらどうするつもりだ』

『口だけ達者の軟弱者が! フィルゼに文句があるなら儂に申せ!』

『誰も彼に文句など言っておらんわ』


 一人正義感に燃える老将の額を鋭く叩き、紳士は溜息まじりに少年を見遣ったのだった。


『これだけ喧しい男でも離宮に出入りしておるのだ。気後れする必要はない』

『何だと!? フィルゼに何を吹き込んだ!?』

『貴公の残念さについてだ』



 ◇



 皇帝が引き入れた素性の知れぬ少年に、故オルンジェック公爵が苦言を呈したことはなかった。

 宮廷に仕える貴族の中で最も厳格と謳われた男ゆえ、血統主義の者たちがフィルゼを追い出すよう彼に訴えかけたこともあったと聞く。だが公爵はそれを頑なに退け、取り合おうとしなかったそうだ。


 ──ケレム・バヤットの話が事実なら、公爵は〈白狼〉の正体を知っていたのだろう。


 かつて帝室に仕えたベルカントの騎士。その血が途絶えてもなお皇帝の前に現れ続けた彼らの魂には、獣神の意思が刻み込まれている。

 ルスランの元へやって来た少年こそが、その系譜に当たる特別な存在だと、公爵は気付いていたのかもしれない。

 

「賢帝が倒れた後、君の取り乱しようは目も当てられなかったと聞いたよ。まるで片割れを喪ったかのようだった、とね」


 ケレムは哀れむ声音で語ったが、そこに相応の感情が乗っていないことは明らかだった。


「それもそのはずだ。君は言ってみれば神話に登場する『白き狼』で、賢帝は『少年』さ。君たちの間には切っても切れない繋がりがある」


 だからこそ、ベルカントの騎士は自ら命を絶った。守るべき主の喪失は言わずもがな、獣神から課せられた使命を果たせなかった後悔ゆえに。

 三年前、自滅の道を辿りかけたフィルゼにとって、その行いは決して他人事ではなかった。


「〈白狼〉は神話になぞらえた単なる象徴なんかじゃあない。皇帝と組紐の契りを交わし、獣神によって人の世に遣わされた尊き騎士というわけだ」


 確信に満ちた推測を語り終え、ケレムはそこで一つ呼吸を置く。

 過去にちりばめられた記憶の断片を拾い、繋ぎ合わせていくにつれて強張ってゆくフィルゼの顔を、彼はひたと見詰めた。


「しかし何とも惨い神だと思わないか、フィルゼ(・・・・)殿」

「……」

「君は獣神に選ばれてしまったばかりに、故郷を賊に焼かれたのさ。顔も知らない皇帝と引き合わせるためだけに、君の家族や友人を死なせたと言っても過言ではない。()()()()()()な。いくら狼月の守護神といえども、身勝手な振る舞いだと俺は思うがね」


 それに、とケレムは続けて言う。


「君の同胞……ヴォルカンが受けた苦難はもっと酷い。彼を支配する狂気は他でもない、獣神に起因するものだからな」


 ニメットが病と称したものを彼は狂気と評した。しかしややあって、こうも付け加える。

 あるいは呪いだろう、と。


「彼の瞳が突如として青く染まったのは、十歳の頃だそうだ。世にも珍しい、後天的に〈白狼〉の資格を与えられた稀有な男だが……理由は何だと思う?」

「……デルヴィシュが立太子の儀を行ったから──」


「そう。十七年(・・・)も前にな」


 十七年前。その数字が何を意味するのかは、考えるまでもない。

 フィルゼはにわかに信じがたい気分で、小さく舌を鳴らした。


「……皇女の組紐を使ったのか」

「ご明察。彼は奪い取った姫君の組紐を、自分のものと偽って獣神に差し出した。帝室が受け継いできた神聖なる儀式を穢しちまったのさ。そしてその罰は残念なことに、ヴォルカンのみに降りかかった」


 ケレムは言った。


 ──ヴォルカンという〈白狼〉には、二人の主人がいる。


 立太子の儀を執り行ったデルヴィシュ。

 そして、組紐の主である皇女アイシェ。

 獣神はそれぞれの命を守れと告げる一方で、神を騙してまで地位を欲した愚か者への制裁を叫び、出来損ないの分霊を絶えず叱責した。相反する声は今もなお鳴り止まず、彼の自我を日毎削り続けている、と。


「ヴォルカンは獣神の『怒り』そのものだ。もはや息の根を止めてやることぐらいしか、彼が解放される術はないだろうよ」

「……」

「フィルゼ殿。君たちの人生、そして一つ一つの行動には、必ず獣神の意思が潜んでいるんだ。──随分、図々しい話じゃないか。姿も見せずに無茶な指示ばかりして、まるで君たちを駒のように扱って。主人を守れなかった騎士に関しては、どこで野垂れ死のうがお構い無しと来た」


 視界が陰る。伏せていた瞼を持ち上げれば、そこには話し始めと変わらぬ笑顔がフィルゼを見下ろしていた。


「なぁ、君はそれで良いのか? 君たちは人間から生まれた生命体のはずだろう? ルスラン帝の次は、姫君を守って死ぬ気なのか? 獣神の導きとやらのままに……?」


 投げかけられた問いは、心の隙間にじわりと入り込もうとするかのようだった。

 フィルゼは意図して呼吸を深くすると、ケレムの眼差しを正面から受け止める。

 やがて二度の深呼吸を終える頃になって、彼は口角を上げてみせたのだった。



「……そうやって人の根本を揺さぶって唆すのが、あんたのやり方か? 悪いが俺は自分が〈白狼〉であろうとなかろうと、陛下の意思と皇女の命を守ると決めている。──部外者が口を出すな」



 剣呑な光を宿し、好戦的に笑った碧色の双眸を、ケレムはより一層笑みを深めて見詰める。


「はは……そうか。お見逸れした。君がもう少し幼ければ、ここで丸め込めたのかもしれないが……残念ながら時間が来たようだ」


 彼の瞳がつと横へズレたと同時に、牢の扉が叩かれた。


「僕だ。ここを開けろ」

「ああ、お早いご到着で。もっとのんびり来りゃ良かったのに」


 大げさに肩を竦めたケレムが、億劫そうな動きで扉を開ける。

 そうして現れたのは、金髪に藤色の瞳をした少年だった。彼はフィルゼに気付くと目を丸くして、すぐさまケレムに非難の眼差しを向けた。


「貴様、まさか皇女もここに?」

「どうかな。まだ所在は確認してない」

「先日忠告したはずだぞ。もはや陛下は政を行える状態じゃない。今は一刻も早く宮廷を立て直さなくては──」


 ケレムとは真逆とでも言うべきか、至極真っ当なことを喋る少年を、フィルゼは黙して観察する。


(……こいつ、毛玉と喋ってた子供か?)


 仮にも四騎士であるケレムと対等に話しているところから見るに、かなり高い地位にいる人物なのだろう。

 そのまま視線だけを動かしたフィルゼは、少年の腰に下がった見覚えのある宝剣を見て合点が行く。


 ──彼が今の〈白狼〉。そして恐らくは、本物(ヴォルカン)の代わりに宛てがわれた──。


「…………!?」


 フィルゼが苦い面持ちで視線を逸らしたのも束の間、彼は瞬時に元の場所を二度見した。

 少年が携えた宝剣。その刃を収める白い鞘には、同じ意匠で統一された留め具が取り付けられているのだが、そこに足を引っ掛ける形でピンク色の球体がちょこんと乗っかっている。

 腹立たしげにケレムと対峙する少年を、彼女はどこか心配そうに見上げていたが──そこでふと牢の中にいるフィルゼに気付き、ぴゃっと両足を跳ねさせた。


(何でそこに……! まずい)


 まだ動くなと咄嗟にかぶりを振ったものの、再会の喜びに突き動かされた毛玉はそのまま立ち上がってしまい、ずるりと鞘から滑り落ちる。


「きゃふっ」

「!」


 ぽて、とピンク色が床に落下した瞬間、それまで気怠げに少年の小言を聞き流していたケレムの空気が一変した。


「あ……ごめん、大丈夫?」


 目の前の男が瞬きもせずに毛玉を注視していることなど露知らず、少年がハッとした様子で膝をつく。

 しかし毛玉は人前で──それも自分のことを穴が空くほど凝視してくる男の前では口を開かない方が良いと思ったのか、ぴしりと足を上げたまま固まっていた。


「あれ……」

「セリル。他人のことを言えないじゃあないか」

「え? ──おい、何を……!」


 少年が顔を上げるや否や、ケレムがおもむろに片足を浮かせる。その靴裏で迷いなく毛玉を捉えようとしていることを察し、少年がすぐさま剣に手を掛けたときだった。

 彼らよりも速く床を蹴ったフィルゼが、少年もろともケレムに体当たりを食らわせる。背中で戒められた両腕はそのまま、二人と一緒に床へ倒れ込んだフィルゼは、未だに固まっている毛玉を振り返った。


「毛玉、隠れろ!!」

「! は、はい!!」


 フィルゼの声で弾かれたように立ち上がった毛玉が、跳ねながら廊下の隅へ駆ける。

 すると下敷きになっていたケレムがやおら身を起こし、フィルゼの鳩尾に肘を打ち込んだ。鋭い一撃をもろに食らった彼はしかし、毛玉の足を止めてはならぬと喉元まで来ていた呻き声を噛み殺す。そればかりか、眼前で翻った黒いカフタンの裾に齧りついては、その動きを僅かに引き留めてみせた。

 小さな舌打ちが聞こえたのも束の間、ケレムは煩わしげにカフタンを引きながら、傍らにあった燭台を蹴り倒す。傾いた火はピンク色の毛玉を捉えるかに思われたが、すんでのところで彼女は壁の隙間に転がり込んだのだった。


「……まさか聞いた通りの見た目とは。驚いたな」


 燭台がけたたましい音を立てて倒れる。ケレムは石壁の隙間を見つめたまま、悠然と立ち上がった。そうして慌ただしく近付く足音を振り返っては、フィルゼの襟首を乱暴に引っ掴んで言う。


「エルハン! この二人を牢に入れておけ」


 騒ぎを聞きつけてやって来た痩身の男は、衛兵を引き連れたまま困惑を露わにする。


「は……? 二人、とは」

「セリル・スレイマンの他に誰がいる。この少年は──皇帝陛下の命に背き、抹殺対象の皇女と繋がっていた裏切り者だ」

「!? 何を言って……!」


 少年は驚愕と共に抗議しかけたが、すぐさま言葉を詰まらせた。多大な困惑を滲ませて視線を彷徨わせるうちに、ケレムは無情にも重ねて告げたのだった。


「どうせお飾りの〈白狼〉だ。ここで処分したとて、陛下も咎めはしないだろうよ」



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