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12-4

『──なぁ、聞いてるのか』


 血と泥で汚れた足。だらりと投げ出した枝のように細い両腕。鉄の首輪が頬に当たり、不快さに眉を顰めたなら、見慣れぬ顔が視界に入り込んだ。


『おい。お前のことだ』

『……』

『何だってこんな場所に送られたんだ? ガキは娼館の下働きに回されたはずだろ』


 ──聞いちゃいねぇ。

 痩身の男は諦めたように言って、湿った床で不貞寝を始めた。その男と同じ牢屋で一夜を明かしたのは、それが最後だった。

 いつ起きていて、いつ眠っているのか。その区別すら曖昧な意識の中、幾度か同居人が入れ替わり、知らぬ間に季節が一つ巡った頃。


『ほら、出番だ』


 首輪に繋いだ鎖を強く引かれ、連れて行かれた先は──暗闇にいた少年にとってはあまりに眩しく、騒がしかった。

 円形の広場。それを囲う段状の観覧席。耳障りな怒号と野次を発して犇めく人の群れ。


『要らねぇとは思うが、手ぶらはフェア(・・・)じゃねえからな』


 適当に見繕われた小さなナイフを片手に、少年はぼんやりと正面の門が開かれるのを見ていた。大歓声と共に広場へ歩み出た大柄な戦士は、少年を見るなり露骨に落胆する。

 年端もいかない子供を甚振る趣味はない──そう言いつつも、彼はこの悪趣味極まりない娯楽施設の花形であり、同時にただの奴隷であった。彼にこの試合を中断させる権利はないし、それを実現できるほどの賢さも無かったのだ。

 彼にあったのは、驕りと油断のみ。


『──八百長だ!!』


 その少年が一本のナイフで戦士を下した日、場は大きく荒れた。

 賭け金を返せと往生際悪く暴れる客を宥めながら、施設を運営していた者たちも怒りを露わにする。花形として厚遇を与えていた戦士の怠慢は言わずもがな、混乱の元凶たる少年に対しても。


『誰だ、こんな薄気味悪い怪物を拾ってきたのは!? さっさと捨ててこい!!』


 首輪はあっさりと外され、少年は外に出された。


『おや。お前さん、昨日の子供か?』


 通りすがった奴隷商の男は硬い手のひらで少年の頬を拭い、そのついでに前髪を掻き上げる。

 露わになった碧色の双眸をひたと見つめ、やがて男は合点が行ったとばかりに肩を竦めた。


『……道理で……。お前さんは日陰者の手に余るだろう、おいで』

『……』

『行く当てもねぇんだろう? 安心しな、少なくともここよりマシさね』


 ──お前さんの主人(・・)に、会わせてやろう。



 ◇



 ゆっくりと意識が浮上するのに併せて、身に覚えのある湿った空気が鼻腔に触れる。

 まばたきを繰り返し、ぼやけた視界を整えると、図ったように扉が開かれた。


「やあ、気分はどうだ」


 ケレム・バヤットは親しげな挨拶と共に、牢屋の鍵を小卓へ置いた。ヤムル城塞都市の惨劇を引き起こした張本人を前に、フィルゼは静かに溜息をつく。

 背中で一纏めにされた両腕を床に押し当て、気怠さの残る体を縦に起こせば、黒衣の男の顔がよく見えた。


(地下闘技場にいた奴らと同じ、嫌な目だ)


 人を人とも思わぬような、温度を感じさせない眼差し。亡きオルンジェック公爵の息子とは聞いたものの、そこに彼のような厳格さは勿論、万民を思う熱い志は微塵も宿ってはいなかった。

 毛玉からはルスランの血筋を確かに感じたはずだが、これも個人差というものだろうか。フィルゼが微かに視線を逸らすと、ケレムが喉を鳴らして笑った。


「君とは話をしてみたかったんだ。賢帝の小さき狼殿」

「……俺はあんたと話すことなんて無い」

「そう言ってくれるなよ」


 閉ざした扉に背を預け、ケレムはおどけたように言う。


「先日のブルトゥルでの一件、あれは実に興味深かった。ヴォルカンと張り合える君の実力は言わずもがな──君がひた隠しにしていた姫君も」

「……」

「俺はあまり神霊というものを信じない立場だが、君たちに関しては認めざるを得ないかもしれないな。この狼月には、人ならざるものが()()()()()()と」


 その言い回しに不快感を覚えつつも、フィルゼは僅かに眉を動かす程度に留めた。

 狼月の成り立ちを疑問視する者は、これまでに数え切れぬほど存在した。広大かつ肥沃な大地を治める帝室をどうにかして貶めんとする輩は当然のこと、非現実的な神話が絶大なる権威の裏付けとして用いられることを嫌い、ルスランに物的証拠を要求した恐れ知らずな歴史学者だって出没したことがある。

 しかしルスランを含む歴代皇帝は、彼らの声を突っぱねることなく、寧ろ積極的に調査を勧めた。


『獣神には未だ謎が多い。遺跡の発掘作業は常に人手不足ゆえ、貴公らが助力してくれるのなら助かるな』


 帝室の人間は、他の誰よりも己のルーツを明らかにしたがっていた。

 大恩だけを残して消えた白き狼の行方を、自らの肉体に流れる血の正体を。

 彼らの切望、あるいは好奇心を前にした批判者は、揃ってその暴力的な口を閉ざし、霧のかかった過去を紐解くことに専念した。

 残念ながら彼らの尽力も虚しく、獣神には今もなお分厚いベールが掛かったままだが──脳裏によぎる淡いピンク色を意識の外へ追い出すべく、フィルゼは瞼を閉じた。

 意図して作った闇の中、ケレムの声が聞こえてくる。


「なぁ、小さき狼殿。ニメット・ダリヤと何を話した?」

「……」

「あのお節介な女のことだ。どうせ君とは敵対するどころか、戦闘の中止さえ求めたんじゃあないか? ──狂気に堕ちた哀れな戦士(ヴォルカン)のためにな」


 ヴォルカン──兜を隔てた薄闇の向こう、自身と同じ碧色が煌めいた瞬間がよみがえる。


『これは貴方のためにも言ってるのよ! ヴォルカンは──』


 続けて頭に響いたニメットの声。フィルゼは彼女が言わんとしていた言葉の先を、静かに紡いだ。


「俺と同郷なんだろう、あの男」


 それはもうどこにも存在しない、記憶の彼方に消えた故郷。

 かの地に暮らしていた人々は、ただ一つの温もりを小さな額に残して、幻と化した。

 フィルゼはゆっくりと瞼を持ち上げ、歪な笑みを湛えた男を見据える。


「……ケレム・バヤット。俺はそれほど気が長くない。何か話したいならさっさとしろ」

「くく、聞いていた以上に肝の据わった男だな。良いだろう、俺も本題に入りたかったところだ」


 ケレムは愉快げに肩を揺らし、懐から何かを取り出した。小さなコイン状の薄金を気怠く一瞥し、おざなりな手つきで床へ放り投げる。

 黄金色のそれはフィルゼの足元まで転がり、幾度かの旋回を経て倒れた。


「見覚えは?」


 短く問われ、視線を遣る。薄金の表面に刻まれた狼の紋様は、フィルゼにとって馴染み深いものだった。

 狼月において最も意味のある称号、〈白狼〉。それは神話の少年を守り導いた存在と同一視され、時に皇帝よりも強い影響力を発揮する奇妙な存在である。

 この薄金は、彼らの権威を象徴する証。叙勲を受けた〈白狼〉が、公の場で身に付ける最も格式高い勲章の一つだった。


「そこに刻まれた狼の紋様は、とある家門の印が元になっている。トク家が台頭するよりも前、帝室に絶対の忠誠を誓った騎士たちの紋章さ」

「……騎士?」

「そう。ベルカントという名のな」


 微かに呼吸を詰めたなら、顎を強く掴まれる。目の前の男は、まるで仕入れた商品を検めるかのような眼差しでフィルゼを見つめていた。

 その底なし沼のように淀んだ瞳が、にたりと笑う。


「教えてくれないか、小さき狼殿。歴史から消えた『ベルカントの騎士たち』とは何者だったのか。賢帝が何故、その名を君に与えたのか」

「……それを知ってどうするんだ」

「なに、単純な好奇心さ。君と、君が忠犬よろしく守ろうとする父娘との関係について、俺はとても興味がある」


 ベルカント──ケレムの言う通り、それはフィルゼが叙勲を賜るよりも前に、ルスランから授けられた名だ。

 当時ルスランはこの名を与えるにあたって、特別な理由は語らなかったように思う。少年が小姓としての教育を終えたら、そのまま宮廷人として活躍するであろうことを考え、あらかじめ家名を与えたのだとフィルゼは理解していた。

 ゆえに、ベルカントの名にどんな意味があるのかなど、彼は知る由もない。

 問いを投げたケレムもまた、フィルゼが己の名について深く言及したことがないと分かっているのか、大した落胆は見せず。


「なら、今から俺の推測を話そうか。小さき狼殿、君は──皇帝殺しの罪を着せられ、狼月を追われてしまったベルカントの末裔だろうさ」

「皇帝殺しだと……?」

「ああ。亡きオルンジェック公……俺の親父だが、彼の書斎に資料が残っていたよ。大昔、時の皇帝が暗殺され、事件の容疑者として仕立て上げられたのがベルカントの騎士だった。その若く優秀な騎士が、皇帝の信頼を一人で独占していたがゆえに、他の貴族が愚かな計画を企てちまったんだと」


 どこかで聞いたような話だな、とケレムは笑い、フィルゼの顎を解放した。


「聖君がどれだけ理想的な国を築こうとも、民を端から端まで満足させることは不可能だ。満足すれば次の欲が生まれ、それを満たせばまた更なる欲が……これは君もよく知っていることだろう?」

「……」

「だからこそ狼月の皇帝は、己の志を支持するただ一人を信頼してきた。それがベルカントであり、その末裔である歴代の〈白狼〉だ」


 足元に落ちた勲章を拾い、指で弾く。軽やかな音と共に宙を舞ったそれが、再びケレムの手に収まった。


「……さて、ここで不思議なことが起こる。ベルカントの騎士は狼月を追われた後、皇帝を喪った悲しみに耐えきれず自害したというんだ。つまりベルカントの血は、事実上そこで途絶えている」

「!」

「だがそれ以降も〈白狼〉は、生まれは違えど何度も皇帝の元へ現れた。ベルカントの騎士と同じ、碧色の瞳をした剣士がな。そして皇帝もまた、それがかつて離れ離れになってしまった忠臣だと分かっているかのように、同じ称号を与えて傍に置いた」


 ──まるで『運命』のようだと思わないか。


 ケレムは芝居がかった口調で告げ、不可解げに床を見詰める〈白狼〉の双眸を覗き込んだ。


「小さき狼殿。帝室に伝わる立太子の儀は当然知っているな?」

「……組紐の」

「そう、組紐。皇帝と獣神を結ぶ、唯一無二の繋がり。……つまり君たち(・・)は、組紐を受け取った獣神の分霊そのものだと俺は考えている。形なき魂が肉を纏い、人として生まれ、組紐の匂いを辿って必ず主人の元へ向かえるよう設計された──神聖な忠犬だ」


 

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