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12-1

 暗く湿った廊下に、重々しい音が響く。

 閉ざされた扉の奥、横たわる囚人は微動だにしない。格子の嵌められた覗き穴から顔を離し、自然と漏れ出た溜息を手のひらで受け止める。


「……まさか本当に捕まえるとは」


 エルハン──度重なるストレスに耐えかねてヤランジュの事務官を辞するや否や、半ば攫われるように〈豺狼〉の元へ連れて来られた彼は、早々にケレム・バヤットの手腕を目の当たりにしていた。

 しかしそれは鮮やかと言うより、不気味と評した方が相応しい。

 見たところトク家の使用人に間者を放っているのは間違いなしで、ケレムの駒は他にも多く配置されていると考えて良いだろう。それこそ狼月の人間に限らず、彼が懇意にしているタシェ王国の助力も受けているのではなかろうかと、エルハンは苦々しく口角を歪めた。


(見張りの兵士も……明らかに狼月の出身ではない)


 牢獄の扉を出ると、そこには異国の血を感じさせる顔立ちが二つ並ぶ。大きめの鼻に窪んだ目元、ぎょろりとしたグレーの瞳に射抜かれたエルハンは、訝しむ心を隠して会釈を返した。




「やあ、エルハン。狼はまだぐっすりか」

「はい。……まさか彼を餌に皇女殿下を釣るおつもりですか?」

「そのつもりさ」


 ケレムの軽々しい肯定に、エルハンは難色を示すほかなかった。

 渋面を維持したまま、この何とも息苦しい部屋の換気をすべくカーテンを開ければ、くつくつと笑う声が耳朶を擽る。


「何が気に入らない?」

「皇女殿下の側にはまだ四騎士が二人もいらっしゃいます。殿下ご自身が現れるとは到底思えません」

「そうか? 君は帝室の人間がどういう思考をしているのか、まだ分かってないみたいだな」

「思考、というと」


 古びたアームチェアに腰掛けた男は、黒いパンツに包まれた長い脚を組み、ゆるりと首を傾けた。


「彼らは(クルト)と同じで、自分の群れが害されることを極度に嫌う。家族、友人、民……思い入れのある相手なら尚更な」

「だから皇女殿下も、ここでベルカント殿を見捨てることはないと?」

「賢帝の実子なら確実に」

「……そうですか」


 歴代皇帝とそれに連なる血筋が、民を守るために争いを繰り返してきたことはエルハンも知っている。ケレム曰く、その理想的な君主然とした姿勢こそが、帝室の信念だということなのだろう。

 だとすれば──己の欲に逆らえず、身内殺しを決行したデルヴィシュが、皇帝の器でないのは明らかだ。

 エルハンは逡巡の末、静かに口を開く。


「……ヤランジュ様は、貴方が狼月の新たな皇帝になるのだと豪語していました」

「んん?」

「皇女殿下を捕らえようとしているのも、陛下の命に従っているわけではありませんよね。……本当に帝位を狙っていらっしゃるのですか?」


 ケレムはその問いかけに、「まさか」と嘲笑を返すだけだった。

 勢いを付けて立ち上がった彼は、そのまま悠然とした足取りで部屋を出て行ってしまう。


「エルハン、備えておくと良い。そろそろ客人が来る頃合いだ」

「え?」


 新しい主人は指示らしい指示をしない。試されているのか、意外と信用されているのかは不明だが──エルハンはちらりと外を見やり、浮かんだ幾つかの可能性に眉を顰める。


(……皇女が来ると? 本当に? 来るとしても早すぎないか?)


 彼は信じられない気分で、早足にケレムの後を追いかけた。



 ──そうして誰もいなくなった廊下の隅っこ。

 突き当たりの角から、ひょこ、とピンク色が顔を覗かせる。


「…………ここ、どこでしょうか……!」


 ケレムの言う客人こと毛玉は、小さく呟いたのだった。



 ◇



 遡ること数日前。


『フィルゼさまが、いません……!』


 毛玉がぺしゃりと地面に伏せ、えんえんと泣き咽ぶ。

 いつもより半分ほど小さくなってしまったピンク色の後ろには、同じく悲しげなメティを連れたカドリと、今朝早くに合流を果たしたレベントとエスラの姿もあった。彼らの表情は皆一様に険しかったが、それでも毛玉ほど大きく取り乱すことはなく。

 やがて、じっと周囲を観察していたレベントが口を開いた。


『毛玉のお嬢さん、この辺りに独特な匂いが漂っていたんだね?』

『はい……ヘビさんが臭いと仰ったので、来た道を引き返させたんです。それでわたくしだけで奥へ進んだら、フィルゼさまが倒れていて……えーん……』

『フィルゼもその匂いに気付いて、何かしらの対処をしようとしたのかもしれないね。お嬢さんは平気だったのかい?』

『あぅ、はい、わたくしは何とも』


 レベントがぺしょぺしょと泣いている毛玉を両手で掬い上げる傍ら、悔やむように眉間を押さえたカドリがかぶりを振った。


『……〈豺狼〉の仕業かもしれない。奴は毒物の扱いに長けている。これまでにも我が家の使用人が散々被害に遭ったからな』

『あたしもそう思うよ。こっちの動きを把握した上で、フィルゼと姫様を狙ったんだろうさ』


 恐らくはセダたちがレオルフ王国へ逃れることも、四騎士が陽動としてデリン大橋を襲う計画も、〈豺狼〉は事前に知らされていたのではないだろうか。

 生憎、こちらには間者が潜んでいることだし──エスラは口にはせずとも、忌々しげに舌を鳴らした。


『どうする? 一旦レオルフに引き上げるか』

『うん……今ならまだデリン大橋を渡れるはずだよ。お嬢さんとカドリ殿を送り届けてから、僕たちでフィルゼを捜そうか』

『!! ま、待ってくださいレベントさま、エスラさま! フィルゼさまを助けるなら、わたくしも参りますっ!』

『えっ。お嬢さん、気持ちは分かるけど──』


 ひょこひょこと飛び跳ねながら訴える毛玉を、レベントがやんわりと宥めようとしたとき、彼女の姿を見たカドリが「いや」と言葉を挟む。


『……獣神の力があれば、フィルゼ殿を早く見付けられるはずだ。幸い、この子は薬物の類も効かないようだからね』

『はい! わたくし、きっとお役に立ちますから、どうか……!』


 レベントが困ったような笑みでエスラを見やれば、彼女は逡巡の末に苦笑を返した。


『姫様の勇気を尊重しようじゃないか。何、あたしらが守れば良い話さ』

『エスラさま……!』

『ただし無理はしないこと。いざとなったら、姫様のご友人たちが離脱させてくれるとは思うけどね』

『はいっ、お約束します! ではさっそくフィルゼさまの行方を尋ねてみますね! ──森の皆さーん!』


 「森の皆さん?」と全員が首を傾げたのも束の間、召集を聞いたあらゆる生き物が毛玉の元へ集結してしまい、しばらく混乱が続いたのは言うまでもなく。

 錯綜する情報を何とか皆でまとめ上げ、毛玉たちはフィルゼが〈豺狼〉とおぼしき者に捕まったことと、彼らがもぬけの殻となったはずの軍事要塞──「風吹き砦(ルズガル・ヒサル)」に向かったことを突き止めたのだった。




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