11-7
「……記憶を封じた後、その子は瞬く間に人の姿を失った」
見慣れたピンク色の球体は、されどいつもより少しばかり不安定な体をしていた。記憶を全て失ったせいか、ちょっとでも衝撃を与えれば、触れたところから立ちどころに崩れてしまいそうな状態だったとカドリは言う。
「どうしたものかと悩む暇もなく、茂みから獣が大勢現れて……その子を森の奥へ運んで行ったんだ」
初めて毛玉と出会った夜、彼女が細切れ状態だったのは、体の形を決定付ける記憶が空っぽだったから。そして彼女が木に引っ掛かっていたのは、獣たちによって安全な場所に隠されたから。
何とも不可解だった状況の全てを、フィルゼは今このときようやく理解した。
「私は正直、あのままどこか遠くへ連れ去ってしまったんだと思っていたよ。数日かけて兵士を撒いて急いで森に戻っても、彼女を見つけられなかったから」
「ちょうど、俺と入れ違いになったみたいだな」
「そのようだね」
カドリは首肯を返すと、「まったく」と苦笑まじりに肩をすくめた。
「獣神も贅沢な御方だ。わざわざ遠方にいたフィルゼ殿を呼び寄せるとは」
「……」
何も言葉が出てこなかったフィルゼは、おもむろに膝頭へ視線を移す。そこに座る毛玉はじっと岩肌を見詰めたまま、何かを考え込んでいるようだった。
「……毛玉、大丈夫か」
「はっ」
毛玉はわたわたとこちらを振り返り、小刻みに体を縦に揺らす。見たところ体調に変化はないようだが、フィルゼは一応その頭を指の腹で撫でておいた。
すると彼女はどこか落ち着きを取り戻した様子で、くるりとカドリの方へ向き直る。
「あの……カドリさま」
「何かな」
「わたくし、つい先日、妖精さんのことを夢で思い出したばかりだったのです。きっと、そのお話をした相手もカドリさまだったのですね……」
それに、と毛玉は小さな足をもぞもぞと動かした。
「デリンの街でカドリさまのお名前を聞いたときも、どこか聞き覚えがありました。セダさまのお名前を聞いたときは何も分からなかったのに」
「そうか。……旅を経て、少しずつ記憶が戻り始めたようだね」
「そうなのでしょうか……。でもわたくし、カドリさまが仰る鍵とやらは、見つけた覚えがなくて……」
カドリは逡巡を挟み、「ときに、人の姿には戻れるようになったのかい」と尋ねる。
「記憶を失う以前とは、明らかに様子が違う。君はその姿でいる間、殆ど意思の疎通を図れなかったはずだが」
「あっ、は、はい! 森で目覚めたときは何だかふにゃふにゃしていましたが、今ではちゃんとお話できますし、何と人間にもなれます……!」
「いや、最初からよく喋ってはいたぞ」
「そうでしたか! よく喋っていたみたいです!」
フィルゼと毛玉のやり取りに、カドリはくつくつと肩を揺らして笑った。
「何はともあれ、その調子なら記憶は徐々に戻りそうだね。鍵はきっと──君が歩んだ旅路の形をしているのではないかと、私は思うよ」
「旅路……」
毛玉は小さく反芻して、フィルゼを見上げる。やがて彼女は途端に花びらのような綿を散らせて、上機嫌に足を揺らしたのだった。
やがて日が沈むのに併せて、毛玉がいつもの如く突然眠りに就いた頃。
フィルゼは毛玉をそっとメティの側に寝かせつつ、静かに口を開いた。
「……カドリ。あんたは、これから皇女にどう在ってほしいんだ?」
小さなピンク色を慈愛の眼差しで見詰めていたカドリは、その問いに微笑を返した。
「母上の気持ちと同じだと思うよ。私はアイシェに生きてほしい。それがどんな形であっても」
「……」
「君は? ……ルスランの娘を、帝位に就かせたいと思うかい?」
フィルゼは暫し沈黙を挟み──はっきりと首肯した。
「……陛下の騎士としての立場なら、そう答えるだろう。その一方であんたと同じように、ただ生きてくれればいいと思う自分もいる」
しかし、これだけは明確にしておかねばなるまいと、フィルゼは少しの躊躇と共に言葉を続ける。
「でもカドリ。今までの旅で、毛玉は一度たりとも誰かを見殺しにしなかった。他者を助けるためにたった一人で戦場を駆ける勇気と、それを実現させる力が今の彼女にはあると知ってほしい」
「……」
「……毛玉は確かに怖がりで、泣き虫で、弱々しいが……──ずっと、あんたたちと一緒に戦う心積もりは、あったと思う」
カドリが微かに息を詰めるのが分かった。
フィルゼとて、人の精神状態に詳しい彼が、毛玉の気持ちに全く気付かなかったとは考えていない。獣神の力の不安定さゆえに、彼女が皆に迷惑をかけまいと必死に口を噤んできたことは、カドリも薄々勘づいていたことだろう。
別れの日、彼女が大切な思い出を全て手放すことを了承したのも──自分が足手まといにしかならないから、血を吐く思いで受け入れたのだと。
「だから俺は、毛玉が帝位に就くと言ったら受け入れる。その逆も然りだ」
彼女の幸せは彼女自身が決めるものだ。そして少なくとも、大切な人間全てを犠牲にして生き残ることは、それに該当しない。
フィルゼは強欲と知りながらも、続く言葉を口にした。
「俺は剣を振るうことしか出来ないが、彼女の……皇女の理想に応えたい。武力ではなく、言葉によって互いを理解し受け入れる、平穏な未来が見てみたい」
願わくば、二度と剣を振るう必要がない世界を。
そうなれば自分の存在意義はなくなるだろうが、最近ではその方が良いとさえフィルゼは思うようになった。これは毛玉の姿勢を間近で見てきたからこそ生まれた変化なのかもしれないと、彼は静かに瞼を伏せる。
「……あんたたちに、毛玉の気持ちを考慮する余裕がなかったことは分かってる。だが今後は俺たちもいることを忘れないでくれ」
カドリはフィルゼの語りを黙して聞き終えると、ふっと相好を崩す。ちらり、ピンク色の毛玉を見遣ったかと思えば、やわらかな声で告げた。
「初めての冒険で、良い出会いを手に入れたようだ。可愛い子には旅をさせよとは、よく言ったものだよ」
「…………悪いが俺はそこまで大した奴じゃない」
「自覚がないだけさ。今の言葉を聞いたら、ルスランも安心するだろう」
そう言われてフィルゼは亡き主人を思い浮かべようとしたが、あまり上手くはいかなかった。
己を物言わぬ剣と見なしていた未熟な少年は、誰よりも敬愛していたはずの相手がどんな未来を夢見たのか、そのために何を諦めたのか──卑しい孤児を〈白狼〉に据えた理由さえ、何も知ろうとしなかったから。
一抹の後悔に瞑目し、フィルゼは話題を切り替えた。ふと、思い出したことがあったのだ。
「カドリ。毛玉の組紐を見たことはあるか?」
「組紐というと──帝室の?」
「ああ」
本来ならこれはセダに確認すべき事項だったが、如何せんブルトゥルでは出発の準備に追われて、ゆっくりと話を聞く機会を逃してしまっていた。
フィルゼは小さな毛玉を一瞥し、声を抑えつつ事情を説明した。
「オルマン村で彼女の組紐を見たが、不自然に千切れていたんだ。何があったか知らないか?」
帝室の組紐は、当人以外が目にする機会は殆ど無いと言われている。皇帝の組紐が獣神の使いへ渡ってしまうのは言わずもがな、そうでない者も死後は副葬品として棺の中に入れてしまうため、故人の組紐が後年に残されることはない。
いずれにしても帝室の人間は、組紐を神聖なものとして扱う。セダから教育を受けたであろう毛玉もまた、帝室の慣習に則り組紐を大事に保管したはずだ。
フィルゼの言わんとしていることを察してか、カドリはその右目に些か剣呑なものを滲ませて頷いた。
「……君が予想している通りだよ。その子の組紐は一度、デルヴィシュの手に渡ったことがある」
「!」
「エジェ殿の死を公表した数年後、怪訝に思ったデルヴィシュが自らトク家に探りを入れてきたんだ。母上が応対する間、私は急いで赤ん坊だったその子を隠したけど、組紐は──」
「盗まれたのか」
食い気味に尋ねれば、カドリが溜息まじりに首肯を返す。
あの男はどこまで毛玉の大事なものを踏みにじれば気が済むのだろうかと、フィルゼは煮え滾る怒りを抑え込むべく、奥歯を強く噛み締めた。




