11-6
『アイシェ』
真っ暗な茂みに蹲っていたのは、小さな背中だった。声も上げずに泣き咽ぶ少女の側には、父も母も、使用人も、誰もいない。
あってはならない光景を愕然と見詰めたカドリは、弾かれたように彼女の元へ駆け寄った。
『アイシェ、立てるかい。まだ近くに兵士がいる。今すぐ逃げよう』
『……カドリ、セダが……セダが、屋敷の下敷きに……皆も、たくさん怪我して、どうしよう』
肩を引き寄せる手が一瞬止まるも、迷いはすぐに消えた。泣きながら母の名前を呼び続けるアイシェを抱き上げ、無理やり足を動かしては屋敷から遠ざかる。
──乳兄弟のルスランがこの世を去った後。星合の島々で蓄えた知恵の全ては、彼の娘アイシェに注がれることになった。そのやわらかな心を内側から守るため、あるいは、彼女の体に宿る獣神の力を解き明かすために。
カドリが今回帰郷したのは、まさに後者の件に関して試したいことが出来たからだった。
アイシェが神々の世界に拐かされやしないかと不安がる母のためにも、カドリは定期的に霊術師たちを訪ねては獣神の力を制御する糸口を探しているが、未だ明確な効果は得られていない。ゆえに今回こそ何か前進するのではないかと、仄かな期待を抱いていた矢先……こんなことが起こるとは。
『……今は生き延びることだけを考えるんだ。それが君の務めだよ、アイシェ』
自分だけで皇女を守れるのか。
どれだけ逃げられるのか。
どこまで逃げれば良いのか。
自問する声を振り払い、カドリは思考をまとめる時間も惜しいとばかりに日夜歩き続けた。
ルスランを亡くしたときと同じか、それ以上に虚ろな顔をするアイシェに胸を痛めつつ、カドリは懇意にしていた商人を頼り、レオルフ王国へ逃れる算段をつけた。
現状、狼月の皇女であるアイシェを託せるのは、友好国の主でありルスランの友でもある太陽の王しかいない。
それに。
(レオルフには、ルスランの『小さき狼』がいるはず)
あの悲惨な事件から三年。彼が今もなお誇り高き〈白狼〉であるなら、アイシェの護り手を担ってくれるかもしれない。
カドリは孤立無援の状況から脱すべく、微かな希望を掴まんと国境を目指した。
──しかし、彼が選んだ脱走経路は、あえなく潰されることになる。
『カドリ……!』
悲鳴混じりの呼び声を制し、カドリは赤く濡れた右肩を押さえながら、崩れ落ちるように茂みに隠れた。傷を案じるアイシェの背を抱き込み、松明で照らされた森をちらりと見遣る。
普段ならば静寂に包まれているはずの森に、大勢の狼月兵が犇めいていた。まるでカドリがこの森を必ず通ると目星をつけていたかのような正確さで、彼らは突然姿を現したのだ。
(数が多すぎる。正面突破は無理だ)
これで相手が一人や二人だったなら、アイシェだけを先行させて時間を稼ぐことも出来たというのに。
カドリは意識して呼吸を深くし、傷の痛みと苛立ちを口から逃がす。自分が父のような勇猛な騎士だったらと、後悔する気持ちが今になってぶり返すのも無理はなかった。
しかし、それもアイシェの顔を見ればすぐさま治まる。今にも倒れそうな青褪めた頬を見詰め、カドリは腹を決めることにした。
『……アイシェ。少し場所を移そう。身を低くして、ゆっくり進むんだ。できるね』
幼い頃、それこそ生まれて間もない頃からその成長を見守ってきた少女を、こんなところで死なせるつもりは毛頭ない。
例えそれがどんな形になろうとも、この少女だけは生かさねばならなかった。
『良いかい、アイシェ。私の目をよく見るんだ』
松明の火が届かない、静まり返った森の中、カドリは語り掛ける。
『君は次に目を覚ましたとき、全てを忘れることになる。自分の名前も、私も、母も、父も、使用人たちも──君の両親のことも』
『……え?』
『霊術師としては、あまり褒められた行為ではないが……今回ばかりは星々も許してくれよう』
視力を宿さない左目に、微かな印が浮かび上がる。絡み合った蔓を連想させるこの奇妙な印こそが、彼が霊術師としての才能を見出された最大にして唯一の理由であった。
霊術師と呼ばれる者の中には、瞳に〈星〉を持つ特殊な存在がいる。探究によって知識を得た他の霊術師と一線を画す彼らこそが、古来より「霊術師」と呼ばれる存在の正体でもあった。
『アイシェ。全ての記憶を失った君はきっと──人間の姿を保てなくなるだろう。だが今はそれでいい。獣神の加護の下でなら、君は決して敵に見つからないはずだ』
アイシェは己の身に何が起きるのか、次第に理解したようだった。こぼれおちそうなほどに見開かれた双眸に、じわりと涙が滲み始める。
『カドリ、どうして……い、一緒に、逃げないのですか……?』
『私一人では君を守れない。でも君一人なら確実に生き延びられる。君があんなにも小さな姿になれるなんて、彼らは知らないんだよ』
『わ、わたくし、あの姿になってはいけないと、セダに言われました』
『ああ』
『長くあの姿でいれば、人に戻れなくなるかもしれないと』
『ああ、そうだ』
カドリが重ねて肯定するのを、アイシェは途方もない困惑と共に見詰めていた。
ルスランが死に、ティムールは幽閉され、セダの生死も分からない状況下、カドリまでもが側を離れてしまえば、アイシェの名を呼ぶ者はいなくなる。つまり、これから記憶を失う彼女が、あの姿から人間に戻れる術を完全に失うということだった。
『獣神の力は君の記憶に基づいて変容する。今一度言うが、君が君自身を忘れれば、人間の姿を取ることは難しくなるだろう。私は暫し、その特性を利用するつもりだ』
『……』
『君の小さな友人たちと、ここに隠れていてくれ。せめて、この夜が明けるまでは』
『カドリは』
『私も逃げるよ。大丈夫。相手が父上でもなければ後れは取らない』
それが気休めの言葉でしかないことを分かっていたアイシェの顔色は、なおも悪いままだった。
だが、彼女は決して分別のない子供ではない。親しい人間を心配する心とは別に、自分がいることで逃走に不都合が生じていることも理解している。常であれば否定するところだが、カドリはあえて何も言わなかった。
今は、彼女の罪悪感さえも利用するしかない。言葉を並べて納得させるには、あまりに時間が足りなかった。
『記憶は……もう、二度と戻らないのですか?』
ぽつり、アイシェが尋ねた。
『……いいや。記憶を消すとは言ったが、厳密には封をするんだ。君の心の奥深く、簡単には取り出せない場所に……固く、鍵をかける。それが私の〈星〉に宿る性質だ』
『鍵……』
『そう、鍵だ。そしてその鍵穴がどんな形をしていて、どこに鍵があるのかは、私にも分からない。君が自分で探し出さない限りは』
本来、霊術とはそういうものだった。悩める他者の魂に呪いにも似た作用を施し、その者自身の力で打ち勝たせる──荒療治と言わざるを得ない神秘。
その光景がさながら、神が人に与える試練のように見えたものだから、霊術師は称えられ、畏れられ、迫害され、人々の目から隠れることを選び、今に至る。
『アイシェ。私は一つ、仮説を立てている。……獣神が幾度となく君に語りかけ、獣たちと共に屋敷の外へ連れ出そうとしたのは──君の、遠い昔の記憶に眠る願いを、叶えるためじゃないのかと』
仮説と前置きながらも、カドリはある程度の確信を交えて告げた。
無論、アイシェに自覚はないだろう。彼女のおぼろげな記憶を覗き、哀れんだ獣神が、慈悲の心をもって様々な働きかけをしていると考えるのが妥当だった。
姿なき獣神は常に、この少女を最優先に考えて動く。
──運命という形を真似てでも。
『……アイシェ。君が昔、何度も話してくれた妖精に、会いに行きなさい』
未知の獣神を恐れるあまり、狭い屋敷の中から出してやれなかったことを、カドリは最後に謝った。




