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『フィルゼ・ベルカント。その実力と功績を称え、そなたを四騎士に任命することを、ここに宣言する』
肩に乗せられた剣の重み。
強く射し込む朝日の眩しさ。
呼吸すら憚られるほどの静寂。
張り詰めた空気を纏い、白き玉座の間に充満させた男はしかし、それを為した口と同じ場所から柔らかな声を紡いだ。
『期待しているよ。我が〈白狼〉』
横にした剣を両の手で受け取る、最中。
頭痛がするほど厳しく言いつけられた作法を破り、目線を持ち上げてみれば、優しげな笑みが少年を出迎えた。
『はい』
ついつい返事をしてしまうと、男は目を丸くして、噴き出すように笑ったのだった。
──狼月を治める皇帝は、自身を守る盾、あるいは剣として四人の騎士を選ぶ。
先代皇帝ルスラン・ジェム・タネルにも、古き慣習に則り、優秀な四名の戦士がこれに任命されていた。
〈大鷲〉のティムール・トク。
〈鷹隼〉のエスラ・ディラ。
〈鷺鷥〉のレベント・コライ。
そして最年少ながら、狼月において最も意味深い〈白狼〉の称号を授けられた、フィルゼ・ベルカント。
長らく空席だった四人目の騎士に十代半ばの少年が選ばれたことは、当時よくも悪くも大いに騒がれた。況してや、その少年が出自の定かでない子供と来れば、貴族の反発はより大きくなったものだ。
しかし彼が数多の暗殺者を屠り、皇帝の命を救ったばかりか、急襲によって敵国に囚われてしまった母后の身柄をも奪還したとなれば、異を唱える者は次第にいなくなった。
フィルゼはいつしか国内外から、「ルスランが手懐けた小さき狼」と呼ばれるようになる。
彼が皇帝の傍にいる限り、狼月の平穏は崩れないとまで謳われたが──。
『陛下!!』
皇帝ルスランは三年前、若くしてこの世を去った。
小さき狼の腕の中で。
◇
「申し訳ございません!! ま、まさか同じ銀髪と言えども〈白狼〉様とは露にも思わず……!」
「三年前はもっと背が低かったからな」
「いえそういう意味では!!」
地べたに平伏した灰色髪の青年──イーキンは悲鳴混じりに叫んだ。
単なる揶揄いのつもりが予想以上に竦み上がらせてしまったので、フィルゼは「冗談だ」と彼の肩を叩く。
「〈大鷲〉の爺さんと違って、俺はもうただの平民に戻ってる。そんなに畏まらないでくれ」
「し、しかし……」
「この三年で何があったのか教えてくれないか? 俺は爺さんが幽閉されたって話を聞いて、狼月に戻ってきたんだ」
顔を上げたイーキンは、今にも泣き出しそうな表情で唇を噛み、再び額を地面に擦り付けた。
「……ルスラン皇帝陛下が崩御され、〈白狼〉様を含む四騎士の方々がその地位を追われてから……狼月は変わってしまいました」
ルスランの死後、帝位に就いたのは彼の弟であるデルヴィシュ・バイラム・タネルだった。
彼はそれ以前から大公として自身の領地を運営していたが、その評判はあまり芳しくなく、彼が皇帝になると聞いた領民たちはひどく落胆したそうだ。
曰く、狼月はそのうち滅ぶだろう、と。
彼らの嘆きを聞いた人々は何と大袈裟なと、初めこそまともに取り合わなかった。しかしながら、その気楽な態度が続いたのは本当に僅かな間だったとイーキンは語る。
「デルヴィシュが帝位に就いて、初めに何をしたと思います? 宮殿の改築ですよ! 普通に考えてルスラン陛下の国葬を行うべきだったのに、自分の即位を世に知らしめることを優先したんです……!」
そればかりかデルヴィシュは改築に伴い、宮殿のありとあらゆる場所からルスランの痕跡を消したという。
肖像画を全て燃やし、ルスランを称える彫像も粉々に砕いて、彼が愛用していた避暑地の離宮さえも取り壊した。
死者への冒涜、あるいは蹂躙とも言える行動の数々に、ルスランを慕っていた民からは当然ながら批判が噴出したが……。
「デルヴィシュへの非難を口にした者は、貴賤問わず片端から処刑されました。逆らった罰と言わんばかりに、各地に設置されていた軍事要塞も強制停止させて……そのおかげで兵を持たない町や村は、次々と賊に襲われてしまいました」
ふと、自治都市で出会った絨毯売りの少年の言葉がフィルゼの脳裏をよぎる。
『前の皇帝が建てたヤツ? 今は使われてないよ。もう廃墟同然だって母さんが言ってた』
あれは自治都市に限ったことではなく、狼月全域に当てはまる話だったのだろう。
何よりも民を重んじるルスランが建築を命じたという要塞は、狼月において治安維持の要とも言える軍事拠点だったのだが──デルヴィシュはあろうことか、それら全てを民の手から取り上げてしまったという。
一部の狼月兵は民の安全を守るべく要塞に残ろうとしたが、維持費に必要な予算が回されなければ、やはりどうすることも出来ず。各要塞は半年も経てば空っぽになった。
「狼月軍の上層部もごっそり入れ替えられて、今じゃロクでもない貴族ばかりが権力を握っています。要塞に派遣されていた監査官がいなくなったことで、横暴な態度を取る領主も増えてきました」
イーキンはそこで一旦言葉を区切ると、怒りとやるせなさを鎮めるためか、深く息を吐き出した。
「……皆、ルスラン陛下がどれだけオレたちに寄り添ってくれていたのか、改めて痛感する日々を送っていることでしょう」
少なくとも自分はそうだと、イーキンは沈痛な面持ちで項垂れた。
領地での過度な徴税はもはや当たり前で、やむなく身を売る者は後を絶たない。どんどん煌びやかになっていく宮殿に反し、民の困窮は留まるところを知らず、自治都市や国外に逃げる者だって珍しくないという。
デルヴィシュの即位が決まった当時、フィルゼもある程度は狼月の平穏が崩れることを予期していたが──これは、些か度が過ぎているようだった。
「……あの町が秩序を保っていられるのは、ひとえに貴族の支配が弱いからか」
先程飛び出してきた自治都市を振り返れば、イーキンが「ええ」と頷く。
「ですが、いつまで持つか……。賊討伐をギルドで募るのにも限界がありますし、皇帝が潰しに掛かる可能性もゼロじゃありません」
「そうだな。……で」
狼月がたった三年で見るも無惨な状態になったことは十分理解した。
フィルゼは再びイーキンに視線を戻すと、もう一つの問いを投げかける。
「あんたたちが〈大鷲〉の爺さんの元に集まった理由は?」
先代四騎士の筆頭とも言える〈大鷲〉──ティムール・トクという老人は、フィルゼの印象で語るのなら「非常に頑固で厳格で鬱陶しいぐらい正直な男」だ。
また、根っからの武人でありながら貴族の出身でもあるため、デルヴィシュの暴政に正々堂々と異を唱えたはずだろう。
……それじゃあ幽閉されるのも時間の問題だったのでは、などと口を滑らせると、彼を尊敬しているイーキンが毛玉よろしく「えーん!」と泣いてしまいそうなので黙っておく。
ともかくティムールはそういう男ゆえに、反乱軍を育ててからデルヴィシュを打倒してやろう、などという計画性は持ち合わせていない。つまるところ参謀向きではないのだ。
なら、彼の元に集まったイーキンたちは何なのかと首を傾げると。
「オレはその、狼月軍を辞めさせられた人間でして……」
「辞めさせられた?」
「はい。新しい上官のやり方が気に食わなくて、ちょっと意見したらスパッと解雇でした。そしたら、〈大鷲〉様がオレをある場所で雇ってくださったんです」
そこでイーキンはさっと周囲を見渡してから、極力声を抑えて告げたのだった。
「──そこでは、とあるご婦人が匿われていました。……今、各地に手配書が出回っている御方です」




