11-5
先帝の四騎士によるデリン大橋襲撃、および陽動作戦は成功に終わった。
セダと使用人たちが無事にレオルフ王国へ抜けたことは勿論、狼月軍の横暴に不満を溜め込んでいたデリンの住人が、フィルゼたちに触発される形で一斉蜂起し、軍を街の外へ追い出す事態となった。
ヤランジュ率いる狼月軍は主導権を取り戻さんと大橋の制圧へ動いたものの、デリンに左遷された歴戦の騎士たちが守りを固めたことで、成すすべもなく敗走。貴族の子息たちで構成された新兵では、彼らの戦術に手も足も出なかったのだ。
狼月軍にとって無様極まりない今回の事件は、狼月全体に広まることとなり、各地で反抗の芽を育てることとなるのだった。
「──さて。そろそろ話してもらうぞ」
その日の夕方、休息もそこそこにフィルゼは切り出した。
デリン大橋から離れた山林の、小さな洞穴。地べたにあぐらをかいたフィルゼの向かいには、岩場に腰を下ろしたカドリがいる。そして二人のちょうど中間地点、腹ばいになったメティの頭に座り、そわそわと双方を見上げるピンクの毛玉もいた。
「カドリ。なぜ名を偽った」
フィルゼの問いは簡潔だったが、そこに含まれる疑問は当然一つだけではない。
トク家の使用人たちを助けるために密かに動いていたこと、恐らくはフィルゼの素性も分かっていながら協力を求めなかったこと。これまでにカドリが見せた不自然な振る舞い、その全てに対する問いかけであった。
「……。答える前にひとつ、聞きたいことがある」
カドリは以前と同じ穏やかな声で前置くと、ふと毛玉のほうを見遣る。
「お嬢さんをここに連れて来たのは、君の考えかな。フィルゼ殿」
フィルゼは暫し沈黙を置いて、浅く頷いた。
ここ──つまり、狼月とレオルフの国境沿いの森は、フィルゼが毛玉を拾った場所だ。洞穴から少し歩けば、彼女が細切れになっていた現場まで辿り着けるだろう。
「ここで何があったか、あんたは知ってるんだな」
「勿論」
カドリは言った。
「お嬢さんの記憶を消して、この森に隠したのは私だからね」
繊月の夜に起こった神秘が明かされた瞬間、フィルゼの手は短剣を掴んでいた。
彼の動きを聴覚のみで捉えたカドリは、それを制するように片手を挙げ、指先を己の包帯へと移す。目許を覆い隠していたそれをゆっくりと剥がしてゆけば、傷ひとつない皮膚が露わとなった。
押し上げた瞼の下、わずかに色の異なる双眸は、どこか見覚えのある眼差しでフィルゼを捉えた。
「私の名は、カドリ・トク。トク家の息子だよ」
「な……!?」
予想外の素性に、フィルゼから剣呑な空気が消し飛ぶ。ついでに短剣から慌てて手を離したなら、カドリは喉の奥で低く笑った。
「父上には全く似ていないから、驚いたかな」
「…………悪い。セダ殿は何となく分かるが、爺さんの血は一つも感じられない」
正直すぎる返答に、今度はカドリも大きく笑う。彼にとってみれば、こんなことは言われ慣れているのだろう。
トク家は狼月で随一の騎士家系だ。当主であり勇猛な騎士でもあるティムールの血を引く男児、例え片目が見えずとも、面影ぐらいはあるのではないかと誰もが考えるだろうから。
しかしカドリはどちらかと言えば女性的な顔立ちで、父親のように頑固な髭も生えていなければ、あれほど苛烈な性格にも思えない。十中八九、彼が似たのはセダとその家族だ。
「だが、……そうだ、あんたは星合の島々にいたはずじゃなかったか。霊術の才能があるとか……」
混乱を引きずりながらトク家の長男について記憶を漁れば、またもや何かが嵌まる音が聞こえたような気がした。
はっと視線を上げれば、カドリは彼の思考を整理させるべく、鷹揚な仕草で頷いた。
「順を追って話そう。私は確かに星合の島々で、長らく霊術を学んでいた。……騎士の道を諦める代わりに、別の方法でルスランの力になろうと思ってね」
「……!」
生まれつき片目が見えなかったカドリは、それでも父と同じ道を歩もうとしていた時期があったのだろう。だがどんなに修練を積んだとしても、彼は並の人間と比べて死角が大きすぎる。怪我のリスクが高く、また実際に相応の負傷経験があったからこそ、泣く泣く剣を手放したのかもしれない。
騎士としてルスランの身を守ることが叶わなくなったカドリが、霊術師としての才能を見出されたのは僥倖だったと言えよう。
「霊術師というのは精神医療に長けた存在だ。争いが絶えない狼月には、心に傷を負った戦士が大勢いるだろう? 当然、彼らの命を背負うルスランもその一人だったから、私は彼の揺るがぬ支柱となるべく、あの島へ渡ったんだよ」
狼月の次期皇帝。その重荷を一人で背負えるほど、少年期のルスランは成熟しておらず、またそれを第三者に吐き出す術を持たなかったとカドリは語る。
ゆえに、昂った神経を鎮める呼吸法に始まり、狼月ではまだ浸透していない薬草の調合法、言葉を介した思考の整理方法──カドリは帰郷するたびに、星合の島々で得た目新しい知識をルスランに教え、慎重に実践したという。内に潜む不安や葛藤を無理やり取り除くのではなく、呑み込み馴染ませていくような島々の知恵は、深く考え込む性格のルスランによく合っていた。
立太子を迎える頃には、フィルゼがよく知る「ルスラン・ジェム・タネル」の立ち振る舞いが板につき、その少し後には、カドリと同等以上に信頼できる存在──エジェが現れたことで、もはやルスランの治世は盤石になったと、当時のカドリは安堵したが。
「彼らの最期は言って聞かせるほどではないね。ルスランに関しては、私よりも君の方がよく知っているはずだから」
「……」
「ただ、私には……トク家の人間には、ルスランがいなくなった後もやるべきことがあった。一人残された皇女を守り、謎に包まれた獣神の力を紐解く使命が」
カドリの視線を受けた毛玉が、ひょこ、と両足を跳ねさせる。
不安げにこちらを見上げた彼女を、フィルゼはそっと膝に乗せてやった。
「……昔から見知った仲だったのか」
「まあね。……グリの村で再会したときは驚いた。私はもう二度と、その子に会えないと思っていたから」
「どういうことだ?」
カドリは浮かべた微笑に苦いものを滲ませながら、暗い森に視線を投じた。
「ふた月ほど前、母上たちが襲撃を受けた日。私は……最悪の賭けに出たんだよ」




