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マフムトという猫背の商人は、ヤムル城塞都市の件より以前から、トク家の使用人たちと密に関わってきた男だった。
〈大鷲〉のティムールが幽閉され、セダと皇女の行方が分からなくなった後、バラバラに散ってしまった使用人たちの拠点を訪ね、食料と物資を配って回ったのも、各地の情報を共有してくれたのもまた、彼だった。
皇都の裕福な貴族を相手に商売をしていた彼が、なぜ危険を冒してまで反乱軍と称されてしまった者たちを助けるのか。その理由を尋ねても、彼はへらりと笑うのみ。
『いや、何。お得意様のご意向でさぁ。あの御方に頼まれたら、そりゃ引き受けませんとね』
曰く、マフムトには妻がいた。もうずっと昔に亡くなってしまったが、それでも彼女の命は想定されていたよりも長く続いたという。
治る見込みのない病を抱える妻に、医師が皆さっさと匙を投げる中、ただ一人真摯に向き合ってくれたのが、彼のお得意様──カドリだった。
『──マフムト。君なら狼月軍に怪しまれる確率は低い。少なくとも私よりは……。彼らを頼んだよ』
長らく商人として身を立ててきたマフムトが、初めて忠誠心というものを覚えたのは、それが初めてだった。
◇
「フィルゼさま! 狼月兵の人たちが大橋の下に向かっているみたいですっ」
「分かった」
果敢に向かってくる者、武器を捨て逃げ惑う者。その他に怪しい動きはないかと尋ねれば、ややあって毛玉が返答を寄越す。フィルゼは情報を持ってきた小鳥がどこかへ飛び立つや否や、デリン大橋に向かって駆け出した。
途中、騒動に乗じて住人に襲い掛かろうとする狼月兵を一撃で斬り伏せ、死角から飛来した矢を刃で受け流す。ちらりと視線を遣れば、見覚えのある年配の騎士が槍を振るい、すぐさま射手を沈めた。
「ベルカント殿! ここは我らにお任せを!」
「頼む! 住人の守りに徹してくれ!」
かつて戦場を共にした同志は、使い古した槍を掲げてフィルゼの指示に応じてくれた。
彼らは四騎士に次ぐ実力者のはずだが、この三年で皇都を追い出されて僻地に移されてしまったのだろう。主君が変わり、国全体が腐敗する中でも国境を守ってくれていたのだから、彼らの騎士としての矜持には頭が下がる思いだった。
危なげない戦いぶりを見せる騎士たちを背に、フィルゼは大橋のすぐ横──食糧庫に繋がる階段を飛び降りた。
「ひゃあっ」
「毛玉、落ちてないな」
「はいっ、わぁ!」
段差を降りるたびに叫ぶ毛玉を上着越しに押さえつつ、木製の扉を蹴破る。そこから伸びる石造りの狭い廊下を駆けていくと、微かに剣戟の音が聞こえてきた。
走る速度を上げ、角を曲がるや否や視界に捉えた二つの敵影に、懐から抜いたナイフを連続で投擲する。うち一人はフィルゼの存在に気付くことなく倒れ伏したが、残る一人はすんでのところでナイフを剣で弾き落とした。
「なっ、貴様、どこから……!」
上等な装備を見るに、それなりに経験を積んだ騎士のようだ。彼はフィルゼの姿を認めると同時に、一瞬の迷いを見せ──標的の始末を優先する。そうして素早く身を翻した先には、フィルゼが予想だにしない人物がいた。
「──シューニヤ!?」
それはマーヴィ城への道中で出会った、旅の巡礼僧シューニヤだった。
彼は護身用のナイフを構えたまま、目許を覆い隠す包帯の下で「おや」と苦笑を浮かべる。
「参ったな、ここで会うとは……」
「シューニヤ、動くな!」
フィルゼは鋭く言い放つと、騎士とシューニヤの間に割り込んだ。その速さに騎士が目を見開いたのもつかの間、フィルゼは受け止めた刃を勢いよく弾き返し、大きく体勢を崩した騎士の胴を切り裂く。
致命の一撃を受けた騎士が呻き声と共に倒れたなら、背後から安堵の溜息がもたらされた。
「……すまないね。世話をかけた、フィルゼ殿」
フィルゼは短剣の血を払い落し、「いや」とかぶりを振る。そうして後ろを見ては、以前と変わらぬ出で立ちを一瞥し、少しの困惑を露わに尋ねたのだった。
「シューニヤ。……あんたが、カドリなのか?」
猫背の商人から聞いた名を口にすれば、謎多き巡礼僧は気まずそうな笑みで沈黙する。しかし、もう隠す必要はないと断じてか、やがて観念するように肩を竦めてみせた。
「ああ。詳しい話は──ここを出てからでも構わないかね。ヤランジュの部隊が私を狙っているんだ」
「……分かった。歩行は問題ないな」
先程、二人の騎士を相手取っていたことを指して問えば、彼はますます苦い面持ちで笑って、「勿論」と答えた。
シューニヤ──改め、カドリを連れて食糧庫の外へ出た瞬間、三色の小鳥がフィルゼの元へやって来る。黒色に緑色に青色、毛玉がトク家の使用人たちに預けた伝令係の小鳥たちだ。
フィルゼの上着の合わせをぺいっと足で除けた毛玉が、友人たちの姿を見て花びらを散らせる。
「わあ! 皆様お帰りなさい!」
伝令係が集合したということはすなわち、セダたちが無事にレオルフ王国へ抜けられたということだ。彼らがこのまま辺境伯領まで到達できることを祈りつつ、フィルゼは速やかにデリンの街から撤退することを決めた。
そのためにもまずはレベントとエスラを回収し、メティのいる西門へ向かわねば。フィルゼが大橋へ続く階段を上ろうとすると、不意に毛玉がもぞもぞとこちらを見上げる。
「フィルゼさま! レベントさまとエスラさまに撤退をお知らせしましょうかっ?」
「出来るのか? 戦場に鳥を飛ばすのは……」
「えっと、鳥さんではなくて、そちらの狼さんが伝えて来るよって」
「え?」
毛玉の小さな足が指した先には、階段の上で忠犬よろしく鎮座する白い狼がいた。
視線を外したのはごく僅かな時間だったというのに、いつの間に現れたのだろうかとフィルゼは硬直する。だが、その狼の輪郭がおぼろげで、奥の景色が透けて見えることにも気付いたのなら、これが生身の獣ではないことを自ずと理解した。
「狼さんっ、お二人を安全な場所まで誘導していただけますか?」
言葉を失うフィルゼとは対照的に、毛玉がいつも通り柔和な声でお願いをすると、狼は音もなく走り出す。霞がかるように消えたかと思えば、次の瞬間には民家の屋根を駆け、二つに分かれた分身が戦場の奥へと消えた。
「これで大丈夫です! お二人との合流は明日になってしまうかもしれませんが……」
「……ああ、構わない。俺たちもメティに乗って逃げよう」
「はい!」
フィルゼは毛玉を内ポケットに戻しつつ、ちらりと後ろを見遣る。狼が消えた方向を静かに見詰めていたカドリは、向けられた視線に気付いてか、ややあって応じるように頷いたのだった。




