小さな頼みごと
ある日のこと。
「フィルゼさま、わたくしにやってほしいことはありますかっ?」
きらきら、ぱやぱや。
起床したばかりの小さな毛玉が、何やら上機嫌に足元まで駆け寄る。
ブーツの爪先によじ登ろうとする動きを制し、ひょいと上半分を掴んで持ち上げてやれば、短い足がぱたぱたと暴れ出した。
「やってほしいこと?」
「はいっ! メティは『背中を掻いてほしい』とのことでした!」
「掻いてやったのか」
「はい!」
「足で」
「そうです! ──わあ〜っ」
寝起きの声で元気よく返事を寄越す毛玉を、いつも通り小川に浸ける。彼女の足がぱしゃぱしゃと水を蹴る間、手頃な石を半円に配置し、丸い体をキュッと嵌め込んだ。
毛玉の体勢が清流に拐われない程度に安定したところで、フィルゼも水辺に腰を下ろし。
「特に無いな」
上機嫌に動いていた小さな足が固まり、周りを舞っていた花びらが消え失せる。そのまま無言で水分補給に勤しみ出した毛玉を見て、まんまと罪悪感を覚える羽目になったフィルゼは、気まずい面持ちで頭を掻いた。
「……いや、悪かった。今は特に無いって話だ」
「では何か思い付いたらすぐに仰ってください! この前のお悩み相談は突然始まったから、わたくし全然『よし!』という気持ちになりませんでした!」
「達成感が欲しいのか?」
「はいっ」
再び水をぱしゃぱしゃと蹴り始めた毛玉には悪いが、やはり今のところ彼女に求めるものは何もなかった。
フィルゼは生まれつき、己の欲に疎い自覚がある。富や名声といった社会的な欲求は勿論、食事だって必要な分さえ取れれば毎日同じでも構わないといった具合であるがゆえに、周りの大人からはよく顔をしかめられたものだ。
とりわけ、ルスランはその反応が顕著だった。孤児だったフィルゼを引き取った負い目か、少年に生活習慣の改善を厳命し、世の中には多種多様な娯楽や趣味があることを半強制的に学ばされた時期もあったほど。
古語だらけの詩集を読むよう指示されたのも、ちょうどその辺りだったか。過去の記憶を掘り返すと、レベントによる意味不明な熱弁も同時に蘇ってしまったので、フィルゼは軽く頭を振って語りを掻き消しておく。
「あんたは?」
「はい?」
「やってほしいこと、ないのか」
毛玉はきょとんと彼を見返して、足の振り上げ運動をやめた。
「フィルゼさまに?」
「ああ。……」
頷いてから、フィルゼは視線を宙に飛ばす。
「自分で言っといて何だが、特にやれることは無さそうだな」
「いいえ!! いいえ、いいえっ、わたくしフィルゼさまに是非ともしていただきたいことが、あわわわ」
「落ち着いてくれ」
やおら立ち上がり、サラサラと川に流されそうになる毛玉を陸に揚げてやると、彼女は忙しなく片足ずつ水気を切る。
そうして堂々と仁王立ちでフィルゼを見上げたかと思えば、ぱっと花びらのような綿を散らせて。
「ぎゅっとしてください!」
「……ぎゅっと?」
「あの、両手でこう、わたくしをぎゅっと、初めてお会いしたときみたいに」
一瞬、細切れ状態だった毛玉を両手で鷲掴みにした記憶がよぎったが、恐らく彼女が言っているのはその後のことだろう。
フィルゼはおもむろにグローブを外すと、素手で毛玉を掬い上げた。すぐさま毛玉が期待感をあらわに両足を縮めたので、視界を塞がない程度にやんわりと体を包む。
すると。
「……」
「……」
「…………」
「…………毛玉、ちょっと待っ……大丈夫かこれ」
花びらが止まらない。
溢れ出すような勢いでくるくるぱやぱやと舞い散る花びらに、フィルゼは段々と心配になってきた。心から喜んでいるのは見て分かるのだが、このまま花びらを散らせていくと本体ごと消えるのではなかろうかと。
「うふふ、あったかいです、ぽかぽかです!」
「そうか。大丈夫なのか?」
「はいっ。わたくし、フィルゼさまにこうしてもらうの大好きなのです」
「……」
ふにゃふにゃとした声で語る毛玉を、親指で軽く撫でてやると、また花びらが増える。今のところ本体の質量が減っているような気配はない。
安心したフィルゼが暫し無言で毛玉に構い続けていると、突然ずしりと右肩が重くなった。見れば、いつの間にか後ろに陣取っていたメティが、甘えるように顎を乗せている。
「どうした?」
「メティも撫でてほしいそうです!」
フィルゼは目を瞬かせつつ、黒馬の希望に応えんと右手を持ち上げる。顎を撫でてやれば、人懐こい相棒はぐりぐりと顔を擦り寄せてきた。
頬に当たる鬣に擽ったさを覚え、思わず小さく笑ってしまうと、それを見た毛玉が唐突に飛び跳ねてはフィルゼの手から脱走する。
彼の腕をよじ登り、メティと反対側の肩にやって来た毛玉は、真似をするようにいそいそと頬へ寄った。
「えへへ、フィルゼさまもやってほしいことが思い浮かんだら、わたくしとメティに言ってくださいね!」
毛玉と黒馬にじゃれつかれたまま、フィルゼはつと視線を落とす。両肩に乗った旅の仲間をそれぞれ撫でながら、やがて彼は口角を緩めたのだった。
「……分かった」
こうして彼らを撫でてやれば、自分の「やってほしいこと」は恐らく簡単に叶うのだろうなと思いつつ。




