10-6
──けたたましい音が響いた。
途方もない財が注ぎ込まれた、上質な糸によって織られた絨毯。つい先程まで瑞々しい果物を載せていた金属器が、そこに荒々しく打ち捨てられる。
揃いのカフタンを身に着けた数名の女官が、怯えたように頭を垂れるきらびやかな空間で、一人の女が苛立ちを露わにして窓辺のソファに腰掛けていた。西方諸国の文化が色濃く滲む豪奢なドレスに、大きく開いた胸元を彩る宝石。耳にはこれまた大粒の雫が揺れ、どこぞの王族のような出で立ちであった。否、この女は狼月の皇帝デルヴィシュが選んだ三人の側妃の一人であるため、それに応じた地位であることに違いはない。
もっとも、肝心の皇帝が姿を現さない今、彼女らは完全に増長していると言って良かった。
「今なんと言ったのかしら? 〈白狼〉殿」
贅を凝らした側妃の私室にあっても、全くもって見劣りしない容姿を持つ麗しい少年は、つんと澄ました顔で瞼を閉じた。
「僕は皇帝陛下の騎士であって、貴女の小姓ではありません。世話役は他を当たってくださいと申し上げました」
「何故! どうせ陛下の命もろくに聞いていないのでしょうっ!? 私の側にいれば七面倒な任務なんて与えないわ! 土地も屋敷も望むだけ」
「要りません」
きっぱりと拒絶の意を表したセリルに、側妃のフェスタは地団駄でも踏みかねない形相で拳を握り締める。
怒りと恥辱に満ちた顔をひたと見詰め、セリルは小さく息をついた。
「……フェスタ妃。貴女の支出が予算を大幅に上回っていると聞きました。財は無限に湧くものではないのですから、程々になさってください」
「うるさい! 私は皇帝の妃よ! お前ごときに指図される謂れはないわ! もういい、出てお行き!!」
新たに投げ付けられた杯をひょいと躱し、セリルは挨拶もそこそこに踵を返した。その無礼な態度にまたもや金切り声が上がったが、それに応じることはなく。
「…………ニメットが言ってたの、こういうことだったのか」
廊下の新鮮な空気を吸い込み、少年はげんなりとした顔で呟いた。
三人の側妃が宮廷で好き放題していることは分かっていたものの、聞けば最近は特に酷いらしい。大方、行方不明だった皇女がブルトゥルで目撃されたという報告が上がったことで、自らの地位が脅かされるのではと焦っているのだろう。
もしも皇女が先帝の四騎士たちと共に都へ攻め入るような事態になれば、愚帝の側妃など切り捨てられるに決まっている。況してや貴族の出でもないフェスタは、誰の庇護も受けられず無一文で宮殿を追い出されてもおかしくない。
そうならぬよう、彼女は今のうちに自分の味方を作ろうとしているのだ。自らの財を誇示し、自分に従えばその恩恵にあやかれると言って──あくどい者に根こそぎ財産を掠め取られる未来しか見えなかったが、助言してやるほどセリルは彼女と親しくもなかった。
「セリル様。お疲れ様でございました」
廊下の角を曲がった辺りで、そこで待機していた補佐官が歩み寄る。皺の刻まれた目元には、珍しく心配の色が見て取れた。
「……お疲れ様って。もしかして何の話か分かってた?」
「おおよその見当は付いておりました」
「はあ……先に言ってよ、こんな下らない話って分かってたら行かなかったのに」
「呼び出しに応じないよりは、顔を見せて断った方がまだ心証も良いかと」
「そう変わんないでしょ」
それより、とセリルは話題を切り替えた。
「陛下に謁見は出来そう?」
「……先ほど謁見の申し入れを行いましたが、側近によると本日もお姿をお見せになっていないと」
「姿を確認しに行っていない」の間違いだろうにと、セリルは深い溜息をつく。どこもかしこも機能しない宮廷で、よくもまぁフェスタはあそこまでふんぞり返っていられるものだ。
セリルは逡巡の末、爪先を翻した。
皇帝の寝所は、宮殿の奥深くにある。
鮮やかな青緑のタイルで彩られたドームを抜け、静まり返った列柱の回廊へ辿り着くと、視界の右側には曇天の夜空と水盆の庭が広がった。
先帝の崩御から三年。狼月の歴代皇帝が築き上げた荘厳な宮殿は、デルヴィシュの手によって大幅に改修されてしまった。羽が生えたトカゲのレリーフに、タシェ王国で信仰されている女神像、各所に運び込まれた質の悪い調度品の数々──見る目のない輩が、改修工事に便乗してデルヴィシュにあれこれ吹き込んだに違いなかった。
とっ散らかった宮殿は、狼月の未来を如実に表した場所と言えよう。自国のルーツを軽視した結果、他国から良いように搾取され、侵蝕され、やがて呑み込まれ、露と消えるのだ。
この美しい水盆の庭も、遠からず破壊されてしまうのだろうかと、セリルは無意識のうちに足を止めた。
「うう……」
そうして聞こえてきた呻き声は、啜り泣きに似ていた。くぐもった音の出処は探すまでもない。
「……夢が、いつまでも覚めぬのだ。死してなお私を苦しめる、忌まわしい夢が……ああ、ああ!」
声は次第に興奮し、錯乱する。苦悶に満ちた叫び声がしばらく続いたかと思えば、それは突然ぱたりと止んだ。
やがて再び生じた音は啜り泣きへと戻り、夜闇に消えてゆく。
沈黙した扉がゆっくりと開かれ、そこから現れた黒衣の男と目が合ったなら、セリルの眼差しには警戒の色が強く滲んだ。
「──陛下に何かあったのか、ケレム」
オルンジェック公、〈豺狼〉ケレム・バヤット。
異国の香りを纏わせた彼は、気怠い笑みで肩を竦めてみせた。
「寝付きが悪いからと薬をご所望になってね。お可哀想なことだ、毎晩ああやって悪夢に魘されていらっしゃる」
「薬?」
セリルは眉を顰めた。
この男が過去、国内外で違法な薬物をばら撒いた話は補佐官から聞き及んでいる。あまりにも大きくなってしまった被害を食い止めるために、先帝ルスランが長いこと苦労させられたという話も。
医師の資格もなければ信用もない男が、仮にも皇帝であるデルヴィシュに薬を処方するなど、あってはならないことだ。
そんな少年の訝しむ心を知ってか知らずか、ケレムは口角だけを上げて笑う。
「なに、心配するな。陛下に差し上げたのは一般的な睡眠薬さ」
「それを僕が信じると思ってる?」
「いやぁ、まさか。俺は素行が悪いからな。ただ──」
筋張った手が、顎を摩るついでに鷹揚に宙へ振られた。
「あんな状態の陛下に毒を盛るほど、俺も暇じゃないんでね」
ふわり、彼がすぐそばを通り過ぎるのに併せて、独特な香りが鼻を掠める。鼻孔を塞ぐような、密度の高い甘さだ。そこに少しの煙たさが加わることで、何とも表現の難しい──まさにこの男を体現したかのような香りとなっていた。
若干の息苦しさを感じたセリルは小さく咳き込みつつ、緩慢な動きで遠ざかる黒い背中を見遣る。
「……ケレム」
「んん?」
「皇女の行方を掴んでも、独断で先行するなよ。……またヤムルやブルトゥルみたいな事態を引き起こしたら、今度は僕も黙っていない」
少年の警告に、しかしケレムは振り返ることなく、ただ肩を竦めてみせた。
「保証はできないな」
「お前──」
「君は気にならないのか? セリル。先帝に〈大鷲〉、狼月の獣神までもが愛した皇女に、一片の興味も湧かないか?」
いいや、と彼は自らの問いにかぶりを振って笑う。
「俺も君も気になって仕方ないはずだ。正統な血筋、然るべき愛を得られた存在が、どれほど大層なもんなのか、な」




