10-5
翌朝、フィルゼたちは日が昇るよりも先にブルトゥルを発つことになった。
白む空の下、静けさに包まれた南門には総勢で二十名ほどが集う。
北回りで国境沿いの森を目指すレベント班は、狼月軍との遭遇率が最も高くなると予想されるため、ある程度の戦闘経験を積んだハリットや元兵士を中心に構成された。
次にエスラ班は、彼女の故郷であるバルシュ族の協力を得るべく、皇都から最も離れた南回りのルートを取る。班員にはメリエムと、使用人の中でも数少ないメイドの生き残り、それから負傷者たちもここに割り当てられた。
最後にフィルゼ班──彼は毛玉とセダ、それから夫人の補助を担う使用人たちを連れて、他二班よりも先に国境沿いの森へ到達することを目標とした。
「セダ殿、これを先に渡しておきます」
馬上にいるセダに差し出したのは、一通の書簡。
丸めた羊皮紙は金糸で編まれた見慣れぬ紐によって留められており、その結び方も狼月の民には馴染みのないものだ。これが国外の誰かに宛てた伝書であると、一目で見抜いたであろうセダに、フィルゼは端的に告げた。
「レオルフの辺境伯に渡していただきたい。この金糸を見れば、差出人が俺だと分かるはずです」
「……何が書かれているのか、聞いても?」
「何も」
フィルゼの答えに、セダが困惑を露わにする。
彼女の反応はもっともだ。だが、こうして白紙を送ることこそが、かの人──レオルフ王に対するフィルゼの意思表示になる。
「……俺が狼月に希望を見出だせなかったときは、何もせずに帰還せよとレオルフ王から言われていました。それが侵攻の合図になるとも」
「!」
「でも、そうでない場合は──この金糸を送り返せと」
レオルフにおいて、金色とは真紅と並ぶ高貴な色とされ、まさに彼らが崇拝する太陽を指す。
そしてこの金糸は、父なる空からこぼれ落ちた一筋の光芒であり、かの王が信頼に値する者へ贈る縁であった。
レオルフを発つ間際にこれを渡した王の意図は、明言はされずとも薄々理解できた。
例え小さき狼が繊月を見捨てる結果になろうとも、太陽はその決断を受け入れる、と。
そして、その逆も然り。栄誉の光芒を太陽の王に返上することすなわち、フィルゼが「繊月の狼」であることを選択した証明になるのだ。
「これを渡せば、侵攻作戦はひとまず中止になるはずです。その間に、出来るだけ毛玉の記憶を取り戻せるよう努力してみます」
「……。分かりました。必ず届けましょう」
そっと書簡を受け取ったセダに、フィルゼは深く頭を下げた。その際、脇腹の辺りから微かに寝惚けた声が漏れ聞こえたことに気付き、上着の合わせを開く。
「毛玉?」
「ふんん……フィルゼさま、もう朝ですか……?」
「ああ。まだ寝てても良いぞ」
内ポケットに収まったまま、うとうとと足を生やす毛玉。彼女の頭を人差し指で撫でてやると、花びらのような綿がふわりと浮いた。
国境沿いの森へ向かうまでの間、毛玉には極力この姿でいてもらう予定だ。フィルゼの班は他と比べてかなりの強行軍になることは必至で、彼女を人間の姿で移動させるには少々不安が拭えない。メティの体力も考慮するなら、こうしてポケットに入ってもらった方が安全かつ効率的と言えよう。
「あ……待て、毛玉。先に水分補給だけ頼む」
「はぃ、お水飲みたいです……川まで行くんですか?」
「いや、近くの広場に井戸があったはずだ。ちょっと深いけど桶でも大丈夫か──」
普段通りに言葉をかわして、はたと顔を上げる。
そこには案の定、今の会話の真意を問うかのような顔でこちらを凝視するセダの姿があった。
まさか、例え今は小さな毛玉姿であったとしても、狼月の高貴な姫君を日常的に川や井戸水に浸けていたなんて、この忠誠心の厚い剣士に限ってそんなことはしていないはず──と。
残念ながら毎日そんなことをしていたフィルゼは先程までの神妙な面持ちを崩し、半ば諦めの境地に立ちながら「水に浸けてきます」と正直に話したのだった。
◇
「えーん……」
井戸水を汲んだ桶は案の定、ちょっとばかし毛玉には深かった。別に沈むことはないだろうが、「壁が高いです」「足が付きません」と怖がる彼女をそのまま放置するわけにも行かず、フィルゼは丸い体を手のひらで支えつつ水分補給を手伝う。
そこで不意に吹き抜ける風。彼が外套のフードを深く被り直したとき、隣でじっと毛玉を見守っていたメティがおもむろに鼻先を寄せてきた。
「どうした? メティ」
「あっ」
そうして黒馬の意図を察したであろう毛玉がぱしゃぱしゃと水を蹴るのと、フィルゼの後方から足音が迫るのは殆ど同時だった。
「──青い目のお兄ちゃんっ」
以前よりもぐっと抑えた声。内緒話をするような声量で呼び掛けたのは、ブルトゥルに暮らす少年テミールだった。
目が合うや否や飛び込んできた少年を片腕で抱き止めてやれば、市街地の入口から彼の母親も姿を現す。彼女もまた、やはりフィルゼを見ても以前のように取り乱すことはなく。
「お兄ちゃん、お母さんを助けてくれてありがとう! あの大きい奴も、お兄ちゃんが追い払ってくれたって聞いた!」
「あ……いや、怪我はなかったか」
「うん!」
尋ねれば、テミールが弾けるような笑顔で頷いた。
対するフィルゼは少しの沈黙を経て、小さな頭をくしゃりと撫でる。少年の感謝と信頼を素直に受け取るには、まだしばらく時間が掛かりそうだった。
その代わり、フィルゼは黒馬の鞍に掛けていた丸盾を手に取り、少年に差し出したのだった。
「テミール、だったか? この盾のおかげで、俺も大した怪我をせずに済んだ。ありがとう」
少年はどこか自慢げな笑みで盾を受け取ったが、小柄ゆえに抱えるだけでよろめいてしまう。それでも、これが亡き父の遺品であること、誇り高き戦士の証であることは理解しているのか、決して取り落とすようなことはなかった。
その姿を見て、フィルゼはぽつりと呟く。
「……ギュネ族の盾には、戦士の魂が宿る」
「魂?」
「ああ。持ち主の魂が高潔であればあるほど、どんな攻撃も弾いてしまうから、戦場ではそう言われていたんだ。だから……テミールの親父さんも、きっと立派な戦士だったんだろうな」
これは、慰めの作り話でも何でもない。過去に狼月軍の中で流れていた噂、もとい事実であり、フィルゼ自身もその堅固な守りをどう崩したものかと苦戦した記憶がある。
皆が盾を破るためにハンマーや投槍を用いるべきかと話し合う傍ら、しかしその破壊が現実的ではないと結論づけたフィルゼは、あらゆる手法で盾を剥がし、一瞬の隙をついて戦士を斬り伏せることを選んだ。
だから、戦場に遺されたギュネ族の盾は、一つも破損した物が無い。そしてその全てが誇り高き戦士の腕に在った。
フィルゼは丸盾に刻まれた繊月に触れ、ゆっくりと瞑目する。
「この盾は必ず、テミールをあらゆる苦難から守るだろう。──これからも、大事にしてくれ」
少年が瞳を瞬かせながら、やがて神妙な面持ちで頷いた。先程よりも、更にしっかりと盾を抱えて。
その後方、ただじっと息子を見守るだけだった母親は、フィルゼが語った話を聞き捉えてか、こぼれ落ちそうなほどに目を見開いていた。
そうして、その眼に滲んだ涙を嗚咽ごと抑え込むと、彼女はその場で深く頭を下げたのだった。




