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ずっと背負わせたままだった鞍と荷物を下ろし、砂埃で汚れてしまった黒い毛並みにブラシを滑らせる。人間の手で身だしなみを整えてもらうのが好きなのか、この黒馬がフィルゼの手を嫌がったことはなかった。
人心地ついたところで穀物と乾草とを混ぜ合わせたものを手ずから与えてやれば、三角の耳が尻尾と一緒にぱたぱたと動く。人懐こい仕草に自然と微笑が浮かび、艶を取り戻した鬣を撫で付けたときだった。
「フィルゼ」
厩舎の入り口を振り返れば、日が暮れて間もない街並みを背に歩み寄る人影──エスラがそこにいた。
フィルゼは井戸水で満たした桶をメティの前に置き、軽く両手を叩く。
「どうした?」
「いつもの最終確認さ」
いつもの──とは、四騎士時代に彼らが欠かさず行っていた、作戦を決行する直前のミーティングのことだろう。これをうっかり忘れるとティムールに烈火のごとく激怒されたのは言わずもがな、叱られる対象の九割がフィルゼで、残りの一割がエスラだったがために、二人は互いに「いつものだぞ」と念押しをしたものだ。
しかし今思えば、毎度毎度ちょっとした遅刻を咎められては不貞腐れる少年を哀れに思ったエスラが、わざと同じ失敗をしてくれていた可能性は否めない。
フィルゼが苦々しく笑えば、一方のエスラはからりとした笑みを返した。
「ま、作戦は頭に入ってるだろうから、別の話でもしようかね」
「別のっていうと……」
ちら、とフィルゼは上着の内ポケットを見遣る。
「毛玉か?」
「そう…………。え、待った、今どこ見た? 夫人の側にいないと思ったら、そこに?」
エスラがにわかに神妙な面持ちを崩し、若干の批難を込めた眼差しを寄越した。彼女の言いたいことは何となく分かるものの、これに関してはどうしようもない。
フィルゼは上着の合わせを少しだけ開き、そこですやすや眠っているピンク色の毛玉を指先でやんわりと撫でた。
「隠れ家のベッドが足りなくなるから、自分はここで寝るって」
「ああ……夫人に気を遣われたのね」
「だろうな」
セダ・トクという女人は、根っからの貴族だ。例え自分の右足が不自由だろうと、自らが仕える相手にベッドを差し出すぐらい朝飯前、否、至極当然の義務と考えるような人だった。
今回も例に漏れず、主人が心地よく過ごせることを優先しようとしたセダに、毛玉は「とんでもない」と申し出を固辞したのだ。
なら何処に寝るつもりなのかとセダが尋ねるよりも前に、小さな手のひらサイズになった毛玉はフィルゼの元へ駆け寄り──。
『わたくしはフィルゼさまの側で寝ますので、ご心配なく……!』
既に睡魔に侵されていたのか、彼女はふにゃふにゃとした声で宣言すると、フィルゼの靴先に擦り寄ったまま気絶──就寝した。
「……夫人に何か言われなかったのかい、あんた」
「言われる前にこのポケットを見せて弁明した」
笑いを堪え切れなかったエスラが腹を抱え、しかし声は出さずにそっぽを向く。
「くくッ、陛下のご息女は可愛らしいだけじゃなくて、愉快な御方みたいだね」
「……エスラ。あんたも毛玉のことは最近知ったのか?」
「夫人を助けた後に初めて知らされたよ。まさかこんな姿でお目見えするとは思っていなかったけどね」
曰く彼女がセダから聞いたのは、ルスランに娘がいることと、トク家がその身柄を預かっていたことだけで、獣神の力については全く触れなかったとか。それゆえ、ブルトゥルに現れたピンク色の毛玉が「皇女」なのではないかという推測はすれど、セダの言葉を聞くまでは言及を控えたとも。
恐らくレベントも同じような気持ちで、笑顔で接しながらも内心焦れていたことだろうとエスラは苦笑した。
「ま、顔を見たら確信したね。ああこれは陛下の血筋だなって」
「……そんなに似てたか?」
「似てるじゃないか。目許が特に」
目許──言われてみれば確かに、垂れ目がちなところはルスランと同じかもしれない。優しげな顔立ちとは裏腹に、淡いブルーの瞳に宿る静けさも、また然り。
それでもフィルゼにとって、彼女から亡き主人の面影を感じる場面というのは、やはりその言葉の節々に彼らの姿勢が滲むときだった。
誰かを助けるために動き、誰かの幸福を得るために思考し、誰かの悲しみを受け止めるために寄り添い、誰かの怒りを理解するために視野を広く保つ。ルスランが統治者としてやっていたことを、毛玉は旅の中でひとつひとつ手探りに実践していたように思う。
中でも顕著なのは、そう、彼女がやたらと口にする「お悩み相談」とか。首筋にふわふわとした擽ったさが蘇り、フィルゼは軽く肩を竦めた。
「顔は、正直あまり分からないが……対話を重んじるところは、似てると思う」
その答えにエスラは目を瞬かせた後、「そう」と微笑を浮かべた。
「じゃあ沢山話しなさいな。あんたはほら、たまに……拳で分からせようとする節があるから、姫様に穏便な話し合いの仕方を教えてもらいな」
「三年前よりはマシになったぞ」
「低い低い、基準が」
「──おや、僕を差し置いて二人きりで談笑とは。例えそこが逢瀬に死ぬほど不向きな厩舎であっても妬いてしまうな」
「げ、鬱陶しいのが来たな」
二人が振り返ると、そこには芝居がかった仕草で前髪を掻き上げるレベントがいた。半目になるエスラの傍ら、フィルゼはちらりと沈みかけた夕陽を見遣る。
明日の作戦についての話し合いが終わってから、それなりに時間が経っていた。レベントも明日に備えて武具や馬の整備に向かったものと思っていたのだが──。
「レベント、どこかに行ってきたのか?」
「うん? ああ、ちょっと気になることがあってね。野営の設置を手伝うついでに話を聞いてたんだ」
野営というと、隠れ家に入りきらないトク家の使用人たちが、一夜を明かすために設置したものに他ならなかった。
それなら自分も手伝ったのに、とフィルゼとエスラが各々表情に出したなら、レベントはこれを笑って受け流す。
「言ったじゃないか、彼らの話を聞きたかったんだよ」
「その足でここに来たってことは、あたしらも耳に入れといた方が良いってことかね」
「さすがエスラ! 君の優れた洞察力は本当にすばら」
「早く本題に入りな」
エスラは長々と続きそうだった称賛を早めにぶった切り、溜息まじりに話を促した。
さすればレベントの柔和な笑みが引き締まり、琥珀の瞳に少しばかり剣呑な色が混ざる。
「ヤムル城塞都市での惨事に、ブルトゥルへの投石……〈餓狼〉の襲撃は想定外だったとしても、この二件が少し引っ掛かっていてね。フィルゼ、どちらの現場にも赴いた君はどうかな? 何か違和感はあったかい?」
違和感。レベントの問いにしばし黙考したフィルゼは、やがて自身がうっすらと感じていたことを口にした。
「……ヤムルにいた使用人たちは、毛玉──皇女とセダ殿がいるという誤情報を掴まされて、あそこに誘い込まれた。それからブルトゥルでの投石は、狼月軍がセダ殿の所在をあらかじめ分かっていたような……そんな感じはしてる」
〈餓狼〉の暴走を止めるべく駆け付けた〈明鴉〉の軍勢は、その言い分を信じるのならば端から戦意など無く、セダの行方も知らない様子だった。
しかし一方で、東の丘上に現れた別の敵影は、運搬にも組み立てにも時間が掛かる投石機を有していた。これはブルトゥルに標的がいるという確信を、彼らが持っていた証左ではなかろうか。
つまり、狼月軍には確信を持つに値する情報、および情報源が存在していた可能性が、非常に高い。
フィルゼは苦虫を噛み潰したような顔で視線を逸らしたのだった。
「使用人の中に、間者がいるのか」




