10-2
隠れ家の扉を開けてすぐ、慌ただしく立ち上がる人影。
憔悴しきった顔でこちらへ歩み寄ったのは、言わずもがなセダだった。
「フィルゼ殿、無事だったのですね──」
しかし目礼を返したフィルゼの後ろ、毛玉がひょこっと顔を覗かせた瞬間、セダの足が止まる。揺れる眼差しに、途方もない安堵を滲ませて。
「……お嬢様。お姿が……」
「は、はいっ」
意気込むように返事をした毛玉はしかし、何を言えばよいのか分からない様子で固まってしまう。
自身の素性についてざっくばらんに把握したものの、それゆえにセダとの接し方が掴めないのだろう。長らく世話になった相手との思い出を何も覚えていないのだから、気まずくなって当然だ。
拳を握り締めたままオロオロとする毛玉の背中を軽く摩って、フィルゼは二人を部屋の奥へと促した。
「──あの、ごめんなさい!」
「申し訳ありませんでした」
そうしてソファに座るや否や、毛玉とセダが同時に謝罪を口にしたことで、それまで少しばかり張り詰めていた空気が緩んだ。
はたと顔を上げた毛玉とは対照的に、セダは苦笑混じりにかぶりを振って見せる。
「……襲撃の際のことを謝罪されているのなら、必要ございません。謝るべきは私の方なのですから」
「えっ……で、ですが、その、セダさまはわたくしの身を案じてくださったのに、失礼なことを言ってしまって……!」
「いいえ。あれは貴女の心を無視した、行き過ぎた発言でした。……憤りを覚えるのは当然です」
普段よりも幾分か沈んだ声音で語ったセダは、片手を胸に当てて深く礼をした。
「あの後、貴女が残した狼の導きによって、我々は無事にブルトゥルの外へ逃げることが出来ました。本当に、ありがとうございます」
「……狼?」
二人のやり取りを少し離れたところで傍聴していたフィルゼは、気になる発言に思わず口を挟んでしまう。
何の話かと毛玉を見てみれば、彼女も疑問符を浮かべながら虚空を見つめ、一昨日の記憶を漁っている最中のようだった。
「え、っと…………あっ! 道案内をお願いした狼さんですか?」
「はい」
投石機によって北門への道が閉ざされ、身動きが取れなくなったセダたちの前に現れた、一匹の狼。
輪郭のおぼろげな、周囲の景色が透けて見えるほど淡い体をした獣は、狼月兵の配置はもちろん投石機の軌道すら把握したような足取りで、彼らを先導したという。
先に避難していたブルトゥルの住人たちの姿を捉え、セダが胸を撫で下ろしたのも束の間、役目を終えた件の獣は忽然と消えてしまったそうだ。
「それは良かったです……! でもその狼さん、す、透けていたのですか? まさか本物の妖精さんでは……」
不思議そうに首を傾げながら毛玉がぽそぽそと呟く姿を、セダは暫し物言いたげな顔で見つめたものの、ついに口を開くことはなかった。
──毛玉本人に自覚は無いようだが、セダを導いた幻影は獣神の力によるものと見て間違いないだろう。
最も親しい相手であるセダと話すことで毛玉の力が刺激されたか、はたまた危機的状況を察した獣神が自ら手を差し伸べたか……いずれにせよ、今までになかった変化が彼女に起き始めている。
フィルゼは逡巡の末、オルマン村での出来事をセダに打ち明けることにした。崖から落ちた後、毛玉の力で一命を取り留めたこと。彼女の素性や、セダとの関係を掻い摘んで伝えたこと。
そして。
「記憶を、戻す……?」
セダの不可解げな問いに、フィルゼは静かに頷いた。
「今後どう動くべきかは、毛玉の記憶が戻った上で決めたいと思います。……でも、セダ殿の頼みを断るつもりもありません」
「……というと」
彼はそこで、セダの不安や懸念を払拭すべく、オルマン村を発ってから整理していた計画を口にした。
「トク家の使用人達を連れて、まずはレオルフへ抜ける経路を確保します。俺が狼月へ来る際に使った道なら、比較的安全かと」
毛玉と初めて出会った国境沿いの森には、レオルフ王国に抜ける主要な街道とは別に、渓谷を経由するルートが存在する。非常に道が狭いため大勢での行軍には不向きだが、トク家の使用人達が通る分には問題ない。
「俺とレベントとエスラがそれぞれ陽動に出ます。その隙に、彼らにはレオルフへ抜けてほしい。……出来れば、セダ殿にも」
「フィルゼ殿、前にも申しましたが私は夫を……」
「〈大鷲〉の爺さんは必ず生きています。拷問ぐらいで死ぬような御人じゃないと、貴女が一番よく知っているはずです」
フィルゼがきっぱりと言い切れば、セダは不意を突かれたような顔で固まった。
ティムールが濡れ衣によって幽閉されてからふた月以上が経過しているが、未だに彼が死亡したという話は流れておらず、今後もしばらくは時間的猶予があるのではないかとフィルゼは見ていた。何故なら、猛将として名を馳せた狼月の英雄を不用意に始末してしまえば、それは他国から攻め入られる大きな隙となる。宮廷の慎重派が、辛うじてティムールの処刑を押し留めている可能性は十分にあった。
もしくは、あらゆる拷問を受けてもティムールがピンピンしているか──頑固な老将をよく知るフィルゼにとってみれば、こちらの方がまだ信憑性があると思えるし、何より。
「貴女を一人でここに留まらせたら、俺は多分…………爺さんに殺されます」
「……………………まさか」
物凄く間が開いたのは、セダも一瞬だけ「最愛の妻を逃がさなかったフィルゼに激昂するティムール」の姿が思い浮かんでしまったからだろう。若い頃から何かと一直線な夫の習性をようやく思い出したのか、セダが静かに眉間を押さえてしまった。
「……夫のことはさておき、フィルゼ殿は陽動の後どうするつもりなのですか」
「国境沿いの森で、毛玉の記憶の手がかりを探します。危険が迫ればすぐにレオルフに抜けられるよう、準備をした上で」
毛玉が──アイシェ皇女が全ての記憶を失った原因があるとすれば、やはり探るべきは国境沿いの森だ。彼女がセダと別れた後、たった一人であそこまで辿り着けた理由も含めて調査することが出来ればと、フィルゼは窺うように目線を持ち上げた。
「セダ殿、お願いします。俺は陛下が治めた狼月も、貴女の願いも、毛玉の意思も。最後まで諦めたくないんです」
彼の決意を乗せた言葉に、セダは暫し沈黙した。
やがて彼女の視線は、フィルゼの横顔を見詰めていた毛玉へと向かう。
「……お嬢様。貴女は過去の記憶を、取り戻したいとお考えなのですか」
はっとセダに向き直った毛玉は、投げ掛けられた問いに一呼吸置きつつ頷いた。
「はい。自分のことは、きちんと知っておきたいです。何よりも……」
彼女はそこで言葉を区切ると、セダの眼差しに滲む温かな心配と、深い愛情とを受け止めて、はにかむように笑う。
「セダさまとの思い出を忘れたままなんて、嫌だから」
他の誰でもない毛玉自身の答えを聞いたセダは、泣き笑いのような表情で俯き、そっと床に膝を付いたのだった。
「ならば、もう何も申し上げることはありません。貴女の御心のままに……──皇女殿下」




