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9-9

「──……ヴォルカン。落ち着きましたか」


 夜風が吹き抜ける四阿。

 湖の水面がさらさらと波打ち、草地の中では小さな虫が点々と明かりを灯す。

 新月の空には無数の星が瞬き、静寂に身を委ねる男をただひたすらに見守っていた。


「貴方に掛けた術が、日ごと弱まっていることには気付いていました」


 ほっそりとした中指に嵌めた、傷だらけの赤い石。

 両端から順に折り畳み、最後にその指を倒せば、月とよく似たグレーの瞳が彼を射抜く。


「……ブルトゥルでの出来事は、全て私の責任です」


 青白い光を浴びた男は、彼女の謝罪に低く唸った。

 狼の頭骨を模した兜の隙間、ゆっくりと開かれた瞳が月光を跳ね返す。

 その眼差しに詫びるような色を見て、ニメット・ダリヤは苦笑を浮かべた。


「本当にごめんなさい。私の霊術では貴方の病を治せない。もしかしたらずっと、このまま……」


 何度目とも知れぬ言葉を口にして、大きく溜息をつく。




 東の最果て、神秘と命を尊ぶ群島──星合(ほしあい)の島々。


 狼月を含む西方諸国では、秘術だの奇術だの胡散臭い概念の代表として怪訝な目を向けられる霊術は、平たく言えば「医術」に類されるものだった。

 とりわけ霊術師たちが得意とする領域は、人の精神にある。

 内省、催眠、洗脳……。過去、薬物によって行っていた非人道的な精神干渉を、彼らは独自の手法で体得、改善を重ね、れっきとした医療行為へと発展させたという。

 そんな霊術師たちの元を訪れるのは、もっぱら戦で重傷を負った者だ。戦場で酷いトラウマを受けた者、失った四肢にあるはずのない痛みを覚える者──投薬では対処しきれない様々な苦しみを取り除くのが、霊術の役目だった。

 星合の島々で生まれたニメットは、十五の年まで霊術を学び、師であり親でもある父の元を離れた。世間の霊術に対する理解は依然として浅く、怪しげな術を扱うとして星合の民そのものが嫌煙されることも珍しくなかったが、ニメットはそんな誤解や偏見を少しでも減らすことができればと思い、狼月へ足を踏み入れたのである。


『へえ、これが噂に聞く霊術か』


 しかし、希望と使命感を胸に旅立ったニメットを迎えたのは、後に〈豺狼〉と呼ばれる男だった。

 狼月東部の集落で、ギュネ族の乱に巻き込まれた人々のケアを行っていたとき、突然彼が現れたのだ。


『なあ、お嬢さん。獣の治療は出来るかい』

『獣……? 悪いけど動物の知識は無いわよ』

『ああ失礼、言い方を改めよう』


 ──頭がおかしくなっちまった戦士がいるんだ。


 男は、ケレムは笑いながらそう語った。

 不愉快な態度ではあったものの、苦しむ患者がいるのならと、ニメットはひとまず彼の願いを聞くことにした。

 そうして案内された先で、囚人よろしく薄暗い地下牢に繋がれていたのが、ヴォルカンだったというわけだ。


『何をしたの』


 その大柄な戦士は全身血まみれで、獣のように荒々しい呼吸を繰り返しては、時折苦しげに呻いて。

 思わず隣に立つ男の胸倉を掴んで問いただせば、返ってきたのは曖昧な相槌。


『んん、まぁ、いろいろやったかな』

『誤魔化すな! こんなの拷問以外に何があるっていうの!?』

『落ち着け。暴れ回るから仕方なく牢屋に入れてるだけで、あの傷もほとんど自傷によるものさ』

『自傷?』


 そんな馬鹿なとニメットが眉を顰めた直後、二人の声が起爆剤となったのか、突如として戦士が叫び声を上げた。

 腕を繋ぐ鎖が千切れ、けたたましい音と共に鉄格子が揺れる。彼はその振り上げた拳で壁を殴り付け、大きく振った頭で強かに床を打った。

 あまりの暴れようにニメットがつい後退ってしまえば、その肩を受け止めたケレムが耳元で笑う。


『な? 獣だろう?』


 ──うるさくて敵わないから、鎮めてほしいんだとさ。




 皇都へ来てから、不愉快なことばかりだった。

 ヴォルカンを獣扱いする軽薄な男も、彼にその「対処」を一任したデルヴィシュも、一向に改善の兆しを見出だせない自分の無能さも。

 何もかも、嫌になる。

 嫌になるが──皇帝に家族の所在が知られていることを抜きにしても、仮にも霊術師のはしくれ、彼を捨て置くことなど出来るわけもなく。


「……フィルゼ・ベルカントと対峙したとき、何か異変はありましたか」

「……」

「些細なことでもいいんです。彼は貴方と最も近い存在(・・・・・・)のはずだから」


 ニメットはゆっくりと手を伸ばし、狼の兜を外した。

 顎まで伸びた鈍色の髪を、月の光が淡く照らす。その隙間に指先を割り込ませ、削ぎ落とされた頬を包むようにして上向かせれば、彼の双眸が露わになった。



 ──草原の緑を溶かし込んだ、濃く鮮やかな碧色の瞳が。



「ヴォルカン。……貴方の病は呪いに等しいけれど、その長い迷路にはきっと出口があります」

「……」

「重要なのは貴方の意思です。他の誰でもない、貴方自身の」


 どうか、彼がその意識を苛む何か(・・)に呑み込まれないように──微弱な光を湛える双眸を見詰め返し、ニメットは静かに息を吐いた。

 そのとき。


「ニメット、客人だ」


 四阿の外から、護衛の一人が小さく声を掛ける。

 ヴォルカンの頭に兜を戻し、すぐに振り返ってみれば、そこには久しく姿を見ていなかった少年がいた。


「セリル……」


 狼月では珍しい白金の髪を束ねた少年、セリル・スレイマン。卓越した剣術を認められ、デルヴィシュ帝より〈白狼〉の称号を戴いた彼はここ数ヶ月、最優先で取り掛からなければならないはずの任務──消えた皇女の捜索を保留にし、各地の治安維持を理由に宮殿を離れていた。

 聞けば、密猟やら横領やら汚職まみれだったマーヴィ城の管理を一手に引き受けたらしく、その処理に追われて更に足が遠のいていたようだ。

 皇都へ続く途上でこちらと合流できたということは、いよいよ彼も主人の元へ戻る決心が付いたのだろうか。


「……ヴォルカンは大丈夫?」


 セリルがちらりと四阿の奥を見遣る。

 この口ぶりからして、既にブルトゥルでの失態は耳に入っているに違いない。ニメットは苦い面持ちで頷いた。


「ええ……でも、まだ少し過敏になっているわ。向こうで話しましょう」




 実を言えば、ニメットはこの少年について深く知らない。

 ただ分かることは、年齢にそぐわぬ冷静さと、小さな体に努力の跡が無数に刻まれていることぐらい。

 デルヴィシュ帝の腹心として知られる家門の出身とは聞いたものの、彼らとセリルの顔立ちはあまり似ておらず、また定期的な交流の場も設けていないように見えた。

 華やかに飾り立てられた、孤独な少年──それがニメットの、セリル・スレイマンに対する印象だった。


「陛下から、皇女の捜索任務に戻れって言われたんだ」

「……陛下? 生きてたのね」


 湖畔を見詰めていたセリルが、ニメットの無礼な反応に苦笑する。


「帝室の印は捺されてたけど、本当のところは分からない。書簡を届けてきたのは僕の家の者だったし」

「宮殿からの催促ってわけね」

「そう。マーヴィ城の密猟に関わった連中は、僕が予想してたよりも大勢いたのかもね」


 ルスラン帝の死から三年。賢帝の目が消えたのを良いことに、不正によって甘い蜜を吸ってきた貴族たちは非常に多い。

 マーヴィ城における(クルト)の乱獲は最たる例で、彼らはあの神聖な獣を恐れ多くも金に替えたのだ。他国にもその価値が知れ渡っている中での売買は、彼らに莫大な富を与えたことだろう。

 だからこそ、〈白狼〉であるセリルがマーヴィ城の捜査を強行したことが気に食わない。

 ニメットは少年の行いが、狼月の貴族として正しかったと認識しているが、大多数の腐った貴族にはそれが分からないのだ。


「多分、書簡を偽造したのは側妃だと思う」

「……側妃? どの?」

「分からない。けどあの人たちも陛下が閉じこもるようになって以降、宮廷で好き勝手してるらしいから」


 ニメットは思わず溜め息をついた。

 デルヴィシュ帝が即位して間もなく見初められた三人の側妃は、後宮に入れられてからはただ怯えるばかりだったと聞いたが──今や我が物顔で宮殿を牛耳っているとは。


「セリル、皇都に一旦戻るんでしょう? 側妃に変なことされないように注意しなさいよ」

「変なことって?」

「そりゃあ、いろいろ……」


 貴族たちに反抗的で、年若く、見目麗しい少年。側妃たちが気に入りそうな要素しかない。

 ニメットは渋い顔で、不思議そうにしている少年の頭をわしゃわしゃと撫でておいた。


「うわっ」

「それで? 何で私にこの話を?」

「……」


 セリルは大人しく頭を撫でられながら、その大きな紫色の瞳をつと下へ向けた。


「皇女が、フィルゼ・ベルカントと一緒にいるって聞いた」

「……ええ」

「彼だけじゃない。先帝の四騎士が皇女の元に集っている。……陛下を討ちに来る可能性は高い」


 相槌を打ちながら、ニメットは密かに息をつく。

 今セリルが語ったことこそ、かねてよりデルヴィシュ帝が恐れていた事態に他ならない。

 あの嫉妬深くて臆病な皇帝は、自らの治世が兄に遠く及ばないことを知っている。知っていながら、それを正す力を持たないがゆえに、狼月の希望となるであろう皇女を消そうとしたのだ。

 そんなことをすれば、いずれ真相を知った民衆から、他国から、世界から糾弾されるというのに。後先考えずに行動する癖は、三年前の騒動から変わらないらしい。

 しかし、セリルの懸念はデルヴィシュの行く末などではなく、彼自身の迷いに在るのではなかろうか。

 ニメットは少年の浮かない顔を見詰め、ついで腰に佩いた美しい剣を見遣った。

 ──誇り高き〈白狼〉に代々受け継がれる、繊月のレリーフがあしらわれた宝剣を。


「僕は」


 籠手に包まれたセリルの手が、宝剣の柄を握り締める。


「やっぱり〈白狼〉にはなれないみたいだ」


 けぶるような紫の瞳は、四阿の方を向いていた。今もそこで静かに湖面を眺めている、狂気に落ちた戦士を。


「今も僕は、皇女が帝位に就いた方が良いと思ってる。皇女がどんな人間かは知らないけど……陛下より酷くはならないんじゃないかって」

「それは私もそう思うわよ。だから別に、あんたがとりわけ不敬だって話じゃ……」

「いや」


 少年はかぶりを振った。


「〈白狼〉はそうじゃない。彼らは絶対に、主人を見捨てない。──見捨てられないんだよ、ニメット」



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