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9-8

 樹液の入った瓶と、がっつりと噛み跡の付いた赤い果実を受け取ったナズは、歯型をしげしげと眺めては微かな笑みを浮かべた。


「これは珍しい。もしやクルトが出ましたか?」

「ああ。悪い、供物に使えなければ新しいものを取ってくる」

「いえいえ、神聖な獣が齧ったものは縁起が良いですから、こちらで構いませんよ。ありがとうございました、フィルゼ殿」


 ナズの寛大な返答にホッとしたフィルゼは、屋敷の門前に置いてきた毛玉を振り返る。

 彼女はオルマン村に帰還するや否や、好奇心旺盛な幼子たちに捕まってしまったのだが、見たところ楽しげに言葉を交わしていた。子供たちが我先にとあちこちを指差して何かを教えるたび、毛玉の感嘆の声が上がり、また騒がしくなってを繰り返す。

 すると不意に彼女がこちらに気付き、大きく手を振る。一緒になって飛び跳ねる子供たちに、フィルゼが軽く右手を上げて応じたときだった。


「……。あちらのお嬢様、エジェ様にそっくりでいらっしゃいますね」

「!」


 はっと鼻先を戻してみれば、ナズがどこか懐かしげな笑みで毛玉を見詰めていた。

 彼女はフィルゼを一瞥すると、「どうぞ」とテラスの椅子を勧める。供物の入った籠を欄干に置き、さっさと腰を下ろしてしまったナズに釣られ、フィルゼもゆっくりと腰を落ち着けた。


「……エジェ殿を知ってるのか」

「ええ。ルスラン陛下と共に、狼月のために奔走した御方……私が五つかそこらの頃ですから、もう二十年ほど前でしょうかね。あの方がご弟妹を連れて、皇都へ向かわれる途上だったと記憶しています」


 それはギュネ族の巫女だったエジェが、一族の習わしを嫌って集落を脱走した時期だ。連れ戻されることを恐れた彼女は、人目を避けるべくブルトゥルの崖下に広がる森を経由したのかもしれない。

 そこでフィルゼたちと同様に、思いがけず人里──オルマン村を発見し、多大な恩を受けたのだろう。


「薄紅の髪が印象的な、美しい人でした。あの服も本当は私のものではなく、皇都へ無事に逃れたエジェ様が、わざわざ贈ってくださった品の一つでして」

「……そう、なのか」

「ふふ。気後れしてしまって一度も袖を通したことがありませんでしたが、ようやく似合う方が現れて一安心ですよ」


 ナズは毛玉と出会った瞬間から、エジェの面影をそこに見ていたのだろう。だからここまで良くしてくれたのかと、今さらながら合点が行ったフィルゼは、彼女の厚意に頭を下げておいた。

 その無言の礼に笑みを深め、ナズは静かに告げる。


「フィルゼ殿。あちらのお嬢様にお渡ししたいものがもう一つあるのです」

「何だ?」

「エジェ様が村を発たれるとき、別れるのが嫌で泣き喚く私に、こちらを渡してくださいました。……ずっと、お返しする機会を待っていたのですが」


 ──残念ながら、その日は来ないようですから。

 

 寂しさと後悔を滲ませた声に、ゆっくりと顔を上げる。

 ナズが彼に差し出したのは、一対の耳飾り。繊月の形をした薄金があしらわれたそれは、ギュネ族の伝統衣装に用いられるコイン型の装飾品によく似ていた。


「お嬢様にお伝えください。貴女のおかげで、懐かしい時間を過ごせたと」



 ◇



 からりと晴れた青空の下、巨大な森を抜けた先には見慣れた街道の景色が広がっていた。

 ナズの話によると、平らな石畳が敷かれた道を南側に進めば、崖を迂回してブルトゥルに辿り着く事ができるとのことだ。

 毛玉の──アイシェ皇女の所在が狼月軍に知られた今、早めにセダたちと合流し、今後の動きを話し合わなければならない。彼女の記憶はもちろんのこと、未だ皇都に幽閉されたままのティムールに関しても。


「毛玉、もう出て良いぞ」

「はい!」


 足場の悪い森を抜けるまでは、と内ポケットに収納していた毛玉を、ひょいと外に取り出す。小さな両足で着地した彼女は、同時にフィルゼが差し出したカメオをじっくり見詰めて、「ふんん」と揺れ始めた。

 そして、幾らもせずにパッとその姿が変わり、フィルゼの前に人間の娘が現れる。


「あっ、今度はスムーズに出来ました……! えへへ、わぁ」


 フィルゼは自らが羽織っていた外套を毛玉に被せ、彼女のピンク色の頭髪ごと覆い隠した。首元の釦を留め、仕上げにフードを被せてやったところで、きらりと揺れる黄金色。

 エジェの遺品である繊月の耳飾りは、毛玉によく似合っていた。

 フィルゼの視線に気が付いたのか、彼女は指先でそうっと耳飾りを触りつつ尋ねる。


「あのぅ、フィルゼさま。こちら本当にわたくしが着けていてよいのでしょうか?」

「ナズがあんたに着けてほしいって言ったんだしな」


 毛玉はゆらゆらと頭を振り、飾りの微かな重みを確かめながら、ふとこちらを見上げた。

 フィルゼの顔をじっと眺めたかと思えば、つつ、と彼の横に回り込む。そして腕を組んでは何やら真剣な表情で考え込み。


「フィルゼさまは、装飾品を着けるのはお嫌いですか?」

「さぁ……殆ど着けたことがないから分からないな」

「あのあの、こちらの耳飾り、とっても軽いので剣を振るときも邪魔にならないと思うのですが……」

「……待て、俺に着けろって言ってるのか?」


 その耳飾りが彼女の亡き母の遺品であると知っている手前、それは絶対に無しだ。フィルゼが苦い顔でかぶりを振ろうとしたのも束の間、毛玉はいそいそと左耳から飾りを外してしまう。


「毛玉、これは……」

「あの、ブルトゥルでお話したことを覚えていらっしゃいますか?」

「え?」

「ギュネ族のことを知って、未来のために出来ることを一緒に探しましょうって」


 制止しようと伸ばした手が、中途半端なところで止まる。

 毛玉は閉口したフィルゼに微笑みかけると、繊月の耳飾りを彼の左耳に添えた。


「ナズさまが仰っていました。この耳飾りは、どちら(・・・)の繊月かなんて分からないから、誰が着けても良いんだって」


 風に揺られ、裏返るたびに向きを変える繊月。

 太古の壁画に描かれた二つの月、その違いを曖昧にし、丸ごと受容するような──ほんの小さな、されど重要な歩み寄りを感じさせる意匠。他でもないエジェがこれを身に付けていた理由は、推して知るべし。

 そして、彼女の娘である毛玉が、今こうしてフィルゼに耳飾りを着けてほしいと願うのも。


「だから、えっと……初めの第一歩として、ひとつずつ着けませんか?」


 右耳に残した片割れを指差し、少しばかり照れ臭そうな笑みで毛玉が言う。


 ──これも、彼女の言う「一緒に」なのだろう。


 フィルゼは溜息まじりに苦笑をこぼし、軽く腰を折った。毛玉の手が無理なく届く高さまで。


「着けてくれ」

「! はい! うふふ、おそろいです」


 ぱっと瞳を輝かせた毛玉は、ふすふすと嬉しそうに笑いながら耳飾りの留具を開き、フィルゼの耳殻にそっと嵌め込んだ。

 祭事ぐらいでしか着ける機会のなかった装飾品は、少々の違和感をフィルゼにもたらしたが、半日も経てば慣れることだろう。彼は自分でも留具を調整しつつ、にこにこと頬を上気させて喜ぶ毛玉の手を引いたのだった。


「行こう。歩き疲れたら毛玉に戻って良いからな」

「はいっ! ん? いいえ! 出来るだけ自分で歩きます……!」



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