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しょんぼりとした毛玉の手を引いて辿り着いたのは、昨日彼らが目を覚ました小屋──オルマン村の住人が「獣神の寝床」と呼ぶ場所だった。
動物たちから情報を得た毛玉曰く、赤い果実を強奪した狼はこの付近に逃げ込んだのだという。珍しいことに彼女が声を掛けても耳を貸さなかったそうなので、少し警戒が必要かもしれない。フィルゼは軽く眉を寄せつつ短剣の鞘を掴んだ。
しかし、隣でしおしおと樹液の瓶を抱きしめる毛玉を見ては、気まずい面持ちで視線を彷徨わせて。
「……。毛玉、元気出せ。あんたと遊びたいだけの可能性もあるだろ」
「そうなのでしょうか……だったら狼さん、わたくしの身体能力に期待しすぎです……」
狼と追いかけっこなんて誰だって厳しいものがある。フィルゼは項垂れるピンク色の頭をおざなりに撫でて励ましておいた。
さて、果実泥棒には早めに出て来てほしいところだが、見たところ小屋の近辺にそれらしい影は無い。大方、どこかに身を潜めて様子を窺っているのだろう。
フィルゼは逡巡の末、ちらりと毛玉を見遣り、ゆっくりと短剣を鞘から引き抜く。
露わになった刃が、頭上から降り注ぐ陽光をきらりと反射した瞬間、視界の端で何かが動く。その俊敏な足取りと獣の呼気を捉えたフィルゼは、すぐさま刃を鞘に戻した。
「わあ!」
きょろきょろと辺りを見回していた毛玉を肩に担ぎ、小屋の崩れた外壁に片足を掛ける。勢いをつけて屋根まで登ってしまえば、彼がいた場所に一拍遅れて白い狼が飛び出してきた。
わずかに毛並みが灰色がかってはいるが、鮮やかな青い虹彩から見るに──クルトの中でも希少性の高い個体だ。
マーヴィ城の縄張りから離れてしまったのか、それとも元からここに棲息しているのかは不明だが、一匹であることに変わりはない。警戒心と好奇心の狭間で揺れる眼差しに、フィルゼが怪訝な表情を返したとき。
「あっ、さっきの狼さんです!」
肩に担がれたまま、ぐいっと顔を振り向かせた毛玉が、ぱたぱたと足を振った。
「狼さん、果実はもう食べてしまいましたかっ? できれば返していただきたいのですが──」
「ワフッ」
「え?」
狼のひと鳴きに、彼女が瞳を瞬かせる。
何を言われたのかと視線を遣れば、淡いブルーの瞳が困ったようにフィルゼを迎えた。
「あの……えっと、フィルゼさまのことか分かりませんが、『緒を貰ってない奴だ。危ない』って……」
「……!」
緒。
それは帝室の母子間で渡される組紐のことだ。現代ではあまり耳慣れない言い方だが、古い書物の中では時折この表現が用いられる。
単なる古語的表現と思い込んでいたが、もしやあれは──過去に生きた帝室の誰かが、狼の言葉を訳したものだったのだろうかと、フィルゼは密かに息を呑んだ。
その者が何の疑問もなく獣の言葉を書き残していたのなら、獣神の力を持たない後世の人間が「獣との会話を記したもの」と気付けなくても不思議ではないのかもしれない。フィルゼは、ルスランやセダが毛玉と同じような存在を確認できなかった原因の一端を見た気がした。
彼が言葉を失っている間にも、一匹狼のクルトは焦った様子で毛玉に吠え続けている。
「ああ、お、落ち着いてください狼さん、フィルゼさまは悪い人ではありませんよ……! それから緒って何のことですかっ?」
「毛玉」
「はい!」
あわあわと狼を宥めていた彼女を肩から降ろし、フィルゼはひとまず冷静さを取り戻すために一呼吸を置く。
そして、同じように深呼吸をしていた毛玉に尋ねた。
「……人間の姿になったとき、何か他に持ってなかったか?」
「え?」
「髪留めみたいな、細い紐とか」
今の今まで失念していたが、ルスランとエジェの子──すなわち皇女であるアイシェが、組紐を持っている可能性は高い。
正直に言えば、フィルゼも帝室の組紐がどんな形をしているのかまでは知らない。ルスランから聞いた話では、それは夫婦の髪や瞳の色を織り交ぜることで、生まれた子との絆を表すのだと。
その編み方は母親によって様々で、狼月の多様な地域性が色濃く出る部分でもある、と。
「髪留め……うーん……あ、そういえば!」
毛玉はおもむろにカフタンの帯に手を伸ばし、内側に挟み込んでいた小さな絹の袋を取り出した。
「昨日、着替えるときにナズさまが渡してくださったんです。白いカフタンの裏地に縫い付けられていたみたいで」
「中は見たか?」
「いいえ! 今から見てみます! 狼さん、ちょっと待っててくださいね……」
小屋の周りをうろつきながら唸る狼は、彼女の言葉を渋々受け入れてはその場に伏せる。
そうして毛玉が袋の口を開き、逆さまにして振ってみれば──。
「あ……何でしょうか、これ?」
現れたのは、千切れた組紐だった。
ピンク色と淡いブルーに染められた紐が交互に折り重なったそれは、不自然に切れた部分からほつれてしまっている。
この組紐が、エジェが編んだ本来の形ではないことは明らかだった。
「それが、あいつの言う緒だ。……毛玉。マーヴィ城で組紐の話をしたことは、覚えてるか?」
「はい! えっと、帝室の人がお母様から貰う、紐……」
小刻みに頷きながら記憶を遡ろうとした毛玉が、その途中でピタッと言葉を途切れさせる。
まばたきすら忘れた様子で硬直してしまった彼女は、錆びついた動きでフィルゼを振り返り。
「え、あの、わたくし、大変おこがましい発言だとは分かっておりますが、そういうことなのですか?」
「……そういうことなんだが、大丈夫か。どこか痛むか?」
「いえ! 平気です……」
既に自分がルスランと関係のある立場の人間ということは把握していたため、毛玉が大混乱に陥るような様子は見受けられなかった。が、ただの貴族どころか帝室の一員だったことについては驚きを禁じ得ないのか、千切れた組紐とフィルゼを頻りに見比べている。
「その組紐は大事に保管しておいてくれ。見る奴が見れば、一発であんたが帝室の人間だってことがバレるからな」
「わ、わかりました! でもフィルゼさま、こちら切れてしまっているようですが……」
「ああ……。ブルトゥルに戻ったら、セダ殿に聞いてみよう。過去に何かあったのかもしれん」
毛玉が少しばかり不安を露わにして頷き、組紐を袋の中に戻した。しっかりと口を締め、帯の内側にぎゅっと挟み込むと、控えめにフィルゼの指先を握る。
その手を覆うように握り返しつつ、フィルゼは再び狼に視線を移した。
「あいつは、あんたの白狼が不在だから心配しているのかもな」
「わたくしの?」
「前に言っただろ。帝室の皇太子は、組紐を獣神の使いに渡すことで、初めて狼月の主としての資格と……己を守る白狼の加護を賜るって」
三年前、獣神が最も忌み嫌う身内殺しをもって帝位に就いたデルヴィシュ。彼が立太子の儀を行ったのかどうかは不明だが、いずれにせよ簡単に獣神の承認を得られるとは考えづらい。
ゆえに、ひょっとすると神に近しい獣たちの間では、とっくに「次の皇帝」が定められているのかもしれない。
賢帝の血と獣神の力を受け継ぐ、正統なる君主の帰還を、彼らは待ち続けているのだろう。
「フィルゼさまは……」
「ん?」
不意に口を開いた毛玉は、しかしすぐに黙り込んだ。どこか申し訳なさそうな、何かを恥じるような──形容しがたい表情で。
どうしたのかと顔をそっと覗き込めば、はっと我に返った様子で彼女がかぶりを振る。
「いいえっ何でもありません! 狼さん、こちらは前の皇帝陛下の〈白狼〉を務めていらっしゃったフィルゼさまです! とってもお優しい剣士様ですから心配いりませんよっ」
毛玉は少々調子外れな声で狼に語り掛けた。その一見して穏やかな横顔を、フィルゼはただ見詰めることしか出来なかった。




