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『──主は、一人』
顔を覆う狼の頭骨に、屠った命の数だけ汚れた戦斧。
強く主張する獣の匂いは、頚部を守るクルトの毛皮ではなく、あの者自身が放つ血と狂気が原因だったのかもしれない。
『これは貴方のためにも言ってるのよ! ヴォルカンは──』
仲裁に来た〈明鴉〉のニメットが何を言おうとしたのか、フィルゼはおぼろげに予測がついていた。
だが彼女の言葉があったとしても、あるいは投石による妨害がなかったとしても、ヴォルカンの息の根を止めることへの躊躇は無い。
ニメットの言う「治療」が上手く行かない限り、フィルゼは次も必ずヴォルカンを殺す気で挑むつもりだった。
「……狼は、逃げてはならない」
ぽつりと呟けば、彼の声を聞いた毛玉が上着の合わせをぺいっと蹴り、ポケットから半分ほど身を乗り出した。
「フィルゼさま、どうかなさいましたかっ?」
「いや」
「ふふ、あぅ」
毛玉を撫でるついでにポケットへ押し戻したフィルゼは、オルマン村──チャラヤンが暮らす長閑な集落に視線を巡らせた。
巨木の樹洞を利用して作られた珍しい建築物の群れは言わずもがな、凹凸の激しい地形に沿って上下に伸びた景色は圧巻である。上層には陽の光がたっぷりと入る広場らしきものも見え、子供の声が微かに聞こえてきた。
して、そんな美しい村へ道案内をしてくれた当人は今、門をくぐった辺りで倒れている。文字通り、うつぶせに。
ついさっき彼を殴り倒して懇々と説教を続けていた短髪の女性は、ようやく気が済んだのか大きな溜息をついてフィルゼの方へやって来た。
「お客人、申し訳ない。この馬鹿がどうやらお連れの方に失礼を働いたようで」
「ああ、いや……あんたは?」
「私はナズ。村長の娘です」
ナズ。それはチャラヤンが散々連呼していた婚約者の名前ではないのか。
フィルゼがちらりと青年に目を遣れば、ナズはその中性的な顔立ちを歪め、呆れた様子で肩を竦めた。
「……。彼は十年ほど前に『田舎で一生を終えるのは嫌だ』『せめて結婚前に妖艶な美女と戯れたい』と言って皇都へ働きに出て、最近帰ってきたばかりでして。再会してもなお私がナズだと気付かないまま、一週間ほど村を走り回って婚約者を捜していた異常者です」
「…………概ね理解した」
ナズがチャラヤンの奇行を止めることなく傍観していたところから、恐らく彼は見捨てられる一歩手前なのではなかろうか。フィルゼは静かに視線を逸らしておいた。
ナズは何とも不誠実かつ鈍感すぎる婚約者の襟首を掴むと、空いた手で村の奥を指す。
「どうぞ。お客人は久しぶりなので、あまり十分なもてなしは出来ませんが」
「ああ、気を遣わないでくれ。長居の予定はないんだ」
「そうですか。しかし……村を発つには少々時間が遅いかと。必要であれば私の屋敷で客室の準備をさせますが」
「……分かった。感謝する」
「うう、ナズはお前だったのか……十年前はもっと地味──いや大人しい子だったじゃないか。一体俺がいない間に何が……ぐえ」
うだうだと言い訳を続けるチャラヤンは、村人から冷ややかな目で見られながら容赦なく引き摺られていった。
フィルゼは彼らを追う前に、そっと民家の陰に入る。内ポケットから出した毛玉を地面に降ろし、続けて首に下げていたカメオを彼女のそばに置いて尋ねた。
「毛玉、人間に戻れそうか」
「あっ、はい! やってみます! ふんん」
意気揚々と返事をした毛玉は、カメオに彫られた横顔をじっと見つめながら、小刻みに揺れたり、跳ねたり、転がったり、天高く掲げた両足を一所懸命に振ったり──。
「あー……大丈夫か?」
「うーん、もう少しで出来そうな感じが……するような、しないような」
もはやカメオを見てすらいない毛玉の足が、ひょこひょこと交互に動く。フィルゼは励ますようにその足を人差し指で弄いながら、何か変身の手がかりになるようなものは無いかと考え。
「……人間になったとき、自分の顔は見たか?」
「え? わたくしの顔ですか? うーん……そういえば見なかったような……お水を汲みに行ったときも、注意してませんでした」
「そうか。あんたはピンク色の長い髪で、目は淡い水色だ。そこにもピンク色が混ざってて、……少し垂れ目だった気がする」
「ふむふむ……!」
「歳は十七、八ぐらい。あと、転ぶ前から妙に汚れた白いカフタンを着てたな」
「汚れ? ……あ! 皆様にお手紙を書いたときの染料かもしれません! えへへ、もしかしたら手や顔も汚れていたかも──あぅ」
突如、どて、と目の前で娘が倒れた。
一瞬の沈黙を経て、慌てて上体を起こした毛玉は、自分の体がきちんと人間になっていることを確かめると、ぱっと嬉しそうな笑顔を咲かせる。
「出来ました!」
「ああ、良かったな。……歩けそうか?」
「はい!」
擦り剥いた膝を指して問えば、毛玉が軽い動きで立ち上がり、その場で数回足踏みをして見せる。何とも見慣れた仕草に、フィルゼは小さく笑った。
◇
村長の屋敷は随分と開放的な造りだった。応接室代わりに使っているという木造のテラスには、格子状に組まれた天井から黄金の光がやわらかく降り注ぐ。
二人掛けの椅子に敷かれた手織絨毯とクッション、それから一輪の花が生けられたローテーブルのクロスには、狼月らしい伝統柄があしらわれていた。
フィルゼの隣に行儀よく腰掛けた毛玉は、至るところに描かれた狼を見つけるたびにニコニコと目尻を下げる。
「フィルゼ・ベルカント……? もしや先帝の〈白狼〉を務めていらっしゃった御方ですか」
向かいの椅子に腰を下ろしたナズは、茶を注ぎ終えるや否や目を丸くした。
「これは驚いた。昨日の今日で貴方が村を訪れるとは……」
「……? 何かあったのか?」
「ええ」
ナズは二人に茶を勧めながら、自分もカップに口をつける。
そして彼女は次に、昨日起こったという不思議な出来事を語ったのだった。
「祖父が昨日、強い光を見たと言っていまして。何かと思って目を凝らしてみれば、ブルトゥルの方角から獣神様の寝床に向かって──狼が駆けた、と」
フィルゼは暫し固まった。
頭の中でナズの話を何度か繰り返した後、はたと隣を見る。ずっと茶を冷まそうと息を吹きかけていた毛玉が、驚いたようにこちらを見て、ふにゃりと笑う。
「そういえばチャラヤンさまも、あの小屋のことを獣神さまの寝床と仰っていましたっ。ナズさま、あそこは何か神聖な場所なのですか?」
「小屋? ……申し訳ない、私は寝床の奥深くまで足を踏み入れたことがないので存じ上げませんが……」
ナズは逡巡の末、ふむと口元を指先で探った。
「お二人とも、狼月の神話はご存じですね。白き狼は瀕死の少年を助け、自らの縄張りで彼を癒し、育てたと言われています。その縄張りこそが、この巨大な森──すなわち獣神様の寝床であると、オルマン村で語り継がれているのです」
「わあ……!」
「お二人が見た小屋というのは、もしかすると我々よりも更に古い民が築いた集落の名残かもしれませんね」
「あの、あの、ナズさま。マーヴィ城付近にある、クルトの縄張りとはまた違うのでしょうか?」
「獣神様は幾つも縄張りを有しては、それらを自由に行き来していたようですよ。もしかすると、マーヴィ城付近にも豊かな森があるやも──」
毛玉がナズと共に太古の時代に思いを馳せる傍ら、フィルゼは木立の隙間からブルトゥルの方角をちらりと見遣る。
あの断崖絶壁から落下して無事でいられたのは、やはり幸運だけが理由ではなかったようだ。ナズの祖父が目撃した光景が事実ならば、フィルゼは他でもない毛玉に命を助けられたことになる。
──白き狼の姿を取った彼女に。




