9-3
──落ち着かない。
フィルゼの今の気持ちを正直に表すのなら、その一言に尽きる。
「えーん……フィルゼさまはお怪我をしてるのに……元気なわたくしがフィルゼさまの足か杖になるべきなのに……」
「……。あんた転んだんだろ、さっき」
「でもでも、膝をちょっと擦り剥いただけです! 本当ですよ、ほらっ」
横抱きにしたのは間違いだったかもしれない。カフタンのゆったりとしたズボンを膝まで捲り上げようとする毛玉の動きを、フィルゼはすかさず抱え直すことで妨害した。
「きゃあ」と縮こまる毛玉の上体を右肩へ乗せるようにして固定し、身動きを最小限に留めてしまえば、もぞもぞと動いていた足もようやく大人しくなった。
「……なあ」
すると、二人から一定の距離を開けてトボトボと先導していた男──チャラヤンが未練がましい顔で振り返る。
「その子は本当にナズじゃないのか」
「ああ」
「本当に? じゃあ名前は?」
「毛玉だ」
「はい、毛玉です!」
「なあ、さっきから全く同じ答えだけ返してくるけどその毛玉って何なんだ!? あだ名か!? それならもっと他にあるだろ!」
「毛玉だ」
「毛玉です!」
皇女の名前をこんなところで明かすつもりなど毛頭ないフィルゼが適当に返す傍ら、当の本人は呑気に自分の呼び名を復唱しては楽しんでいた。
ふすふすと笑うのは人間のときも同じなのか、などと考えていれば今度は頭に頬擦りをされ、何かしら注意をした方が良いのだろうかとフィルゼは眉を寄せるも──目が合うだけで嬉しそうに笑う彼女を見ては早々に諦める、ということを何度も繰り返している。さっきからずっと。
もしや小さな毛玉の姿だったときも、こんなふうに笑っていたのだろうか。いや、きっとそうなのだろう。だから本人はいつも通りに振る舞っているだけで、フィルゼが若干の戸惑いと照れ臭さを覚えてしまうのは、彼の頭が追い付いていないというだけの話である。
フィルゼは小さく咳払いをしつつ、その眼差しを先程よりもいっそう湿らせるチャラヤンに視線を戻した。
「……チャラヤン。ブルトゥルはここから遠いか?」
「ブルトゥル? ああ、まぁ……直線距離で言えば近いだろうけど、あの崖を回り込まないとな」
そう言ってチャラヤンが指差したのは、彼らの左手側、巨木の群れの奥に聳え立つ断崖絶壁だ。
「馬を借りないとキツいか……」
「おい、行くのはよしとけ。昨日の昼間、狼月軍が襲ってきたんだってよ。町中ボロボロだと思うぜ」
「ああ……らしいな」
フィルゼがちらりと周囲を窺いつつ頷けば、また毛玉と目が合う。彼女が心配そうに額の傷を指したので、フィルゼは「大丈夫だ」と小さく返しておいた。
細い指におっかなびっくり前髪を撫で付けられながら、彼はどこかへ飛んで行きそうになった質問をすぐさま引き寄せる。
「チャラヤン。昨日の昼以降、狼月軍がこの付近をうろついてる様子はあったか?」
「いや、特には。この辺りは地形が入り組んでるから、軍隊が来たところでまともに進めないだろうさ」
チャラヤンは凸凹とした足元を親指で示すと、慣れた足取りで木の根を蹴り、自身の肩ほどの高さがある段差を軽々と登り切った。
彼の言う通り、この森に馬で入るのは危険だろう。歩きやすい平らな地面があったのは石造りの小屋付近だけで、他は──ぐちゃぐちゃと表現しても差し支えないほど、無数の太い根が入り乱れていた。
まさしく獣のために在るような世界を一瞥したフィルゼは、いつの間にかどんどん増えていた小鳥を肩からやんわりと追い払うと、先に毛玉を段差の上に降ろした。
すとんと座り込んだ彼女は、すぐさま瞳を輝かせて両手を広げる。
「はっ! わたくしが手を引きましょうかっ?」
「……」
フィルゼは差し出された小さな手を左手で掴み、彼女が踏ん張ろうと目を瞑った瞬間、ひょいと自力で段差を登った。
毛玉はあっという間に隣に来たフィルゼと、全く力が掛からなかった手を交互に見て、不思議そうに首を傾げる。
「あれ? わたくし全然引っ張れなかった気が」
「いや、助かった」
「本当ですかっ? えへへ、よかったです……!」
ちょっとした気遣いが多大な罪悪感を生んだところで、フィルゼは嬉しそうに両手をにぎにぎと動かす毛玉を再び抱き上げた。
そうしてチャラヤンの後を追いかければ、上機嫌に足先を揺らしていた毛玉が何かを思い出したように声を上げる。
「あっ、フィルゼさま。わたくし、セダさまの落とし物を預かっているんです!」
「落とし物?」
「はい! えっと、こちらなんですが」
丸盾を落とさないようにしながら、毛玉が首に掛けていたペンダントを引き抜いた。
それは白い模様を纏った淡い水色の宝石に、女性の横顔が彫られたカメオだった。セダの持ち物ということは、ここに描かれた女性は当然、毛玉──アイシェ皇女でまず間違いないだろう。
カメオは十年ほど前からレオルフ王国で流行り出した装飾品だ。元は大理石や粘土板に神々の姿を彫り、魔除けとして主に用いられていたものを、宝石をあしらうことで装飾品に昇華させたと聞く。
フィルゼがカメオの存在を知ったのはレオルフに滞在していたときのことだが、それは彼が華やかな装飾品に興味が薄いというだけでなく、そもそも狼月では馴染みが浅かったこともある。狼月の貴族が好んで身に着けるのは、狼や鳥といった獣神にまつわる動物や、月の満ち欠けをモチーフにしたものばかりで、誰かの肖像画を持ち歩く文化がほとんど無いと言えよう。
ゆえに、フィルゼは少し疑問だった。狼月の貴人であるセダが何故、わざわざ他国の技師に頼んでまで、カメオに皇女の顔を刻んだのだろうと。
──だが、浮かんだ疑問はすぐに解消された。
皇女は秘匿された存在。ヨンジャの丘で育ったという痕跡さえも残してはならず、かの城に皇女の肖像画はひとつも掛けられていなかった。
だからこのカメオは、トク夫妻の愛情そのものと言っても過言ではないのかもしれない。
フィルゼが閉口する傍ら、毛玉は慎重な手つきで紐の絡みを解きながら言った。
「あの、わたくし……確かこのペンダントを見たときに、人間の姿になれたんだと思います。なので、セダさまにお返しするまでは、フィルゼさまが持っていてくださいませんか?」
「俺が?」
「はいっ、その、わたくし、セダさまのお気遣いを無下にするようなことをしてしまったから、少し気まずくて……」
フィルゼが首を傾げたのも束の間、申し訳なさそうに眉を下げていた毛玉は、気を取り直すように笑顔を浮かべる。
「それにお手伝いが必要なときは、そちらを見れば人間になれます!」
「…………待て。また毛玉に戻るつもりなのか」
よいしょ、とカメオをフィルゼの首に掛けてしまった毛玉は、その問いに「え?」と目を瞬かせた。
「だって……人間の姿はとても便利ですが、わたくしはあんまり、フィルゼさまのように体は軽くないようです。むしろ少し鈍臭いみたいで……えーん……」
小さな毛玉姿でふんわりカバーされていた己の身体能力の低さを直視できなかったのか、毛玉は擦り剥いた膝を押さえてしくしくと泣き出した。これに関してフィルゼが言えることは何も無かったので、ひとまず曖昧な相槌を返す。
「今もこうして運ばれていますし、どうせなら普段は軽くて小さい方がご迷惑をおかけしないかなって……」
「いや、別に迷惑じゃ……あ」
そのとき、抱えていた重みが一瞬で消え失せ、足元に丸盾が落ちる。その後を追うように、ピンク色の丸い毛玉がふわふわと地面に着地した。
「あ! ごめんなさい、フィルゼさま、盾を持っていただけますか? ──って、わあ! 更に木が大きく見えます……! ふんん」
忙しなく巨木の群れに慄きながら、毛玉が足をにゅっと生やす。
いつもの見慣れた手のひらサイズに戻ってしまった彼女を、フィルゼは溜息まじりに拾った。
「……分かったよ。だが村に着いたら、このカメオで人間になれるか、一度試してくれないか」
「はい! わかりました! あっ、久しぶりの妖精さんの小部屋……ぽかぽかです! うふふ」
内ポケットに収まった毛玉の喜ぶ声をよそに、フィルゼは思案顔で丸盾を左腕に抱える。
……今のところ、毛玉にヤムル城塞都市のときのような異変は見られない。顔色は良かったし、よく喋っているし、笑ってもいる。
ただ──それはやはり、人間になった前後の記憶が欠けているからなのだろうか?
崖から落ちて以降のことはフィルゼもよく覚えていないので、何をどう確かめたものか。ぽすぽすと元気に暴れている毛玉を上着越しに撫でつつ、彼はチャラヤンの後を追った。
「そろそろ着く……え、あれ? あの子はどこ行ったんだ?」
「ここにいる。気にするな」
「はい! お気になさらず!」
「え……?」
何も説明してもらえないチャラヤンは、毛玉の声だけが聞こえてくる不気味な状況に青ざめながら、ようやく見えてきた村の門へ進んだのだった。




