9-2
フィルゼが再び眠りに就いた後、毛玉は動物たちから貰った果物をちまちまと食べ進めながら、改めて巨大な木立を仰いでいた。
「……ここ、ブルトゥルの近くじゃないのかな? あの崖から落ちて、どうなったんだっけ……? わ、美味しい」
果汁たっぷりの甘酸っぱい果肉を咀嚼し、飲み込む。彼女の隣にはお昼寝にやってきた子ギツネが丸まっており、撫でてやるたびに気持ち良さそうな音を発した。
フィルゼの腹から降ろされたウサギたちも、今度は彼に寄り添うようにして眠っている。
彼らの穏やかな寝姿を眺める内に、自分もうとうとと眠くなってきた毛玉は、小屋の崩れた壁に背中を預けた。
と、そのとき。
「キィ」
ばさりと羽ばたく音を捉え、目を開ける。
毛玉の前に現れたのは、一羽の大きなワシだった。カラスと一緒に頼み事を引き受けてくれた頼もしい友人との再会に、毛玉はパッと笑顔を浮かべる。
「鳥さん! あなたも会いに来てくださったのですか? 昨日はフィルゼさまに危険を知らせてくれてありがとうございました。足の布、外しますね……え? 落とし物?」
お礼を述べながら、ベールで作った伝書をそっと外すと、ワシは小屋の屋根にひょいと飛び上がった。するとすぐに、その鋭い鉤爪に棒状の物を掴んだ状態で降りてくる。
何かと思えば、フィルゼの短剣だ。ハッとして彼の上着を捲れば、確かに剣帯には鞘しか残っていない。
「わあ、ありがとうございます! 重くはありませんでしたか?」
毛玉は抜き身の短剣をこわごわ受け取りつつ、ここまで届けてくれたワシの顎を労るように撫でた。
しばらく気持ち良さそうに目を細めていた彼は、やがて気が済んだとばかりに背を向け、果物の山から好きなものを一つ取って立ち去る。
毛玉はその雄大な姿を手を振って見送り、ふむと短剣に視線を戻した。
「そういえばフィルゼさま、あのとき盾も持っていらしたような……」
ひとまず短剣をそうっと鞘に納めた彼女は、小屋の周りをぐるりと見渡した。だが近くにそれらしい物は見当たらず、毛玉は顎に手を当てて考え込む。
「短剣が遠くに落ちていたということは、んー……わたくし、フィルゼさまと一緒に崖から落ちた後、ここに移動したということ?」
──どうやって?
毛玉は限界まで首を捻った。
とにかくフィルゼを助けようと、慌てていたことは覚えている。伝書を届けに向かったワシが、戦闘中ゆえにフィルゼの近くに寄れなかったことや、また新たな投石が来ると警告していたこと──そうして飛んできた投石によって足場が崩れ、フィルゼの体が宙に投げ出されたこと。
『毛玉?』
人間の姿でもすぐに自分だと気付いてくれたことが嬉しくて、落下の最中であるにも関わらず大喜びで彼に抱き着いて。それから……。
「むむ……それから何も覚えてません……」
経緯は不明だが、とにもかくにもフィルゼを窮地から救えたことは良しとしよう。毛玉はすっぽりと抜け落ちた記憶探しを一旦諦め、どこかに紛失した盾を探そうと決めた。
ついでに付近の散策もしておけば、フィルゼが起きたときに役に立つかもしれない。毛玉は小さな友人たちと共に、勇んで小屋を出発したのだった。
そうして暫く経ったあと、毛玉は案外すんなりと見つかった丸盾を抱え、困り果てた顔で立ち尽くしていた。
「──そろそろ本当のことを言ってくれても良いんだぜ、マイスイートハニー。君こそが俺の許嫁、ナズなんだろう?」
「いえ、わたくし多分、ナズさまではないと思うのですが……」
「はは、まだ恥ずかしがっているのか? 内気な君のことだ、十年ぶりに会った婚約者が都会の洗練された色男になっていて尻込みしてしまったんだろう。可愛い奴め」
毛玉の額を小突こうとした人差し指に、カラスの嘴が刺さる。「痛っ」と深刻な声を漏らした男は、いつの間にか彼女の頭に乗っていたカラスを二度見しつつ、気を取り直すように咳払いをした。
「ナズ、俺はついさっきまで結婚なんて嫌だと思っていたが、撤回する。君となら今すぐにでも式を挙げてやってもいい」
「え? わ、わたくしとですか? 駄目ですよ、ちゃんと許嫁のナズさまと式を挙げてくださいっ」
「そう、だから君と」
毛玉の背中を抱き寄せようとした男の腕に、ビシャッと上空から鳥の糞が降り注ぐ。ピンポイントで狙い撃ちしては素知らぬ顔で飛び去ってゆく行儀の悪い野鳥を、男は唖然と見送る。
しかしそれでも懲りずに毛玉へ向き直った男は、汚れていない方の手で彼女の顎を掬おうとした。
「痛っ」
無論、それもカラスの嘴に阻まれる。
両手を負傷し、右半身に鳥の糞を浴びた男は、立て続けに起こる不幸にとうとう我慢ならなくなったのか、カラスを追い払わんと左手を振り乱す。
「クソ、そのカラスは君のペットか!? 許嫁の君を放置して遊びまくってたことは謝るから! 俺と結婚しろナズ! 痛ぁ!」
「わ、わっ、鳥さん落ち着いて!」
カァカァと喧しく威嚇するカラスを宥め、毛玉はひとまず何か勘違いをしている様子の男から離れた。
先程からちっとも会話が噛み合っていない気がするので、ここは早めに切り上げた方が良いのかもしれない──と遅めの危機感を覚えた彼女は、丸盾をしっかりと抱き締めつつ頭を下げる。
「あの、盾を拾っていただいてありがとうございました! わたくし、もう行きますね……!」
「何!? どこに行くんだナズ! その盾は俺に贈るために用意したんじゃなかったのか! あと村はこっちだぞ!?」
「えっ、わわ、どうして追いかけてくるのですか!? えーん!」
毛玉がカラスの先導に従って急いで来た道を戻ると、男も慌てた様子で追いかけてくる。それなりに頑張って走っているつもりなのだが、如何せん向こうの歩幅の方が広いらしく、このままでは追いつかれてしまいそうだった。
どうすればと視線をさまよわせた毛玉は、前を飛ぶカラスを見て「そうだ!」と表情を明るくさせる。
「鳥さんになって飛んで逃げ」
名案だと喜んだのも束の間、地表にはみ出した木の根に足を引っ掛け、べしゃりと転ぶ。そのあまりにも豪快な転倒に、男が「ナズ!?」と声を上げた。
「だ、大丈夫か!?」
「うう……人間の体ってこんなにも痛いのですね……」
「え? いや、ええと、とにかく追いかけて悪かった。でもこの先は行っちゃ駄目なんだよ、君も分かってるだろう?」
男は心配そうな顔で右手を出しかけ、ハッと左手に替える。
その手をおずおずと握って立ち上がった毛玉は、相変わらず彼の話が分からずに首をかしげた。
「どうしてですか?」
「おいおい……いくら箱入り娘でも知っといてくれ。この先はただの禁猟区じゃなくて、獣神様の寝床さ。おいそれと足を踏み入れちゃ罰が当たる」
「獣神さまの……寝床?」
「そうだ。分かったなら村に帰るぞ。──そして式の準備だ!」
「わあ! 待ってください、わたくしはナズさまではないんですって! えーん!」
うっかり手を繋いでしまった毛玉が、小屋とは別方向へずるずると引きずられたときだった。
「ぐえっ」
急に飛んできた鞘が男の側頭部を打ち、彼が倒れた拍子に繋いでいた手も解放される。驚いた毛玉がたたらを踏んだのも束の間、すぐさま背中を誰かに抱き止められた。
覚えのある体温にもぞもぞと振り返ってみれば、見慣れた碧色の双眸が毛玉を迎えてくれた。
「フィルゼさまっ!」
天の助けと言わんばかりに顔を擦り寄せれば、フィルゼは彼女の背中を軽く擦り、少々苦い面持ちで呟いたのだった。
「……また変なの引っ掛けたな……」
「フィルゼさま、もう起き上がって大丈夫なのですかっ? 今の毛玉は人間なので、担ぐのは無理そうですが、おんぶなら出来るかもしれません! 辛かったらいつでも仰ってくださいね……!」
「気持ちだけ受け取っておく」
「そうですか……えーん……」




