9-1
『……セダ、セダ!』
鼻腔を塞ぐ焦げ臭さ。
崩れ落ちた石壁の瓦礫が、燃え盛る炎を照り返す。
獣の声が消えた夜の森は、恐ろしく静かだった。
『セダ、起きて……』
倒れ伏した貴婦人は、苦悶の顔で目を閉じている。聞こえるのは、無力な自分の情けない声だけ。
幼い頃からずっと優しくしてくれた人たちが、あの大きな人影に薙ぎ倒されて、次々と降り注ぐ火矢に呑まれてゆく。信じたくない凄惨な光景に愕然とする暇もなく、促されるままに外を目指して走り続けたものの、天井が崩壊するや否や突き飛ばされ──結果、自分だけがこうして無傷でいた。
壊れたように溢れ出す涙はそのままに、何とかして彼女を瓦礫の下から引きずり出そうと試みる。だがその右足が赤く染まっていることに気付いてしまえば、無理に動かすことすら躊躇われた。
『……アイシェ、様』
『セダ!』
『お逃げください』
意識が戻ったことに安堵したのも束の間、間髪入れず投げ掛けられた言葉に顔が強張る。
『先程、申し上げた通りに……レオルフへ、逃げ延びるのです』
『……』
『……もう、失うわけにはいかないのです。ルスラン様も、エジェ様も……私たちはお守りすることができなかった。だから、貴女だけは……今度こそ』
──どんな犠牲を払ってでも。
残酷な言葉を残して、彼女は再び意識を失った。
力の入ってない手をそっと離して、嗚咽混じりに燃える屋敷を見上げる。
夜空は黒煙に覆われ、月も星も見えなかった。
『いたぞ! あの女だ!』
『あ……!』
駆け寄る大勢の足音を捉え、弾かれたように立ち上がる。
この場から離れなくては。彼女の息があると知れたら、どんなことをされるか。
後ろ髪を引かれる思いで踵を返したなら、行く手を塞ぐように矢が通過し、思わず尻餅をつく。
しまったと焦りに駆られた瞬間、視界の端でまたもや鏃が煌めいたが──。
『うわああ!』
『何をして……!』
突然悲鳴が上がり、それらは不自然に途切れた。
振り返れば、血を流して倒れる兵士たちのすぐ側、あの大きな人影がこちらを見ていた。
ぞくりと背中が冷え、否応なしに涙が溢れる。恐怖に負けて後ずさるも、大きな人影はその場から動かない。
ただじっと、狼の頭骨の隙間から、ひたすらに見詰めて。
『逃げるのか?』
低く問う。
そこにどんな感情が乗せられているのかは分からなかったが、今の自分にとっては胸を引き裂かれるような問いかけだった。
肯定も否定も出来ずに黙りこくってしまえば、彼は頭骨の兜を押さえ、苦しげに呻いて告げた。
『ならば、逃げろ。もう二度と、俺に見つかってはならない』
『え……』
彼はそこで戦斧を力強く地に叩きつける。
まるで、溢れ出す狂気を抑え付けるかのように。
『次はきっと、何も分からなくなる』
◇
絶え間なく流れる水の音。
そよ風に吹かれた枝葉が揺れ動き、そのつど柔らかな日差しが頬を掠める。
手繰り寄せた温もりと、ちょうどよい涼しさが何とも言えぬ眠気を誘い、手放しがたい心地よさを生み出して。
もう少しだけ、と駄々をこねて身を縮めたのも束の間、耳元で囀る小鳥の声で意識が覚醒する。
「……はっ」
目と鼻の先、チュンとひと鳴きした小鳥が軽やかに飛び立つ。
彼らに釣られて身を起こしてみれば、光溢れる森が視界一面に広がった。今までに見たものとは比にならぬほど背の高い木立。力強く巨大な幹に支えられた樹冠が、黄金の光を透かして煌めいている。
その下方、唯一人間の手で造られたと分かる石造りの小屋は、長すぎた年月に負けて半分近く崩れ落ち、その内外に生命の蔓を帯びては花を咲かせる。
辛うじて残った屋根の下で深く寝入っていた毛玉は、自身がずっと抱き枕にしていたであろう青年に視線を戻し、ぴゃっと飛び上がった。
「フィルゼさま!」
顔にかかった銀髪をそっと両手で掻き分けると、閉ざされた瞼が露わになる。しばらくじっと見つめていると、彼の静かな呼吸を感じ取り、毛玉はひとまず安堵の息をついた。
しかし、その額にべったりと付着した血の跡を見つけては、再びあわあわと彼の頬を撫でて。
「フィルゼさまが、お、お怪我を! どうしよう、そもそもここは何処!? えーん!」
何もかもが分からず混乱に陥る彼女の元へ、わらわらと集う小さな影。小鳥にウサギにリスにシカ、毛玉がひとまず黒い上着をフィルゼの体に掛ける頃には、小屋に入り切らないほどの動物が集まってしまっていた。
彼らの大集合に気付かないまま、せっせとフィルゼを仰向けに寝かせようと苦戦していた毛玉は、ふと後ろを振り返っては「わあ!」と驚きの声を上げる。
「皆さん、いつの間に! はっ、でもちょうどよかった。あの、わたくし毛玉と申します! この辺りにお水を汲める場所はありますかっ? フィルゼさまの血を洗ってあげたくて……」
フィルゼの頭を膝に乗せつつ尋ねれば、おもむろに一頭のシカ──立派な角を持つ雄鹿が前に歩み出た。他の牝鹿よりも一回り以上大きく、毛玉が感嘆と共に彼を見上げると。
「……水飲み場があるのですね! えっと、じゃあ」
眠ったままのフィルゼを一瞥し、「うーん」と考え込む。いくら人間の姿になったとはいえ、眠るフィルゼを担いで水飲み場へ向かうのは無理そうだ。
しかし手のひらで水を汲んで、小屋と水飲み場を行き来するとなると──いったい何往復しなければならないのか。フィルゼと比べると随分と小さく感じる両手を広げ、毛玉が難しげに唸ったときだ。
ガラガラと何かを引きずる音が聞こえ、毛玉はいそいそと小屋の裏側を覗き込む。
「まぁ! 鳥さん!」
そこにいたのは、ブルトゥルで頼み事を引き受けてくれた、真っ黒な二羽のカラスだった。
毛玉が喜色を露わにすれば、カラスは嘴に咥えていた物をペッと地面に置き、小屋の崩れた壁に飛び移る。
「……。レベントさまとエスラさまにお手紙を届けてくださったのですね! その足でわたくしの元に? わあ、ありがとうございますっ」
「カァ」
「? 何でしょうか?」
袖口を嘴で引かれ、促されるがままに地面を見やる。カラスが引きずってきたのは、石を削って作られたお椀型の何かだった。
壁越しに手を伸ばして拾ってみれば、想像していたよりは軽い。毛玉の顔がすっぽり入るほどの大きさはあるので、皿というよりはもっと別の用途が想定されていそうだが──。
「よく分かりませんが、これならお水を汲めそうですね! ありがとうございます鳥さん! うふふ」
人差し指の腹でカラスの頭を撫でた毛玉は、石皿を抱えて雄鹿に向き直った。
「シカさん、水飲み場に案内をお願いしてもいいですか? えっと、他の皆さんはフィルゼさまの側にいてくれると嬉しいのですが……あっ、そうです! お体が冷えないように集まってもらえると!」
フィルゼの周りに大勢のウサギがぎゅうぎゅうに集まったところで、毛玉は満足げに頷いた。彼の眉間に若干の皺が寄ったような気がしたが、きっと見間違いだろう。
可愛らしいふわふわに埋もれた彼を置いて、毛玉は雄鹿の後を小走りに付いて行った。
「──この森、本当にどこもかしこも大きな木ばっかりですね……!」
毛玉は石皿を抱きしめ、キラキラとした瞳で森を見渡した。
手のひらサイズだったときも周りは大きなものばかりだったが、この森に関しては規格外のように感じられる。試しに近くの樹木に触れてみれば、どんな風や雨にも耐えられそうな頑丈さが皮膚に伝わった。
自分の足での散策が思いのほか楽しく、あちこちに視線を散らしていた毛玉は、少し先で待ってくれている雄鹿に気付き、慌てて駆け寄った。
「ごめんなさい、シカさんっ。えへへ……フィルゼさまも起きたらビックリするかなぁ」
雄鹿の後をニコニコと歩く毛玉は、不意に靴裏が硬い感触を捉えたことに目を瞬かせる。
足元を見てみれば、鬱蒼と生えた雑草に紛れて、石畳のようなものが点々と地面に敷かれていた。
「道……?」
ひょこひょこと跳ねながら石畳を辿ってゆくと、その先には崖から流れ落ちる細い滝と、まるで染料を溶かし込んだような美しい青色の小川があった。
その水は水底の小石がくっきりと見えるほど透き通っており、毛玉はついつい指先をそこに浸してしまう。そして想像以上の冷たさにそそくさと指を引き抜き、代わりに石皿をゆっくりと沈めた。
軽く土を洗い落としつつ引き揚げれば、きちんと水を掬うことが出来た。毛玉が達成感に口角を上げる傍ら、案内役の雄鹿がゆったりと踵を返す。
「ありがとうございました、シカさん! よいしょ」
水を汲んだ石皿は少々重たくなったが、歩けないほどではない。毛玉はなるべく急ぎ足で小屋へと戻り──そこに供え物よろしく、どっさりと山積みにされた果実を見て立ち尽くした。
「な、何事でしょうか……!?」
さっきは何も無かったはずなのに、と毛玉が目を剥いている間にも、瑞々しい黄色の果実がまた一つ、何処からか舞い降りたカラスによって追加される。
そのカラスが再び飛び立てば、入れ替わるようにしてやって来たのは、人間に似た長い手で果実を運ぶサルだった。
初めて見る動物に興味を惹かれ、毛玉はうっかり目で追ってしまいつつ、そっと石皿をフィルゼの側に置く。
「あのぅ……皆さん、もしかしてわたくしのために? ……ああっ、やっぱりそうなのですね!? あわわ、でもこんなに沢山は食べられませんから、あとは皆さんで召し上がってくださいっ、ね!」
彼らの厚意は嬉しいが、これ以上持って来られても腐らせてしまうだけだ。せっかくの食糧なのだから、ここにいる皆で分け合って食べてほしいと伝えれば、そこで怒涛の運搬作業は止まった。
小さな子ギツネがはぐはぐと果実に齧り付く様子をほっこりと見守りながら、毛玉は未だに目を覚まさないフィルゼの側に腰を下ろす。
「えっと……シューニヤさまは、血が止まっているかを最初に確かめてましたよね」
マーヴィ城付近での出来事を思い返しつつ、恐る恐るフィルゼの銀髪を掻き上げる。血で汚れた箇所を水で軽く濡らして拭ってみると、額に小さな裂傷が見て取れた。
「えーん……痛そうです……」
痛々しい様に毛玉はしゅんと眉尻と口角を下げてしまったが、見たところ血は完全に止まっているようだった。
彼女は慎重に傷口付近の血や土埃を洗い落とし、顎にまで伸びていた血痕も綺麗さっぱり拭っていく。
「……よしっ。他に怪我はしてないかな」
毛玉は逡巡を経て、フィルゼのグローブを外しに掛かる。ベルトの緩め方が分からず苦戦したが、何とか右手を露わにすると、彼の手のひらは固まった血で汚れていた。
短剣を握る間に豆が潰れたのか、皮も剥けてしまっている。これは触らない方がいいのだろうかと迷いつつ、汚れだけでもと手のひらを優しく拭う。
すると、微かに彼の指が引き攣れたように動き、毛玉は慌てて手の甲を摩った。
「い、痛かったですか? えーん、ごめんなさい、すぐ終わらせますから……」
「……毛玉?」
「はいっ! フィルゼさま、起きましたか!?」
忙しない動きで視線を移せば、フィルゼがうっすらと瞼を開いていた。毛玉が視界に入るべく背筋を伸ばせば、碧色の瞳が静かに寄越される。
意識が完全に覚醒したわけではないのか、どこかぼんやりとした眼差しで毛玉を見詰めると、彼はすぐそばに垂れたピンク色の髪を一房掬って。
「……か」
「はい?」
「泣かなかったか」
掠れた声で尋ねられ、毛玉は一拍置いて考え込む。
「…………えっと、ここで目を覚ましてから三回ほど『えーん』と言いました」
指折り数えて報告した毛玉に、フィルゼが小さく吹き出すように笑った。その拍子に髪から手が離れ、毛玉は何となく残念な気持ちで彼の手を握る。
「フィルゼさま、大丈夫ですか? どこか痛みますか?」
「いや……疲れただけだ。少し休めば動ける。……あんたは」
「わたくしは元気です! あ、お腹は空いてますが、森の皆さんが果物を集めてくださったので、後で食べておきますっ」
「そうしてくれ。……あと」
「はいっ」
フィルゼの言葉を一言一句逃すまいと前のめりになる毛玉に、彼は瞼を閉じて告げる。
「……この、体に乗ってるやつ、退かしてくれ」
気付けば胸や腹の上で暖を取り始めていたウサギたちを、毛玉は一匹ずつ降ろしたのだった。




