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微かに捉えたのは、長く尾を引くような声。
刃毀れを起こした戦斧を躱すついでに、ちらりと瞳を上空へ向ければ、一羽のワシがゆっくりと滑空している姿が見えた。
この光景を以前にも見たことがあったフィルゼは、瞬時にヴォルカンから距離を取る。
(……ずっとあの範囲を維持している。毛玉が何か呼び掛けたか……?)
ヤムル城塞都市では生存者の位置を探すために上空を飛んでいたが、あれはもしや──他でもない毛玉に、フィルゼの位置を知らせているのではなかろうか。
浮かんだ推測に彼は少しの戸惑いを露わにしたが、それも一瞬のこと。毛玉には危機を知らせてくれる無数の目と耳がある。彼らの情報をもとに、毛玉が何かを知らせようとしている可能性は十分にあった。
となれば、速やかにこの戦闘を終わらせなければならないが、ヴォルカンはそう易々と決着をつけさせてくれる相手ではない。
町の中で戦闘を続ければ全ての建物が瓦礫の山と化すような気がして、切り結びながら町外れの空き地へ移動して暫く。未だに勝負がつかないどころか、フィルゼは己の体力が僅かに消耗し始めたことを感じ取っていた。
対するヴォルカンは定期的に苦しむような様を見せるものの、繰り出される一撃は変わらず重いまま。
──実力は、ほぼ互角と言えよう。戦場でここまで苦戦を強いられたのは、フィルゼにとって初めてのことだった。
「……無理にでも攻めるしかないか」
様子を窺うようにじっと止まっているヴォルカンを、フィルゼは視界の中央に据える。
再び上空から伸びやかな鳴き声が響き渡った瞬間、彼はヴォルカンの背後を取っていた。弾かれたように振り返った巨躯の背中を斬り上げ、視界の端から襲う鎖を盾で弾き──そのまま左手で掴み取る。
これまで力勝負を極力避けていたフィルゼの不意を突く動きに、ヴォルカンの対応が遅れた。一瞬の隙を逃すことなく鎖を大きく横へ引き、開いた胸を即座に短剣で一閃する。
「ぐあァ!!」
ヴォルカンが一際大きな声を上げ、戦斧を取り落とす。ようやく見えた勝機に、フィルゼが今度こそ止めを刺そうとしたときだった。
「──待った!!」
慌てたような声が町の方から駆け寄る。警戒は怠らずに顔だけをそちらへ向けてみれば、黒いカフタンに身を包んだ女がそこにいた。
彼女は息を切らしながら、ヴォルカンを指差して言う。
「っ……フィルゼ・ベルカント。その男を、どうか殺さないでほしい」
「……」
「私は〈明鴉〉のニメット・ダリヤ。その男……〈餓狼〉ヴォルカンは、私の患者よ」
〈明鴉〉に、〈餓狼〉。デルヴィシュ帝の四騎士が二人もこの場にいることを知ったフィルゼはしかし、最後に聞こえた単語に眉を顰める。
「患者?」
ニメットは頷き、後ろに控えていた二人の護衛に武器を下ろすよう伝えた。
「信じてもらえないと思うけれど、我々はブルトゥルに攻め入る予定などなかった。発作を起こしたヴォルカンを止めるために、仕方なくここへ来たの」
「……コイツの暴走が、病による発作と言いたいのか、あんたは」
ヴォルカンによって酷い有り様となってしまったブルトゥルの町並みを顎で指し示してやれば、ニメットは苦い面持ちで瞑目し、それでも頷いてみせた。
「そうよ。彼はもう何年も病に苦しんでいる。私はデルヴィシュ帝に命じられて、彼の治療を任されたけど……上手くは、行ってない。むしろ、どんどん悪化しているような気さえしているわ」
「悪いが」
フィルゼが低く言葉を割り込ませると、ニメットがぎくりと頬を引きつらせる。
彼は短剣を蹲るヴォルカンへ向け、落ちた戦斧を遠くへ蹴り飛ばした。
「それならここで始末しておくべきだ」
「ちょっ……」
「あんたの手に負えないんだろ。この先、コイツが完全に正気を失ってあんたを殺す可能性だってある。違うか」
「ち、違わないけど、違わないけどもねぇ!」
ニメットは焦りともどかしさを綯い交ぜにしたような声で叫び、大股にフィルゼの方へやって来た。
「これは貴方のためにも言ってるのよ! ヴォルカンは──」
だが、彼女の訴えが最後まで語られることはなかった。
上空から刺すように降ってきた、一際甲高い鳴き声。ざわりと背中が粟立ち、フィルゼは咄嗟にニメットの肩を突き飛ばす。
「伏せろ!」
視界が陰り、間髪入れず強い揺れが襲った。
フィルゼたちのすぐ横に落とされた岩は、土埃を巻き上げるだけでなく、乾いた地盤に亀裂を走らせる。
混乱の最中、町の東側──深い谷間を挟んだ丘の上に、投石機とおぼしき影を見つけたフィルゼは、ヴォルカンばかりに気を取られていた自分の迂闊さに小さく舌を打った。
「毛玉が知らせたかったのはあれか……──っ!」
「ベルカント! こっちへ! 崩れるわよ!!」
体勢を立て直したニメットが、振り返りざまに声を張り上げる。
ハッと足元を見やると同時に、地面が亀裂に沿ってばっくりと割れた。視界が大きく下へずれ、彼の真下に断崖絶壁と霞んだ森が広がったときだった。
「フィルゼさま!!」
宙へ投げ出されたフィルゼに両手を伸ばし、躊躇なく崖の外へ飛び出した小柄な人影。
その長い髪には見慣れたピンク色が宿る一方、以前は青褪めてばかりだった顔には、確かな感情が宿っていた。
「毛玉?」
状況も忘れて呆然としてしまえば、やはり彼女も焦りを消し、にこりと笑って。
「はい! 毛玉です!」
元気な返事をした直後、ぎゅうと彼女に正面から抱きしめられ、そのまま崖下へ落ちてゆく。
すぐさま我に返ったフィルゼが、彼女の頭を守らんと手を回したのも束の間。
──彼らの視界を、真っ白な光が覆ったのだった。
◇
視界が閃光に潰され、男は咄嗟に瞼を押さえる。
眉間を揉み解し、生じた僅かな痛みを取り払う間に、白い光は消えていた。思わず立ち上がって身を乗り出すも、崖下に広がるのは静かな森林の絨毯だけ。
「〈豺狼〉様、今のは……」
背後からおずおずと投げ掛けられた問いには答えず、〈豺狼〉──ケレム・バヤットはゆるりと手を振って作戦の終了を告げた。
「撤収するぞ、投石機は解体しておけ」
「はっ」
兵士がすぐさま撤収作業に取り掛かる姿を後目に、ケレムはブルトゥルの町を気怠く見下ろす。
投石機を設置するにあたって伐採した倒木に腰を下ろし、今しがた目撃した不可解な光景に彼は思いを馳せた。
〈明鴉〉が〈餓狼〉の暴走に付き合わされるのはいつものこと。ゆえに、彼らがブルトゥルに向かうと聞いても、当初のケレムは介入する気など更々なかった。寧ろここで手を出せば、あの面倒な術を操る女が余計にこちらへの嫌悪感を強めるだけだと。
しかし──何の偶然か、ルスラン帝の〈白狼〉がブルトゥルにいるという報告を受けた瞬間、ケレムはあっという間に爪先を翻したのである。
フィルゼ・ベルカントは前評判以上の男だった。遠目に観察することしか出来なかったのは残念だが、正気を失った獣相手にあれだけ持ち堪えられる剣士は初めて見た。いや、〈明鴉〉の仲裁さえ無ければ、あのまま止めを刺すことだって可能だっただろう。
だからこそ、ケレムはあえて投石の指示を下したのだ。事故を装って邪魔な女も始末してしまおうかと、そんなことを考えながら。
そうして狙い通りに岩が命中してすぐ──狼月軍がどれだけ捜しても見つからなかった、手配書の娘が駆けてきたのだ。
「……いやぁ、驚いたな。ピンク色の髪を持つ乙女……皇帝陛下の姪っ子ってだけじゃあ、なかったみたいだ」
こぼれた笑いを手のひらで受け止め、くつくつを肩を揺らす。
ケレムはてっきり、デルヴィシュは自らが妬んで止まない兄の血に怯えているだけだと思っていたのに。
否、実際そうなのだろう。恐らくデルヴィシュは、あの娘に血筋以外の奇妙な力が宿っていることは知らないはずだ。
何なら、あの娘と共にいたであろうフィルゼ・ベルカントだって、詳しい事情を把握していない可能性はあるだろう。先ほど、あんなにも驚いた顔で娘を抱き止めたのだから。
「……あの、〈豺狼〉様」
「んん?」
「ほ、本当に良かったんですか? ブルトゥルに〈明鴉〉様やヤランジュ様がいらっしゃるのを分かった上で、投石なんか打ち込んでしまって……」
つまらないことを気にする奴だ。
使い勝手が良いから側に置いているだけで、異論など許した覚えはないというのに。
ケレムは溜息の代わりに天を仰ぎ、忘れずに口角を上げて振り返った。
「ブルトゥルにセダ・トクがいるって教えてくれたのはお前だろう? あの二人も分かってくれるさ」
「いや、でも……〈餓狼〉様の戦力的価値は計り知れません。下手をすれば彼も命を落としていたやも」
「ヴォルカンを心配する変わり者が、ニメット以外にもいるとはな。俺としては──崖下に落ちていった二人の方が気になるんだがね」
惑う狂戦士への興味はとうに失せた。最後にあれがニメットの制御を離れ、己を失い破壊の限りを尽くす未来は是非とも見てみたいが、それはきっともう少し先のこと。
今、彼よりもケレムの好奇心を刺激して止まないのは、やはり賢帝の小さき狼だ。
そして。
「狼月の姫君……」
この世に生を受けてから、ずっと隠されてきた神秘の皇女。
閃光と共に樹海へ消えた彼女が、このまま死ぬとは思えない。いや、死ぬはずはない。
アレが気高き獣神とやらの祝福を受けているのなら、必ず。




