8-4
意識が途切れたのは、ごく僅かな時間だった。
はっと瞼を押し上げると、幼い少女がこちらを泣きそうな顔で見つめている。その傍らには、見知ったギュネ族の夫婦と老爺の姿もあり、セダは住人たちが無事であったことに安堵の息をついた。
「せ、セダ様、どうしよう、建物が……毛玉ちゃんも……」
「!」
しかし、少女の嗚咽混じりの声は、セダの顔色をすぐさま一変させる。
早鐘を打つ心臓に急かされて周囲を見渡すも、毛玉を包んでいた黒い上着はどこにも見当たらない。次いで、北門へ続く路が、崩壊した民家の瓦礫によって塞がれている光景を見たセダは、まさかと瓦礫に手をかける。
「ふ、夫人っ、触ってはなりません。崩れたら危険です!」
「離してちょうだい! お嬢様が……!!」
夫婦の制止を振りほどき、セダは無我夢中で瓦礫を退かそうと試みる。だが彼女の手では小さな破片を掘り起こすことが精一杯だ。
両手に傷が増えるにつれて、セダの瞳に焦燥の涙が溜まったとき。
「ぷはっ、セダさま! お怪我はありませんか!?」
「お嬢様!?」
瓦礫の向こうから高い声が掛けられる。壁のほんの僅かな隙間から、ふわふわとピンク色が跳ねていることに気づき、セダは大きな溜息をついた。
「っご無事で、ようございました……」
「あの、セダさま。さっき小鳥さんから伺ったのですが、黒い鎧を着た人たちがまだ他にもいるそうなのです!」
「……他に、ですか? もしや今のは」
「はいっ、東側の丘に大きな岩を飛ばす装置があったみたいで、きっとそれです!」
投石機だ。狼月軍は本格的にブルトゥルを壊滅させるつもりなのだろうかと、セダは目の前の惨状を青ざめた顔で見上げてしまう。
しかし、彼女の不安はそこで終わることはなかった。
「わたくし、フィルゼさまたちにこのことをお伝えしてきます!」
「……はい?」
「今のような岩が何発も飛んできたら、怪我では済みませんっ。えっと、猫ちゃん! セダさまたちでも通れそうな路を探し──」
「いけません!!」
自分でも驚くような大声が喉から飛び出し、しんと場が静まり返る。
後ろにいる住人たちが硬直しているのにも構わず、セダは怒りにも似た感情を乗せて捲し立てた。
「私がすぐにそちらへ向かいます。今も戦っておられるフィルゼ殿の元へ向かうなどもってのほか! お嬢様はそこを一歩も動いてはなりません、よろしいですね」
「えっ、あの、でも岩が」
「貴女が気を回すことではありません! 貴女に──自分の身を守ることも覚束ない貴女に、誰かを救うことが出来るとお思いですか!! 前にも同じことを申し上げたでしょう!!」
セダは肩を上下させると、込み上げてきた涙を押さえるべく顔を覆い、ゆっくりと項垂れた。
「……お願いだから、言うことを聞いて……」
もう二度と、大切な人を失いたくないのだと、セダは擦り切れそうな声で懇願した。
襲撃を受けた日、デルヴィシュの手先によって屋敷に火を放たれ、逃走経路をことごとく潰されていく中、繋いだ手が震えていたことを覚えている。
使用人たちが無念にも倒れゆく姿を、皇女が何度も振り返ったことも。崩れた瓦礫に右足を潰され、動けなくなったセダの側を、なかなか離れてくれなかったことも。
「……お願いです、殿下」
最後の呟きは、もはや祈りにも等しかった。
そうして、とても長く感じられた沈黙の後、瓦礫の向こう側から寄越された返答は。
「いいえ」
簡潔な拒絶に、ぞわりと、背筋が冷える。
「フィルゼさまに危険が迫っているのに、どうしてわたくしだけ逃げることが出来ましょう」
再会してからずっと、どこか幼げだった声が、ほんの少し大人びた音へと変わってゆく。
地面に近い場所から発せられていた声が、次第に、セダと同じ高さへと上ってゆく。
「セダ。皆を見捨て、一人逃げ延びたところで──その先に何が残るというの」
詰るような、苦しげな言葉に、はっと息を呑む。
だがそこで痛みを堪えるように小さく呻いた毛玉は、ゆっくりと何かを拾ったようだった。
「わたくしは、わたくしに出来ることを全うします。セダ、さまは……住人たちを、安全な場所へ。路は彼が知っています」
「! お待ちくださ……」
セダの引き止める声も虚しく、彼女は行ってしまった。
今しがた起きたことを受け止めきれず、セダは暫し膝をついたまま呆然と固まる。
やがて、後ろから怯えたような悲鳴が上がったことに気づき、のろのろと振り返ると。
そこには輪郭のはっきりとしない、白い狼がぽつんと座っていた。
◇
頭が割れるようだ。
覚えのある記憶が浮いては消え、濃霧の中へと沈んでゆく。
繰り返し、繰り返し。蘇ることなど決して許さぬとばかりに。
襲う目眩と異常な飢餓感は、もしや空腹のせいなのだろうかと考えたところで、不意に浮かぶ疑問。
「……わたくし、ご飯は食べなくても良かったはずではっ……?」
はたと目を見開き、立ち止まる。
呼吸を整えつつ視線を落としてみれば、仕立てのよい白いカフタンと、やけに長いピンク色の髪が目に映る。持ち上げた足には踵の低い靴もあった。
フィルゼの黒い上着をくしゃりと抱えるのは、自分にはなかったはずの両腕。
人間だ。人間の体になっている。
毛玉は大層驚き、その場で思わずぐるぐると回ってしまった。
「わ、わたくし本当に人間だったのでしょうか!? どうして急に、あ!」
疑問符だらけで跳ねていた彼女は、そこで上着の中に突っ込んでいた落とし物──恐らくセダの持ち物とおぼしきペンダントを引き抜いた。
先程、セダと話しているときにコレが足元に落ちていることに気付いたのだ。何気なく視線を遣ってみれば、それは楕円形の青い石に、若い女性の横顔が彫刻されていて……。
「もしかして、この方を真似て……?」
鳥の姿を真似したときと同じ現象だろうかと、毛玉は首を傾げる。
何にせよ、人間の姿なら移動も幾らかマシになるだろう。毛玉は逡巡の末、ペンダントを首から掛けておいた。セダの大事な物を紛失しては大変だ。
ついでに、抱えるよりは、とフィルゼの上着にも袖を通して、ようやく準備万端となった。
「よしっ、フィルゼさまのところに行かなくては! 鳥さーん!」
いつものように呼び掛けると、すぐさま大きな影が舞い降りる。瓦礫の山にバサリと着地したのは、子供の身長ほどはありそうな大きなワシだった。
毛玉は凛々しい顔付きをした友人の顎をそっと撫でつつ、意気込んだ声で告げる。
「初めまして鳥さんっ、わたくし毛玉と申します! お友達と一緒に、今から言う人たちを捜してほしいのです……!」
フィルゼ、レベント、エスラの特徴を順に伝え、彼らを見付け次第こちらに知らせてほしい──そう訴えた後で、いや待てよと彼女は視線を宙に投げた。
「……でもわたくしがお迎えに行くよりも、皆様にそれぞれ動いてもらう方がいいでしょうか? どうにかして、岩が飛んでくることだけでも伝えられたら良いのですが……」
うんうんと悩んでいる間にも、遠くから戦いの音が聞こえてくる。立ち止まっている暇はなさそうだ。
飛び跳ねながら後を付いて来るワシと一緒に、彼女はとりあえず手近な民家に駆け込んだ。
「お邪魔します! えっと、何か使えそうなものは……あ!」
足を踏み入れる前から、鼻孔をくすぐっていた独特な匂い。その元を辿らんと散らかった屋内を進んだ毛玉は、そこで汚れた大きな壺を発見する。
中には案の定、どろりとした赤色の染料が入っていた。手織絨毯に用いる糸を染めるために、大量の木の実や花を染料とする──赤い内ポケットを縫い付けてくれた絨毯売りの少年が、針を動かしながら教えてくれたことだ。
「これ、使っても大丈夫かな……」
床に打ち捨てられていた刷毛を手に取り、彼女はうろうろと辺りを見回す。くるりと一回転して目に留まったのは、自身が頭に着けている真っ白なベール。
細長く柔らかなピンを何とか手探りに外し、両手でベールを広げる。何を書いても分かりやすそうなお誂え向きの生地に、毛玉は満足げに頷いた。
「良さそうです!」
勝手知ったる動きでフィルゼの上着をゴソゴソと探り、引き抜いたのは小さなナイフ。彼女はその鋭い刃で、上質なベールを躊躇なく縦にビリビリと切り裂いた。
「三つに分けて、んーと、何て書こう……『危険』? 『撤退』?」
「キィ」
「そうですね! じゃあ『岩』も書いておきましょうっ」
赤い染料に刷毛を浸し、岩、危険、撤退とベールに大きく書き記す。
ワシが羽をバタバタと動かして乾燥させてくれる間に、毛玉は同じものをもう二つほど完成させた。
「鳥さーん! お手紙を届けてくれる方はいませんか〜! わあ!」
そうして呼びかけが終わるよりも前にやって来たのは、二羽のカラスだった。
毛玉は事情を説明しながら、せっせとベールの切れ端を細長く折り畳み、彼らの足にそっと括り付ける。
「重くはありませんか? と、飛べそうですかっ?」
彼女の心配とは裏腹に、返ってきたのは「任せろ」と言わんばかりの頼もしい鳴き声だった。ワシが先陣を切って飛び立つと、すぐさまカラスもその後を追う。
「皆様、お気を付けて〜!」
外に出て彼らを見送った毛玉は、再び空腹を感じて腹を押さえた。
「うう、何だかフラフラする……お腹が空いてるからかな」
何か口にした方がいいのだろうかと眉を下げたとき、今度は馴染みのある声を捉えて周囲に視線を巡らせる。
休む間もなく、ぱたぱたと民家の間を小走りに駆けてゆくと──。
「メティっ!」
見晴らしの良い広場の脇、数頭の馬が繋がれた小さな厩舎に、毛玉の初めての友人である立派な黒馬がいた。
ぱあっと表情を輝かせて駆け寄れば、それがピンク色の毛玉と同一人物であることを悟ったのか、メティも嬉しそうに尻尾を揺らして近付く。
「ここにいたのですね、メティ! フィルゼさま、どうしてメティを他のお馬さんのところに……。……え? メティが攻撃されないように、ですか?」
べろりと毛玉の頬を舐めたメティは、どこか寂しげに頭を擦り付けた。
馬は家畜の中でも特に重宝される動物だ。何か特別な理由でもない限り、ここに捨て置かれた馬は攻撃対象になり得ないどころか、優先的に保護されると言えるだろう。
しかし、狼月軍と敵対しているフィルゼが所有する馬となれば、一転してメティは真っ先に狙われる存在となってしまう。
だからこそ彼は戦いに赴くに当たって、メティをあらかじめ離しておいたのだろう。
だが。
「……メティ、ここのお馬さんたちと一緒に逃げてください。狼月軍の人たちは攻撃してこないかもしれませんが、町に飛んでくる岩は分かりません」
先程セダたちのすぐそばへ落下した岩は、北門への路を塞ぐために放たれたものだろうが、次もその狙いが正確に働くとは言い切れない。
誤って厩舎に直撃でもすれば、メティもろとも瓦礫の下敷きだ。毛玉は急いで厩舎の扉を開けた。
「お馬さんっ、北……は危ないから、南側の門から外に逃げてください! ほら、メティも……わたくしなら大丈夫です! いざとなったら小さくなって身を潜めますからっ」
心配そうに耳を伏せるメティの頭を、ぎゅっと抱き締める。少しだけ顔を離して微笑むと、黒馬の長い睫毛が上下した。
「メティ、必ずまた会えますからね。だから今は、皆を連れて安全なところに行ってください」
メティは応じるように尻尾を振り、他の馬と共にゆったりと走り出す。
彼らの無事を祈りつつ、毛玉が一息つくや否や、上空から伸びやかな鳴き声が響き渡った。
「あれは……さっきのワシさんかな……?」
ブルトゥルの遥か上、滑空しながら緩やかに旋回する大きな翼。
彼の声に耳を澄ました毛玉は、ハッと目を見開いた。
「フィルゼさまが近くにいる……! ──っ」
彼女の顔が喜色に染まったのも束の間、続けざまに襲った激しい頭痛に崩れ落ちる。
まるで警告音のように、頭蓋に木霊する獣の声。付近にいるあらゆる動物が、彼女に何かを知らせていた。
──行ってはならない。
──行くべきだ。
──あれに近付くな。
──逃げなさい。
──君の狼が危ない。
──また。
──怖い思いをすることになる。
「……わ、わたくしは、一人じゃありません」
頭の中の声が、一瞬にして消える。
沈黙した彼らに、毛玉は深呼吸を挟みつつ告げたのだった。
「だからフィルゼさまのことも、一人にしません!」




