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追放剣士とピンクの毛玉  作者: みなべゆうり
8.餓狼襲来

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8-3

「夫人、こちらに」


 人々が消えたブルトゥルの路地裏。敵影が無いことを確かめたエスラが、慎重にセダの肩を支えながら歩を進める。

 右足を引きずって歩くセダの腕には、フィルゼの上着に包まれて眠る毛玉がいた。ギュネ族の一家に協力を得て無事に隠れ家を脱出して以降、彼女はずっと沈黙を保っていたが。


「ん……」


 毛玉の目覚めに気付き、セダがハッと立ち止まる。


『セダ殿。皇女の名前は……まだ呼ばないでやってほしいんです』

『何故か伺っても?』

『毛玉は記憶が戻りかけると、強い痛みを覚えるようです。だから、少なくとも逃げる間は』


 戦いの場へと赴く直前、フィルゼから告げられた頼みを脳内で反芻したセダは、口に出しかけた皇女の名を飲み込んだ。


「……お嬢様、お目覚めになりましたか」

「……? セダさま、エスラさま……」


 毛玉はぼんやりとした声で二人の名を呟き、どこか不安げに上着の奥へと体を沈ませる。その途中、花柄の刺繍が施された赤い内ポケットを見つけては、ほっと安堵の息をついて。


「あのぅ、フィルゼさまはどちらに? メティも……」

「彼は狼月軍からブルトゥルの町を守るために戦っています。メティというのは?」

「黒いお馬さんです。わたくしのお友達……」

「あの黒馬なら、フィルゼ殿がどこかに隠したはず。我々は逃げ遅れた住人を連れて、北門へ向かっている最中でございます」


 セダとエスラの後ろには、隠れ家にいたギュネ族の一家の他にも、身内とはぐれた子供や足の悪い老爺が付いて来ている。セダが彼らの姿を一瞥すれば、大雑把に状況を理解した毛玉がぴょんと飛び跳ねた。


「そんなっ、じゃあフィルゼさまは今、お一人で戦っているのですか?」

「いいえ、レベント殿も一緒です。お二人の実力は私もよく知っていますから、どうかご心配なく」

「でも……ふんん」


 そわそわと足を生やし始める毛玉を見て、ふと強い不安に駆られたセダは彼女を上着ごとぎゅっと抱きしめる。


「あぅ、セダさま?」

「は……申し訳ありません、何も」

「──ふぇ……」


 そのとき、後方から幼子の泣き声が聞こえた。見れば、まだ五つにも満たない少女が地べたに座り込み、ぬいぐるみを抱き締めて泣いていた。

 両親の不在は当然のこと、町の静けさも相まって、心細さに負けてしまったのだろう。セダはすぐさま少女の元へ歩み寄り、その小さな背中をそっと撫でる。


「あなた、大丈夫? もう少しで北門に着くから……」

「ひっく、お母さんどこ? 怖いよぉ……」


 泣き止む気配のない少女に、セダがどうしたものかと言葉を選ぶ傍ら、腕の中から唐突に元気な声が飛び出す。


「そのぬいぐるみ、猫ちゃんですかっ?」

「え?」


 ぱっと顔を上げた少女は、声の出どころを探して視線をうろつかせると、ややあって眼前にいる毛玉にたどり着いた。

 目を腫らしたまま、それでも好奇心に満ちた顔でこくりと頷いた少女に、毛玉は「わかりました!」と返事をして。


「まだ町にいる猫ちゃんはいませんか〜! わたくしたちと一緒に逃げましょう〜!」

「お嬢様、何を──」


 セダが戸惑ったのも束の間、民家の隙間から「みゃあ」と細い声が応じる。

 そうして彼らの前に現れたのは、それなりに脂肪を蓄えた貫禄のある茶トラ猫だった。その口には生まれたばかりであろう小さな子猫を咥えており、少女の視線はあっという間にそこへ吸い寄せられる。


「初めまして猫ちゃん! わたくし毛玉と申します! 町から出るのなら一緒に行きませんか? わあ、ありがとうございますっ。えっと、それで、こちらの女の子なのですが──」


 毛玉と何やら会話をした後、親猫は返事をするようにひと鳴きして、おもむろに少女の側に擦り寄る。まるで元気づけるような、それこそ自分の子供を毛繕いするかのような仕草で。

 大好きな猫に励まされたおかげか、気付けばすっかり泣き止んでいた少女が、やがて涙をごしごしと拭って立ち上がる。


「あ、ありがとう、あの、猫さんと、ピンク色の……人……」

「どういたしまして! わたくしのことは毛玉と呼んでくださいっ」

「毛玉ちゃん、ありがとう……。あ、ご、ごめんなさい、セダ様、わたし歩けます」


 事の成り行きを見守っていた老爺が、そっと少女の頭を撫でて歩き始める傍ら、一方のセダは何も言葉が出なかった。


(今のは……確かに獣神の。でも……)


 ──セダが知る力とは、少し、違う。


 あらゆる獣と心を通わせるという点は同じでも、その際に皇女が人の言葉を喋ることはなかったはず。以前の彼女は周りの音を全て遮断して、獣の声なき声にじっと耳を傾けるばかりだった。

 セダはその姿が恐ろしかったのだ。人間の肉体を捨て、獣の世界に誘われてゆく皇女の後ろ姿が、心底恐ろしかった。

 だからこそ記憶を全て失ったと聞いたときは、皇女の人間としての未来は終わったとさえ思っていたのに。

 いいや、でも。


(……だから何だと言うの。獣と心を通わせることに、何の意味が? 惑わすばかりで、彼らに殿下を守れるほどの力はないというのに)


 ──あの怪物(・・)に襲われたときだって。


 仄かに見えた希望の光は、きっと己の願望が生み出した儚い幻だ。

 獣神の力は、この弱くて優しい皇女をセダの手から引き離す、恐ろしい神秘に他ならない。

 セダは静かにかぶりを振ると、重たい足を引きずってエスラの元へ戻った。

 しかし。


「……夫人、少々お待ちを」

「どうされたのです? エスラ殿」


 スッと持ち上がった制止の手。声を抑えつつ尋ねてみれば、エスラが無言で壁際に寄るよう手で示す。

 後続の住人たちと共にそっと身を縮めれば、十字路の奥から何やら大勢の声が聞こえてきた。


「──僕はブルトゥルの住人を避難させるよう、〈明鴉〉様から指示を受けたんだ! 上官を放置して別行動を取る馬鹿がどこにいる!」

「うるせぇ! さ、さっきヤランジュ様の部下に言われたんだ、〈豺狼〉様の命令に従えば、俺達に褒美をくれるって!」

「そもそも、これからの狼月にギュネ族は必要ねぇんだよ! あんな不穏因子、さっさと排除すべきだろうが!」


 忌々しげな怒声が響き、後ろにいたギュネ族の夫婦がびくりと肩を揺らす。顔色悪く、しかし明確な憎悪を滲ませて俯く彼らに、セダは「耳を貸すな」と首を左右に振った。

 だが、狼月兵とおぼしき男たちの口論は尚も続き、やがて痺れを切らした一人が声を荒げた。


「本当にいつまでも僕の話を聞かないな、君たちは! ブルトゥルに暮らす住人はギュネ族以外にも大勢いる! 〈豺狼〉殿は彼らを皆殺しにしろと君たちに言ってるんだ!」

「そ、それがどう……」

「そうして生まれた犠牲と憎悪は、五年前の比じゃないぞ! 狼月に更なる火種を撒く行為だと何故わからない!」

「ぐ、ッ……偉そうな口を利くな! ラジ!! いつもいつも平民のくせに俺達に刃向かいやがって!」


 ラジと呼ばれた兵士の言葉はもっともであったが、如何せん相手が悪かったようだ。頑なに己の非を認めようとしない兵士たちは、いよいよ実力行使をせんと武器を抜いた。


「……。夫人、十字路を右へ。北門まで足は止めないように」

「!」

「どのみち、この先は隠れる場所が無いですから」


 顔を上げれば、こちらを振り返ったエスラがにこりと笑う。


「ティムールが好みそうな熱い兵士だ。失うには勿体ない」


 冗談めかした口調なれど、本心には違いないのだろう。エスラは鞘から双剣を抜き放つと、音もなく駆け出した。

 彼女が〈鷹隼〉の称号を授けられた所以。それは鷹が有する鉤爪よろしく反り曲がった双剣の刃と──獲物に気取られることなく距離を詰め、一瞬のうちに決着をつける早業にあるという。


「ぐぁ!?」


 ラジに斬りかかろうとしていた兵士の首を、エスラは寸分の狂いもなく捉えた。他の兵士が驚いて硬直したのも束の間、既に次の狙いを定めていたエスラが流れるような動きで両手を振り抜く。


「セダ夫人、行きましょう……!」


 ギュネ族の夫婦に促され、セダは指示通り北門へと走り出した。ちらりと後ろを振り返れば、腰を抜かしてしまったラジを背に庇いながら、エスラが次々と兵士を下す姿が見える。

 安定した攻めを見る限り、心配は無用だろう。彼女が軍の注意を引いているうちに、こちらも速やかに動かねばならない。セダは住人たちを連れて急いで北門を目指した。


「あっ、わぁ、鳥さん?」


 しかしその途中で、不意に毛玉の元へ小鳥が降り立つ。

 上着の隙間から頭を突っ込んだ小鳥が、毛玉に何かを伝えた直後のことだった。


「──セダさま! 伏せてください!」

「えっ?」


 毛玉の慌てた声が上がるのと、目の前の民家が崩落するのはほぼ同時だった。



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