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8-2

 幾度も町に響き渡る咆哮は、民家が崩壊する音とそれほど大きな差は無いように思われた。


「逃げろ! 北門から町の外へ! 東門には近付くなよ!!」

「待って、家には祭壇が……」

「そんなこと言ってる場合か!? 早くしないとアイツが来るぞ!」


 東門の襲撃を知る者たちが避難を促せば、状況を飲み込めない住人は不安を露わにしながら、後ろ髪を引かれる思いで外を目指す。

 途中、再び轟音が地を揺らし、それが更に近くへ迫っていることを悟ったなら、重たい荷物を手放し走り出した。

 怯える悲鳴に、赤子の絶叫、誰かを探し求める声。混沌とした大通りを逆走する少年は、ようやく人混みを抜けては自宅に転がり込んだ。


「お母さん!」

「テミール! どこに行っていたの……!」


 弾かれたように振り返った母親は、ちょうど最低限の荷物をまとめた後だった。

 テミールはすぐさま母の手を引き、外へ引きずり出そうとする。


「町に狼月軍が近付いてるんだって、早く逃げよう」

「え、ええ、そうね」


 幼い息子が既に状況を把握していたことに戸惑いつつ、母親は表情に滲み出た恐怖を振り払った。そうして荷物を包んだ風呂敷(ボフチャ)を掴んでは、テミールと共に外へ踏み出したが。


「あ……っ」


 そこで彼女は不意に、物置きの奥に眠らせた、夫の遺品を思い出してしまった。


「お母さん?」

「……テミール、先に行きなさい。お母さん、すぐに追い掛けるから。北門まで真っ直ぐ走って、お隣のサイルおじさんを探すの。良いわね」

「え?」


 驚くテミールの背を押し、母親は急いで踵を返す。

 向かう先は、食糧庫とは別の小さな収納部屋。ここ数年は開かずの間となっていたそこに、亡き夫の遺品──彼が戦場へ向かうとき、必ず携えていた丸盾がある。

 青銅で縁取られた表面に、大きく描かれた二十六夜月。誇り高きギュネ族の戦士へ、初陣を迎えるにあたって贈られる武具の一つだ。

 夫はこの丸盾で幾人もの仲間の命を救ったが、狼月の悪霊はこれを呆気なく弾き飛ばし、晒された肉を軽鎧ごと切り裂いたという。

 盾の持ち手には、拭っても取れない夫の血が、今もなおこびりついたまま。


「っ……」


 今日、あの青年に会いさえしなければ、このような非常時に思い出すことも無かっただろうに。

 彼女は治りかけていた傷を掻き毟られるような気持ちで、丸盾を抱きかかえた。

 そのとき。


「──え?」


 収納部屋の壁に亀裂が走り、間髪入れず弾け飛ぶ。同時に襲った衝撃は容易く彼女の体幹を揺さぶり、あえなく床に倒れ伏した。

 破壊された納屋の木材が屋内へと雪崩込み、彼女は抱えていた丸盾で咄嗟に頭を守る。

 瓦礫と土埃に満たされた視界の中、聞こえたのは獣に似た呻き声と。


「お母さん!」

「テミール!?」


 息子の声に飛び起きた彼女はしかし、眼前に立ち塞がる大きな影に言葉を失う。

 ソレは強靭な体躯を持つ半裸の大男だった。胸や背中には無数の傷が刻まれ、四肢に繋がれた長い鎖が耳障りな音を立てて揺れている。狼の頭蓋骨を模した不気味な兜の下、大男は剥き出しの歯を噛み締めた。

 直後、獰猛な叫び声が鼓膜を叩く。

 丸太のように太い右腕が鋭く振り上げられたなら、その手首に繋がれた鎖が鞭のように撓り、瞬きを挟む間もなく肉薄した。


「お母さん!!」


 それでも不思議なことに、母親の本能は目の前の危険よりも、無謀にも駆け寄ろうとする息子へと意識を逸らし。


「テミール、逃げなさい!」


 金切り声で叫んだ直後、割り込む影が一つ。

 一閃した刃が鎖を弾き返し、すかさず大男の懐に入っては腹部を裂く。致命の一撃に思われた攻撃はしかし、すんでのところで大男が後ろへ跳躍したことで躱された。

 土埃の奥へ消えた影を注意深く目で追いながら、銀髪の青年はちらりと母子を見遣る。


「怪我は」


 声を掛けられ、ようやく彼が狼月の悪霊──すなわち夫の仇であることに気付き、彼女はハッと口を噤んだ。

 その傍ら、いつの間にか傍までやって来ていたテミールが母の代わりに口を開く。


「大丈夫だよ、ありがとう! 青い目のお兄ちゃん」

「奴は俺が引き付ける。その間に北門へ行ってくれ」

「あ、待って!」

「テミール!?」


 テミールが突然、母親の膝にあった丸盾を抱え、銀髪の青年に駆け寄った。何をするのかと思えば、息子はその丸盾を青年に差し出したではないか。


「これ、お父さんが使ってた盾! 危ないから持っていって」

「……だが、この盾は……」

「僕とお母さんじゃ重くて、ちゃんと使えないけど……きっとお兄ちゃんのこと守ってくれるよ!」


 青年は少しの動揺を露わにした後、「分かった」と言って盾を受け取った。


「……ギュネの盾は丈夫だからな。ありがたく拝借する」

「うん! 気を付けて!」


 テミールの頭を撫で、丸盾の持ち手に腕を通した青年が、臆することなく外へ駆け出す。

 彼女はその背中を、ただ呆然と見送ることしか出来なかった。



 ◇



 ──半壊した民家から抜け出したフィルゼは、土埃が晴れると同時に襲ってきた戦斧(せんぷ)を盾で弾き、素早く大通りの方へと転がり出た。


「……何だ、コイツは……」


 いつでも対応できるよう短剣を構えつつ、ゆらりと振り返った大男の全身を観察する。

 狼の頭骨を模した不気味な兜。そこにはクルトとおぼしき黒い毛皮が、男の首を守るように縫い付けられていた。無数の傷を晒した体躯には、それこそが肉の鎧であるかのごとく、目立った防具は見当たらない。

 一方で、その手に握られた柄の長い戦斧は、岩から削り取ったと言われても納得してしまうほど大振りで、まともに食らえば骨が砕けることは明らかだ。

 加えて四肢に繋いだ鎖すらも、この男は自らの武器として操っているように見える。下手に距離を取れば最後、鉄の鞭がこちらを襲うだろう。

 だが、たとえ相手が自分よりも遥かに大きな敵だとしても、フィルゼに撤退の選択肢は無い。


「……。毛玉が怖がってるのは、あんたで間違いなさそうだな」


 身一つで町を破壊して回り、見境なく人を襲う(けだもの)。今この瞬間も、男にフィルゼの言葉は届いていないのだろう。

 ただ目の前にいる命を散らすことだけが、男に与えられた役割なのだとしたら、フィルゼは何としても彼をここで葬らねばならない。


『……フィルゼ、さま』


 ──あんな怯えきった声は、二度と聞きたくないのだ。

 フィルゼはゆっくりと身を低くすると、勢いよく地を蹴った。直後、彼の動きに応じて大男も前へと踏み込む。

 巨躯に見合わぬ速さで戦斧が真横へ振り抜かれ、その軌道のわずか下へと身を躱したフィルゼは、すかさず遅れてやって来た鎖をギュネの盾で受け止める。そのまま走る勢いを殺さずに直進し、大男の右足を狙ったが。


「!」


 その狙いを読んでいたかのように右足が引かれ、真上から戦斧が振り下ろされる。視界の外から襲い来る攻撃を、皮膚の僅かな痺れによって感知したフィルゼは、直感のまま大男の背後へと飛び込み、立ち上がるついでに短剣を振り抜いた。

 確実に脇腹を捉えたかのように思われた刃はしかし、大男の左手首──鉄製の手枷によって辛うじて遮られてしまう。

 力任せに暴れ回るだけかと思いきや、この男は存外反応が鋭かった。こうしてフィルゼと対峙し、時間が経つにつれて、それが段々と研ぎ澄まされていくような気さえ。

 明らかに他の狼月兵とは次元が違う。この戦いぶりは厳しい戦闘訓練を受けたというよりも、大男自身の本能に起因しているような──。


「グうぅッ」


 難敵を前にフィルゼが攻めあぐねていると、不意に大男が苦しげに呻き始めた。

 短剣で捉えた戦斧に異常な力が込められたことを悟り、フィルゼはすぐさま刃を外して後ろへ飛び退く。すると案の定、大男は狙いも定めずに戦斧を薙ぎ、近くにあった露店を一撃で崩壊させた。

 商品の壺や陶器がけたたましい音を立てて壊れると、その音が更に大男を苦しめる。彼は兜の上から自らの頭を押さえ、その場に膝から崩れ落ちた。


「うう、敵……敵を、殺せ」

「……」


 フィルゼは息を整えながらも、短剣を握り直す。まるで神に祈るかのように蹲る大男は、頻りに「敵を殺せ」と繰り返し呟いている。

 自分へ何度も言い聞かせるその姿は、自ら呪いを掛けているようにも見えた。


「殺せ、逃げるな、敵を──狼は、逃げてはならない」


 その、妙に際立って聞こえた独り言を捉えた瞬間、フィルゼは無意識のうちに距離を詰め、短剣を振りかぶっていた。

 だが、首を刎ねんと振り抜かれた刃は、大男の手のひらを深く抉るに留め。



「──主は、一人」



 刹那、狼の眼窩から覗いた瞳は、ひどく見覚えのある色をしていた。


「……!」


 フィルゼが大きく目を見開いたのも束の間、掴まれた短剣ごと体が浮き、次の瞬間には強い衝撃が彼を襲った。

 民家の壁に叩きつけられたのだと理解するよりも先に、眼前へ迫った影が戦斧を振る。轟音と共に壁が崩れる中、辛うじて直撃を免れたフィルゼは、額から流れる血に構わず体勢を立て直した。

 そうして再び突進してきた大男に向かって駆け出すと、振り下ろされた戦斧を躱し、それを踏み台にして高く跳躍する。

 僅かな滞空の間、襲う鎖を盾でいなし、フィルゼは垂直に構えた短剣の先で大男の左肩を貫いた。

 一瞬の後、上がる呻き声。だがその傷がまだ浅いことを知っていたフィルゼが、大男の肩を蹴って距離を開けたときだった。


「なぁにをしておる! このウスノロ!!」


 突然罵声が飛び、フィルゼの足元から大きく外れた場所に矢が突き刺さる。

 振り返れば、そこには黒い鎧を身にまとう一団──狼月軍が弓を構えていた。そして彼らの後ろには、じゃらじゃらと貴金属で全身を飾り立てた禿頭の男がいる。

 彼は負傷した大男を叱りつけた後、フィルゼと目が合うや否や情けない悲鳴を漏らし、兵士の後ろにそそくさと隠れた。


「ヒッ! な、何故ブルトゥルに……き、貴様ら、ヴォルカンを援護せい! その生意気な若造は生きて逃がすでないぞ!」

「は、はっ!」


 ヴォルカン──やはりこの大男は狼月軍の管轄下にあるのかと、フィルゼは怪訝な眼差しを前方へ向ける。

 未だに苦しげな様子を見せるヴォルカンは、しばし左肩の傷を押さえていたが、やがて痛みを忘れたかのように戦斧を構え直した。

 前後を敵に挟まれたフィルゼが、じりりと踵で地面を擦ったとき。

 彼は狼月軍の背後から猛然と迫る、勇猛果敢な蹄の音に振り返った。


「え……ヤランジュ様! あぶな」


 兵士の声を遮るは白馬の嘶き。鎧を貫き、敗者を地に投げ捨てる純白の騎槍が、陽光を眩しく跳ね返す。

 馴染みのある白い甲冑に身を包んだ騎士は、恐れおののく狼月軍に向かって高らかに宣言した。


「狼月兵の諸君! 誇り高き〈白狼〉に挑みたければ、まずはこのレベント・コライを倒してからにしたまえ!」


 相変わらずの声量だとフィルゼは苦笑し、加勢に来てくれた白き騎士に片手を挙げると、再びヴォルカンの方へと駆け出したのだった。


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