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帝室とギュネ族の血を引く皇女、アイシェ・ユルディズ・タネルが生まれたのは、今から十七年ほど前のこと。
刺客に襲われた際の傷口から感染症に罹った上、産後の肥立ちも悪く寝たきりとなってしまったエジェに代わり、幼い皇女はトク夫妻によって大事に育てられることになった。
自然豊かなヨンジャの丘で、アイシェはすくすくと育った。ルスランは人目を盗んで定期的に足を運び、愛する妻子の顔を見に来ては、幸せそうな、それでいて申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
『すまないね、アイシェ。私が不甲斐ないばかりに……』
母親と同じ薄紅の髪を優しく撫でつけ、ルスランは小さな娘を抱き締めた。
『陛下……どうかそのようなことを仰らないでください』
『事実だろう? あんなに元気だったエジェが寝たきりになったのも、ギュネ族との和解の道がまた途絶えてしまったのも……アイシェが堂々と生きられないのも、全て私の落ち度だ』
ルスランが弱音を吐く機会は滅多になかった。乳母として長年側にいたセダでさえ、ここまで弱り果てた彼は初めて見る。
だがそれも致し方ないことだ。エジェの訃報で宮殿は少なからず落ち着きを取り戻したものの、肝心のギュネ族は怒り心頭で、それまで順調だった和平交渉は呆気なく決裂した。
彼らにはエジェの存命だけでも知らせたいところだが、何処から情報が漏れるか分からないため、安易な行動は許されない。
結局、ルスランとエジェが夢見た未来は遠ざかるどころか、以前よりも輝きを失ってしまった。
『……私は統治者失格だ。人々の平穏を口にしておきながら、結局は自分の願いを優先してしまったのだから』
腕の中でうとうとと微睡むアイシェに頬を寄せ、ルスランは自嘲気味に笑う。
自分への失望を露わにする彼に、セダは「いいえ」と前に踏み出た。
『私は、陛下が迷いなくエジェ様と皇女殿下の命を優先したこと、乳母として誇りに思います』
『セダ……』
『ギュネ族との和解は、まだ幾らでも機会がございましょう。ですが、お二人の命には次など無いのですよ、陛下』
ルスランは乳母の言葉に耳を傾けた後、「そうだな」と小さく呟いた。
アイシェが少しだけ言葉を喋るようになった頃、エジェは静かにこの世を去った。
ヨンジャの丘にはいつも通り暖かな日差しが降り注ぎ、棺に土が掛けられていく様子をまざまざとルスランたちに見せ付けた。
『おかしゃま』
棺を指差すアイシェに、ルスランは何も言わず頷いた。
『おかしゃま、ねんね?』
そうして再度尋ねられたなら、彼は幼い娘をしっかりと抱きかかえて告げる。
『……うん。お母様はとても頑張ったから、ゆっくり休ませてあげよう』
アイシェはそれきり言葉を発することなく、眠る母を父と共に見送った。
ルスランはその後、エジェの訃報に関して不名誉な噂をばら撒いた保守派を粛清し、信頼を裏切ることになったギュネ族への賠償を行った。
彼の元にはエジェを支持していた貴族たちが新たに集い、当時急速に発展していたレオルフ王国との活発な貿易や、領主の監視および治安維持を担う軍事要塞設置に関する調整など、狼月の今後を見据えた政策を推し進めることになる。
エジェと思い描いた未来の実現に向けて、彼が着実に地盤づくりを進めていたときだった。
『……アイシェがいなくなった……?』
アイシェが三歳を迎えて間もない頃、彼女が忽然と部屋から姿を消したのである。
セダはすぐさまルスランに使いを遣り、城を隈なく捜し回ったが、その日の夕方になっても皇女を見つけることは叶わなかった。
『陛下、申し訳ございません……!』
『セダ、落ち着け。少し休んだ方がいい。ここからは私が捜そう』
一日中アイシェを捜していた乳母に労いの言葉を掛け、ルスランはトク家の騎士たちと共にヨンジャの丘全域を捜索することにした。
しかし、日が完全に落ちた後、行方不明だったアイシェは思わぬ形で発見される。
『ふぁ』
『! アイシェ!?』
心配でどうにかなりそうだったルスランが、城の中庭にあるベンチに腰掛けたときだった。
突然アイシェの声が聞こえて立ち上がってみれば、足元から転がり出てきたのはピンク色の──毛玉。
『ふわぁ』
小さなあくびをして、もう一度、今度は大きなあくび。それがアイシェの最近の癖だと気付いたルスランは、努めて優しく毛玉を拾い上げた。
『……アイシェ?』
『ん……』
『私のことが分かるかい? 自分の名前は?』
寝ぼけたまま言葉にならない音を出す毛玉。不思議なことに、ルスランはこれがアイシェであると確信していた。
根気強く名前を尋ねる傍ら、ベンチの下で娘と一緒に眠っていたであろう野ウサギが外へ這い出す。彼らが庭園を囲む鉄柵をひょいひょいと通り抜け、全員が姿を消す頃になって、ようやく毛玉が言葉を発した。
『おとうさまだ』
『……ああ、そうだよ。アイシェ、こんなところでお昼寝を?』
『ううん。おかあさまにね、会いたくて……』
『……』
『でもね、どこにもいないから、ここで待ってたの。みんなといっしょに』
みんな──それが、セダや使用人達のことではないのは明白だった。
ルスランが閉口すると、手のひらで毛玉がもぞもぞと左右に揺れる。何らかの兆しを感じ取り、曲げた膝の上に毛玉を乗せてやれば、まばたきの間に幼い少女がそこに現れ、小さな重みが腿に乗った。
『アイシェ』
『わあ、おなかすいた……』
驚いたような声で呟き、アイシェは父の肩にしがみつく。少し熱っぽい体を抱き上げ、ルスランは足早に庭園を後にした。
『皇女殿下……!』
城の中に戻れば、憔悴しきったセダが飛んでくる。乳母の苦労など全く知らない様子で眠りこけるアイシェに、しかしセダは多大なる安堵を滲ませて顔を覆った。
『ご無事でようございました。陛下、皇女殿下のお着替えを……』
『セダ』
『はい?』
アイシェをそっと引き渡しながら、ルスランは浮かない顔で告げたのだった。
『……私は、エジェだけでなく……この子も手放さなければ、ならないのだろうか』
◇
「皇女殿下は三歳を迎えた辺りから、エジェ様の行方を尋ねられるようになりました。そうして段々と、お母君に会えないことを理解するようになった頃……突然、あのお姿に変貌なさったのです」
あの姿には、未知の奇跡である霊術が少なからず関わっているものと思っていたフィルゼは、それが皇女自身に起因するものと知って驚いた。
況してや──獣神の力など。
「陛下は私に仰いました。『もしも私がいない間、再び娘が獣たちと姿を消してしまったら、何度も名前を呼んでやってほしい』と」
「……名前?」
「はい。皇女殿下はあのお姿になると、どうしても自我が希薄になられます。全ての感覚や意識が、周りの動物たちに注がれてしまうようで……何日も人間の姿に戻れないこともございました」
いつもなら元気な返事をするところを、毛玉状態になると途端に反応が消え失せ、どこからか呼び寄せた小さな動物と静かに戯れる。セダ曰く、そんなことが頻繁にあったそうだ。
幸い、肉親であるルスランの声は届きやすいのか、彼の呼び掛けがあれば比較的容易に元の姿に戻ることが出来たようだが、そのつど体調を崩す皇女にセダたちは気が気でなかったという。
エジェが必死の思いで産み落とした幼い皇女が、得体の知れぬものに拐かされてしまうのではないか。
ルスランにまたもや、癒えぬ傷を与えるのではないか、と。
「……狼月の神話や帝室に受け継がれた口伝を片端から洗ってみましたが、皇女殿下のような方が存在した記録はありません。しかし──あれが、あらゆる獣と心を通わせる、獣神の名に相応しい力であることは明白でした」
繊月の宵に現れた白き狼が、何故「獣の神」と呼ばれたのか。
それはきっと、かの神が狼という貌に囚われぬ奇跡を有していたからではないか──数多の獣を己の意のままに操る、そんな奇跡を。
実際に毛玉の力を側で見てきたフィルゼは、ルスランとセダの推測を真っ向から否定することなど出来なかった。寧ろ、あれが帝室の血筋によるものだと聞いて、ようやく腑に落ちたような気さえする。
無論、まだ全ての事情を完全に飲み込めたわけでもないのだが、ひとまず彼は亡き主人の過去を脳に刻み込んだ。
「……三年前の時点で皇女を狼月から逃がせなかったのは、その力が原因だったということですね」
「ええ。皇女殿下がいつあのお姿になるのか、我々には予測がつきませんでしたので……もしも移動中に殿下を見失ってしまったら、取り返しのつかないことになります」
セダはそこで、不意に瞼を伏せた。
「……それに、陛下が亡くなってから皇女殿下はひどく塞ぎ込まれて。以前にも増して人間の姿に戻ることが難しくなっていました」
「!」
「フィルゼ殿。私は、このまま皇女殿下が──どこかへ消えてしまうことが、何よりも恐ろしい」
デルヴィシュに命を奪われるのが先か、はたまた皇女が人ならざる世界へ旅立つのが先か。どちらであろうと、セダにとって大きな違いなど無いのだろう。
フィルゼが何かを言うよりも前に、椅子から立ち上がったセダは深く頭を下げた。
「どうか、皇女殿下を連れてレオルフへ逃げてください。そして、平和な地で殿下の御身を守ってほしいのです」
「……。今の狼月を、捨て置けと」
「陛下の〈白狼〉である貴方には酷な選択でしょう。ですが、もはや狼月は自滅を待つのみ……他国の王が虎視眈々と我らの土地を狙っているのは承知しています。──その中で狼月の民と伝統を守ってくださるのは、レオルフ王ぐらいのものです」
だから、と彼女は苦しげな声で畳みかける。
「たとえ皇女殿下が人間に戻れなくても、何もかもを忘れてしまっても、レオルフ王の下ならば幸せに暮らせるはず。辛い記憶も、帝位も、人間の体も……殿下の重荷となるならば、捨ててくれて構いません。私はただ、殿下に……アイシェ様に生きていてほしいのです」
セダの切なる願いを聞いたフィルゼは言葉に詰まったまま、しかし、ついに返事をしなかった。
『逃げなさい』
亡き主人の最期の言葉に、従うことが出来なかったように。




