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毛玉が、ルスランの娘。
これまでに何度か可能性を考えては、そのつど確証が得られずに避けてきた結論を正面から突き付けられ、フィルゼは思わず硬直してしまった。
「……毛玉が……。だが、陛下に奥方は……」
その疑問は最もだと言わんばかりに、セダは鷹揚に頷く。
「陛下は婚約者を早くに亡くして以降、縁談には見向きもされなかった……貴方を始めとして、大半の者はそう聞いているはずです」
「……実際は違う、と?」
「ええ。陛下に婚約者がいたことは事実ですが、その女性はある事情から皇后になることはおろか、公の場に出ることすら危険な状況に陥りました」
フィルゼは怪訝に眉を顰めていたが、すぐにハッとした。
ルスランの婚約者は早逝したのではなく、やむを得ず身を隠したのだ。彼女の命を狙う勢力──皇后の座を狙っていた貴族たちや、帝位を我が物にせんと目論む者たちの毒牙から逃れるために。
いずれにせよ、既にその頃からルスランを帝位から引きずり降ろそうとする動きがあったことを悟り、フィルゼは奥歯を強く噛み締める。
だが、彼らがそのような行動を取るに至ったのは、もう一つ大きな理由があったとセダは語る。
「陛下の婚約者だったエジェ様は、ギュネ族出身の巫女でいらっしゃいました」
「!」
「エジェ様はギュネ族の習わしを厭い、幼い弟妹を連れて帝室に助けを求めに来られたのです。それが、お二人の出会いでもありました」
エジェ・ユルディズ。
彼女はギュネ族の祭事を執り行う巫女で、族長と同等の地位を持つ家系の生まれだった。しかし、頻繁に大きな災害が続いたことで生贄に選ばれ、近々食人の儀に出されることが決まっていたのだという。
それだけならまだしも、儀式が確実に効力を発揮するよう彼女の弟妹も一緒に、などという話が出たことで、エジェは部族から逃げ出すことを決意したそうだ。
元々、ギュネ族の風習や帝位に対する異常な執着心を疑問に思っていた彼女は、あえて敵対するタネル族の下に転がり込むことで命を繋ごうとしたのだろう。その判断が功を奏し、彼女は弟妹と共にルスランの庇護下に置かれることになった。
「陛下はエジェ様が要らぬ注目や批難を浴びぬよう、後宮ではなく小さな離宮に彼女たちを住まわせました。……そこで、お二人は帝室とギュネ族の和解の道を共に模索するようになりました。定期的に行われた部族間の会談には、エジェ様もご出席なさったようです」
エジェが帝室側に就いたことで、ギュネ族との小競り合いは暫し止まった。巫女であったエジェの言葉は、ルスランが一人で和解を訴えていた頃よりも比較的すんなりと受け入れられたという。
恐らく二つの部族にとって、あれほど互いが歩み寄った時期は他にないと、セダはどこか懐かしげに言った。
「エジェ様は何事にも意欲的な御方でした。部族の隔てを取り払い、狼月をより良い国にしたいと仰った陛下にいたく共感し、日夜議論を交わされて……。……お二人の間に、信頼以上の感情が芽生えるのは必然だったと言えましょう」
──しかし、穏やかな時間はそう長く続かなかった。
部族間の橋渡しを担うエジェは最初こそ好意的に見られていたのだが、ルスランの妃になる可能性が浮上すれば話は変わってくる。エジェに向かう視線は、次第に敵意あるものになっていった。
「陛下とエジェ様が仲睦まじくなるにつれて、皇后の座を狙っていた貴族たちの反発は大きくなり、やがて……彼らは陛下と折り合いの良くない保守派と結託したのです」
ギュネ族の殲滅を望む保守派は、ルスランに別の女性を后に据えるよう厳しく糾弾した。その中には当然、デルヴィシュの即位を目論む一派や厄介な勢力も含まれており、彼らがこぞってエジェの存在を否定したのだ。
彼らの怒りが望ましくない方向に加熱していくことを肌で感じ取ったルスランは、エジェが害される前に対策を練ろうとしたそうだが──。
「……気の早い者どもが、エジェ様に刺客を差し向けたのです。彼らは帝室の敵であるギュネ族を排除するという名目で、陛下が留守の間にエジェ様の命を狙いました」
幸い、ルスランが彼らの動きにいち早く気付いたことで、エジェは深手を負ったものの一命を取り留めた。
しかし、このままではギュネ族との和解はおろか、宮殿内で衝突が繰り返されることを懸念したルスランは、「エジェが死亡した」という虚偽の発表をしたのだった。
「エジェ様は当時すでに妊娠の兆しが見られました。再び襲撃などされてしまえば、今度こそお腹の子の命に関わる……。陛下はエジェ様を后に迎える未来を捨て、ギュネ族との和解が再び振り出しに戻ることも承知の上で、母子の命を優先されました」
「……じゃあ、毛玉は……皇女はエジェ殿の娘ということですか」
「はい。……今語ったことは、貴方が宮殿へ来る四年ほど前の出来事です」
エジェは正式な皇后の座に就かないまま表舞台から消えたが、秘密裏にルスランの血を引く娘を生み落とした。
それが毛玉、いや、アイシェ皇女。
つまり彼女は──帝位を継げる立場にある。
デルヴィシュが血眼になって彼女を捜している理由は、これで間違いないだろう。兄を殺してまで手に入れた玉座を奪われまいと、彼女の存在が世間に知られる前に始末するつもりなのだ。
フィルゼは主人を取り巻いていた悪意の多さを改めて痛感しつつ、切り替えるように息を吐き出した。
「エジェ殿はその後どうなったのですか?」
「残念ながら、皇女殿下を出産して間もなく、お亡くなりになりました。……刺客から受けた傷と、お産の体への負担が重なったのだと思われます」
「そう、ですか……。じゃあ皇女はずっと、セダ殿と爺さんの元で?」
「はい。幸い私どもは城を複数所有しておりますから。主にヨンジャの丘で殿下のお世話を」
ヨンジャの丘──フィルゼが狼月に帰還してすぐに訪れた、一面のクローバーと湖に囲まれた城だ。
あそこで暮らしていたのは、他でもない毛玉だったのだ。絵画の裏に不自然に隠されていた落書きも、本棚の奥に置かれた手紙も、全て皇女の存在を隠すためだったのだろうと、フィルゼは今更ながら合点がいった。
『ほら、この黒い丸が目です! この……紅葉みたいなのが手で、たくさんのトゲトゲが、髪の毛でしょうか?』
幼い頃に描いたであろう自分の絵に、彼女は少しでも既視感や懐旧を覚えたのだろうか。
フィルゼが無意識のうちに視線を落とす傍ら、セダは彼の表情をじっと見詰めて。
「フィルゼ殿。貴方に、皇女殿下のことでお願いがあるのです」
負傷した右足を控えめに摩ったセダは、一呼吸置きつつ言葉を続けた。
「殿下を連れて、レオルフ王国へ逃げてほしいのです」
「……」
「陛下の旧友でいらっしゃるレオルフ王ならば、殿下のことも悪いようにはしないはず。私からも嘆願の文を送りますから」
「セダ殿は共に行かないのか?」
その問いに、彼女は平然とかぶりを振った。
「この体たらくでは足手まといになるだけです。それに……濡れ衣を着せられたままの夫を、ここに置いては行けません」
既に意思は決まっているのか、セダの口調は揺るぎない。フィルゼは何と答えたものかと、深い溜息をついた。
「……返事をする前に、まだ聞きたいことがあります。セダ殿は、皇女のあの姿について、何かご存知なのでは?」
セダは毛玉の姿については勿論、恐らく彼女の不思議な力──あらゆる動物と言葉を交わすことが出来る能力についても、知っているのではないだろうか。
つい最近まで彼女と一緒に暮らしていたセダなら、きっと。
そんなフィルゼの推測は、果たして当たっていた。
「……皇女殿下には──獣神の力が宿っていると、我々は見ています」




