7-5
──狼月の悪霊。
それは五年前の戦が終結したのち、ギュネ族の間で広まったフィルゼの呼び名だった。
ギュネが敗れたのは獣神の化身たる〈白狼〉ではない。誇り高き戦士たちは、白き狼の毛皮をかぶったおぞましい怪物に、その心臓を食い破られた。
北の災い、カラ・ナザール。すなわち狼月からやって来た悪霊に。
屍が積み重なる戦場で、どれだけの傷を負おうと光り続けた忌まわしき碧色の双眸は、ギュネにとって最も恐ろしい記憶として刻み込まれたのである。
『後悔していないのかい』
ギュネ族の長を討ち取り、その首を持ち帰った少年に、皇帝は静かに尋ねた。
『何をですか』
『私の命令に従ったことを』
問いに被せるようにして告げられた言葉は、珍しく震えていた。
跪いたまま視線を持ち上げれば、その人は固く瞼を閉じて、少年の答えを待っていた。
『……いいえ』
否定を口にした少年は、再び視線を落とす。
出征のときに着せられた金青の衣は、ギュネ族の血で黒く汚れていた。彼の銀髪も然り。戦士たちが事切れる間際に投げかけた、「悪霊」という言葉に相応しい出で立ちだ。
きっと皇帝はこの姿を見て、悔いのようなものを覚えたのだろう。少年はそう結論付けて、静かに言葉を紡いだ。
『誰かが斬らねばならなかった。もし、陛下が決断しなかったら、俺が出撃を拒んだら……さらに多くの民が命を落としたと思います』
だから、と少年は碧色の瞳を瞬かせる。
『後悔はしません。したとしても、陛下を責めることはないでしょう。これは、俺の選択の結果です』
◇
後悔は無い。それは今も同じだ。
しかし幼い子供を抱きしめ、涙を流して叫ぶ母親の姿は、フィルゼの頭に暫し焼き付いた。
──五年前の自分は、何も分かっていなかったのかもしれない。
命を背負うということも、大切な人を突然奪われる絶望も。
フィルゼは愚かにも、ルスランを失って初めて、彼らの叫びが鮮明に聞こえた気がした。
「フィルゼさまっ」
ふ、と瞼を押し上げ、足元を見遣る。
セダがいる隠れ家の一階は、しんと静まり返っていた。床に敷き詰められた手織絨毯の隅、南方諸国からの輸入品であろう火鉢だけが、時折微かな音を立てる。
部屋の隅に設置されたソファに深く凭れ、投げ出した右足をゆっくり持ち上げてみれば、ブーツの爪先に毛玉が乗っていた。脛から膝へ、彼女がひょこひょこと足を渡ってくるのに併せて手を差し出す。
毛玉は手のひらに飛び乗ると、更に腕をよじ登ってきた。どうしたのかと思って見ていれば、肩に到達したところで毛玉が唸る。
「何やってるんだ?」
「あぅ……あの、わたくしをおでこまで持ち上げてくださいませんか?」
逡巡し、彼女の要望通りに額まで運んでやれば、案の定ふわふわとした感触が皮膚に触れた。
それが、先日フィルゼが教えた感謝のまじないであることは明白だった。
鼻梁に爪先立ちをしている小さな足を見つめ、フィルゼは静かに溜息をつく。
「……悪いな。ああいうのは、別に……初めてのことでもないんだが」
「どうして謝るのですか? わたくしは今、フィルゼさまに感謝のおまじないをしている最中ですっ」
予想外の言葉にはたと目を瞬かせたフィルゼは、毛玉ごと腕を下ろそうと──したのだが、彼女は額に貼り付いたまま、何とかまじないを続けんと足場を探している。
そうして足をもぞもぞさせながらも、彼女は普段より幾らか落ち着いた声音で語った。
「わたくし、戦争のことは分かりません。少なくとも経験した記憶は無いですから……フィルゼさまの気持ちも、先程の女性の気持ちも、全ては理解できないと思います」
でも、と彼女が飛び跳ねる。
「フィルゼさまが、わたくしのことを助けてくれたり、お喋りに付き合ってくれたり、狼月の人達を守るために戦ったり……優しい人だということは知っています! あっ、わ〜っ」
足を踏み外し、ふわふわと落下した毛玉を片手で受け止める。彼女は足をばたばたと動かし、「ほら!」と花びらのような綿を散らせた。
「いつもこうして、わたくしのこともキャッチしてくれます!」
「……川では見捨てたぞ」
「あ、あれはわたくしの不注意が原因です! とにかくっ」
毛玉はぴんと足を伸ばし、フィルゼの親指を挟む。
「フィルゼさまは決して、自分勝手な理由で人を傷付けたり、無闇に痛め付けたりしない人です。誰かが危ない目に遭ったら、例えそれがギュネ族の方だとしても必ず助けに行く人ですっ。わたくし、それだけは自信を持って言えます!」
ぽすぽす、と指の腹を弱々しく蹴られながら、フィルゼは閉口してしまった。
ギュネの乱についての話題が出るとき、彼に掛けられる言葉は大体決まっていた。
『〈白狼〉様のご活躍はお聞きしております。長年帝室を悩ませた蛮族どもを一掃されたとか! いやはや、お見事でございます』
『彼らの運命は決まっていたのですよ、〈白狼〉様。気に病む必要などございません』
『奴ら、陛下の御慈悲とトク夫人の御恩も忘れて、〈白狼〉様に不名誉な異名を流布しているようですな。全く、これだから卑しい者どもは……』
帝室こそが絶対的な正義で、ギュネ族は排除されて然るべき悪。
まだ成人前だったフィルゼに全ての責任を負わせまいとしたのか、周りの貴族たちはその前提を崩そうとしなかった。それは狼月の貴族としての体裁であり、彼らなりの気遣いでもあったのだろう。
だが、そういった言葉は形容しがたい苦しみをフィルゼの中に蓄積させた。
一方で。
(……誰も否定しないんだな)
ギュネ族の怒りも悲しみも、ルスランの決断も、フィルゼがやったことも。毛玉は何も否定することなく、その上で己が知るフィルゼの優しさを肯定した。
それは厳しくもあれど、確かな温かさを彼にもたらした。
──その中立的な姿勢は、奇妙にも亡き主人とよく似ている。
「いや……まさかな」
「?」
ルスランに子供はいない。馬鹿げた想像だと苦笑いを浮かべた直後、彼女が血縁である可能性が消えたわけでもないことを思い出し、何とも言えない顔で視線を逸らす。
暫しの沈黙を経て、フィルゼは毛玉をやんわりと両手で握ると、再び額に持ち上げた。
「……毛玉」
「はい」
「俺は、陛下の命令なら何でも従った。何度も何度も、狼月の敵を葬った。その命を」
彼は言葉を区切り、大きく息を吐く。
「俺が奪った命を。陛下は……共に背負うと仰った」
ルスランはきっと、命の重さを知っていた。だからこそ未熟な剣士にそう告げたのだろう。
これは決して、一人で背負い切れるものではない。例え皇帝の器を持つ者であっても、ふとした瞬間に重さを増して、底無しの沼に引きずり落とすのだ。
況してや、自らの意思など無いも同然だった若き剣士が、いつかその重さに真に気付いたときには──血で汚れた剣先を、自らの喉に突き立ててもおかしくはない。
「陛下を失って、以前よりもギュネ族に対する罪悪感が増したような気がするんだ。彼らは確かに狼月の子供を食らいはしたが……どんな形であれ、自分の正義と信念を持つ人達だったから」
使者を送るにしても何か別のやり方があったのではないか、言葉による和解は本当に叶わなかったのか、族長の首を刎ねる前に話し合いを求めるべきではなかったのか──そうすれば、長い歴史を持つギュネ族が「蛮族」の一言で片付けられる未来は避けられたのではないか。
あの母親に罵声を浴びせられたとき、そのような考えても仕方のないことが、一気に頭を駆け巡った。
「……俺はこれからも彼らの命を背負わなければならない。陛下がいなくなってもずっと。だから──」
「だからフィルゼさまが罵倒されるのは『当然のこと』ですか?」
フィルゼが言葉に詰まれば、ぽす、とやわらかな感触が額に訪れる。
「フィルゼさま。わたくし、もっと別の方法があると思います。フィルゼさまがギュネ族の方々の憎しみを一身に背負っても、それは……ただひたすら、皆が不幸になるだけです」
「……皆が?」
「はい。先程の女性も、フィルゼさまも、あの小さな男の子も、誰も幸せにはなれません。傷が癒えないまま、心から笑える機会をお互いに奪い続けるだけです」
毛玉はそこで考え込むように揺れると、フィルゼの頭によじ登った。
「うんと……例えば、わたくしはブルトゥルの赤い町並みがとても好きです! 狼月の青緑の景色とはまた違ってて素敵ですし、衣服も涼しげで格好良いですっ。彼らの文化が消えないように、守っていくことも一つの方法ではありませんか?」
「……。そうだな」
足元に敷かれた、狼月の伝統柄とは趣の異なる手織絨毯。ルーツは同じでも、ギュネ族が歩んできた歴史を窺わせる見慣れない模様を見詰め、フィルゼは静かに頷いた。
彼の頭の傾きによろめきながら、毛玉はカーテンの隙間から覗く外の景色を眺めて言う。
「ギュネ族の方々が、狼月の人々とこれからもずっと平和に生きていけるように、やれることは沢山あると思います。──それに、こちらの方法ならわたくしも一緒にお手伝いできます!」
頭の上で跳ねた毛玉が、勢いをつけて肩へ飛び降りる。
毛玉は辛うじてそこに着地すると、フィルゼの頬に擦り寄った。
「今度、毛玉にギュネ族の文化を詳しく教えてください! 知らないことがあったら一緒に調べましょうっ。そうやって、狼月の人々にも広く知ってもらうんです」
そしたら、と彼女はフィルゼを見上げて告げる。
「きっと、フィルゼさまのことを悪霊だなんて呼ぶ人も、減っていくはずです。わたくしはそう信じています」
肩に座った毛玉の、小さな足が交互に跳ねる。ギュネ族の過去ではなく、未来の話をする彼女の声音は、希望に満ちていた。
もしかすると、自分は何か大きな思い違いをしていたのかもしれないと、フィルゼはあれこれ喋り続ける毛玉に、そっと頬を預ける。
──彼女の言うとおりだ。自分一人がギュネ族の憎悪を棒立ちで受け止めたところで、何かが進展するわけではない。寧ろ、彼らの時間を五年前に引き戻してしまう可能性すらある。
幼い息子と共に生きのび、夫の死から立ち直ろうとしていた母親が、フィルゼを見ただけで泣き崩れてしまったように。
彼らのために、他に何か出来ることがあるはずだ。遠い未来のためにも。
まずは毛玉が提案したように、彼らのことをよく知ることから始めようと、フィルゼは少しばかり前向きになった心で息を吐き出した。
「……あんたが自信満々だったのも頷けるな」
「えっ? 何がですか?」
「悩み相談」
ぽつりと告げれば、毛玉は呆けたように固まって。
「……? ……! はい!! もっとお話してくださって構いませんよ!!」
「いや、今はこれで十分だ。ありがとう」
「えっ! あの、わたくし今、お悩み相談をやるぞっていう心づもりではなかったので、もう一度最初からお話しませんか?」
「そろそろレベントが戻ってくるだろうから、また今度頼む」
「えーん!」
毛玉が何を惜しんでいるのかはさっぱり理解できないまま、フィルゼは手のひらで彼女を撫でながら部屋の奥を見遣る。
隠れ家の二階には別の建物へ繋がる通路があるらしく、セダはその先でギュネ族の一家に匿われているとのことだった。
騒ぎの対象になりやすいフィルゼは念の為ここで待機し、レベントが戻るのを待っていたのだが──。
(遅いな。そんなに遠くはないと思うが……)
「お悩み相談……」と名残惜しそうに呟く毛玉を肩に乗せたまま、フィルゼが部屋の奥にある階段を覗き込んだときだった。
二階の扉がゆっくりと開かれる。
揺れたのは深緑のカフタン。長い裾を片手で軽く持ち上げたまま立ち止まったのは、記憶よりも些かやつれた老齢の貴婦人だった。
「──セダ殿」
〈大鷲〉のティムールが生涯の伴侶として選んだ女性、セダ・トク。
狼月に帰還して以降、ずっと探し求めていた彼女の存命をその目で確かめ、フィルゼはひとまず安堵の息をつく。
「フィルゼ、殿……」
そしてそれはセダも同様かと思われたが──彼女はフィルゼの肩、そこにちょこんと座るピンク色に目を止めては、ハッと表情を強張らせたのだった。
 




