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「白き狼が訪れた夜」は、狼月の民にとって非常に馴染み深いモチーフだ。
夜空に輝く三日月。
青い光の下、深く寝入る少年。
彼を優しく包む大きな白狼。
狼月に保存されている遺跡には、これと同じ壁画が幾つも残されており、神話の世界を後世の人々に印象深く伝えていた。
その中で、二十六夜月──三日月とは真逆の形が描かれた壁画が、特定の地域にのみ存在する。
それが帝室と同等の歴史を持ち、同じ狼信仰を掲げるギュネ族の神殿だ。
『帝室の人間が持つタネルという名は、元々は部族の名前でね。我々タネル族とギュネ族は、遥か昔から己こそが獣神の子であると主張して譲らなかったのだよ』
始まりは、たった一つの壁画。
ともすれば、それは描き手による些細な違いとして処理されそうなものだったが、狼月の民にとって「白き狼が訪れた夜」は二つも存在してはならない。
ゆえに、タネル族とギュネ族は自身の正統性を示すべく、数え切れぬほどの衝突を繰り返したという。
ただ──。
『ギュネ族には独自の文化がある。人を食らう文化がね』
『……それは、文化……ですか?』
〈白狼〉の名を持つ少年の問いに、若き皇帝はどこか疲れを宿した声で笑った。
『あれはもう、彼らにとって常識で……今さら止めろと言われたところで納得などしないよ』
『狼月の法では、食人やそれに準ずる行為は禁じられていたと思いますが』
『ギュネが忌まわしきタネルの法に従うと思うかい?』
曰く、ギュネ族に食人の風習が根付いた理由は、かつて彼らが暮らしていた土地の不安定さにある。
彼らの故郷は山々に囲まれており、度重なる豪雨や地揺れによって地盤が崩れやすかった。そこに他部族との諍いも加わり、ギュネ族は苦難に晒される機会が他と比べて多かったと言えよう。
そこで彼らは、若くて生命力に満ちた幼子、あるいは巫覡の娘を食らい、自らの長寿や生還を祈るようになったのだ。
『……二つの部族は幾度もぶつかったが、ギュネが勝利したことは一度もない。我々が帝位を得る前から、ずっと』
皇帝はゆったりと腰を上げ、少年を振り返る。
黄金の玉飾りと組紐をあしらった宝剣を掴み、ずらした鞘の隙間から青白い煌めきを見詰めると、再び刃を納めた。
『そして、今回も』
如何なる理由があろうとも、獣神は同胞への手出しを良しとしない。ましてや命を食らうなどもってのほか。
ギュネが自らの過ちを認めない限り、獣神の祝福は決して与えられないのだ。
『──小さき〈白狼〉よ。君一人に背負わせるつもりはない。君の剣は、私の決断によって振るわれるのだから』
◇
かつて狼月の戦士として名を馳せ、タネル族と共にこの地を守ると思われたギュネ族。
彼らは長い年月でその誇りを失い、ただひたすら己の受けた屈辱を晴らすために争う蛮族に堕ちた。
過去の栄華を盲目的に謳い続けた彼らは、ついに帝室によって禁じられた食人の儀を復活させると、大量の傭兵を率いて皇都へ攻め上がった。これが五年前の戦の発端だった。
進路上の集落でギュネ族が子供たちを攫っているとの報告が上がる頃には、既に四騎士の動員が決定していて──長きに渡る争いに決着をつけるべく、〈白狼〉が先頭に立つことになったのだった。
「あ……フィルゼさまが……?」
ブルトゥルで何故、フィルゼたちの名を呼んではならないのか。その理由をおぼろげながら察したであろう毛玉が、みるみる縮んでゆく。
彼女のそんな様子を見たレベントは、苦笑まじりに肩をすくめた。
「必要なことだったんだ。ギュネ族の過激派は、陛下がどれだけ言葉を重ねたところで和解の道を選んではくれなかった。……それどころか、見せしめのように狼月の子供たちを食らったからね」
ルスランが和解を諦めた最大の理由はそこだろう。
彼は、彼の民が不当に傷付けられることを決して許さない。獣神の祝福を持つ帝室の一員として、それだけは許してはならないのだ。
ゆえに、ルスランはギュネ族にとって最も意味のある敗北を与えることにした。
──それが、獣神の化身たる〈白狼〉フィルゼ・ベルカントの出撃だ。
「帝室とギュネ族は、神殿の壁画が違ったというだけで、元々は一つの部族だったと言われてるんだ。だから……〈白狼〉の称号を持つ者は、彼らにとっても獣神と近しい存在として位置付けられていた」
〈白狼〉に敗れることはすなわち、ギュネ族が獣神の祝福を得られなかったことと同義である。
だからこそ平和的解決を模索していた歴代の皇帝は、〈白狼〉を征伐に加えることはしなかった。
同じ神を崇める部族ゆえに、それが二度と立ち直れないほどの絶望を与えることになると、彼らはよく理解していたのだ。
「狼月の民全員が、『繊月の宵に現れた白き狼』と〈白狼〉を同一視する中での敗北なんて、ギュネ族は我が国の敵だと公言するようなものさ。……陛下も相当悩まれたことだろうね」
「……じゃあ、ギュネ族の生き残った方々は……フィルゼさまを、その……」
「憎んでるだろうな」
毛玉が小さく震え、静かに言い切ったフィルゼを振り返る。
「で、では、ブルトゥルには行かないほうが」
「いや。ここにセダ殿が匿われてるなら、行くしかない」
彼の端的な答えに、毛玉がそわそわと足を揺らす。その不安げな仕草に気付き、おもむろに片手を差し出してやれば、すぐさま彼女が飛び移ってきた。
「……セダ殿は、五年前の戦で親を失った孤児たちの支援を行ってた。陛下や俺の代わりに、ブルトゥルに残ったギュネ族のことも気に掛けてくれたんだ」
フィルゼと同じ四騎士、〈大鷲〉のティムールの妻という立場ゆえ、ギュネ族の警戒を解くまできっと骨が折れたことだろう。
それでもセダは、彼らに子供たちの成長を見守ってほしいと根気強く訴え続けた。子供は苦難を乗り越えるために消費される贄ではなく、未来そのものなのだと。
「その結果、ギュネ族の生き残りはセダ殿を受け入れて、食人の儀も忌避するようになった。彼らはようやく狼月の法の下に生きることを、選んでくれた」
だが、とフィルゼは唇の端を歪める。
「四騎士が……特に俺が、ギュネ族の憎悪の対象であることに変わりはない。ここで何か見聞きしても、気にしないでくれ」
──それは当然のことだから。
彼の言葉に、毛玉はとうとう何も言わなかった。頷くことはなく、ただ彼の親指に擦り寄るだけ。
フィルゼは気付けば随分と小さくなってしまった毛玉を内ポケットに入れようとして、ふと思い留まる。
「レベント、毛玉を預かってくれるか」
「お嬢さんを? 構わないけど」
「頼む」
「フィルゼさま……」
きゅ、と親指を小さな足で挟まれたフィルゼは、彼女をやんわりと引き剥がしたのだった。
「……レベントの近くにいた方が安全だ。ブルトゥルに関してはな」




