7-1
──よろしいですか。
固く握られた両手。
伝わるのは緊張と恐怖、そして隠し切れぬ諦念。
押さえ付け、握り返すことを良しとしない一方的な繋がりは、胸の内から滲む不安を膨らませるばかりだった。
──今、お伝えした通りに走ってください。
動かせない手の代わりに首を横へ振れば、咎めるように力が増す。
──決して振り返ってはなりません。立ち止まってもいけません。
拒絶は許されなかった。
そこに残されていた選択肢は、最初から一つだけだったのだ。
──貴女には、何もできません。
「毛玉?」
視界が開けた。
ひんやりとした空気が吹き抜け、傾いた体を大きな手に掬われる。
草原の色を帯びた、鮮やかな碧色の瞳が瞬く。こちらを見詰める眼差しが怪訝なものへと移り変わり、やがてそこに明確な焦りが加わった。
「毛玉、聞こえるか?」
何度か呼びかけられ、おぼろげだった意識が徐々に覚醒する。
不意に後ろから呼気を感じて見てみれば、彼と同様に心配そうな目をした黒馬が擦り寄っていた。
再び視線を前へ戻す頃には、つい先程まで見ていたはずの記憶が強風に浚われる。
「……わ……フィルゼさま、メティ。おはようございます……もう出発ですか……?」
寝ぼけた挨拶に、彼は少しの間を置いて頷いたのだった。
◇
「わあ~っ! おっきい~!」
霧隠る山間部を貫く巨大な石橋。それを見た毛玉が間延びした声を上げた。
まばらに打ち込まれた杭のみで仕切られた、細い細い一本道。少しでも足を踏み外せば崖下へ落ちてしまいそうな悪路だが、縦に並んだ二頭の馬は怯むことなく歩を進めていく。
後ろの黒馬に跨ったフィルゼは、手綱を握ったまま右側に見える石橋を一瞥した。
「フィルゼさまっ、あの大きくて綺麗な橋は何ですか? 山の中を突っ切っていますね……!」
「ヤムル城塞都市に水を届ける水道橋だ」
「すいどうきょう! 水道橋……」
初めて聞いた単語をふすふす繰り返していた毛玉は、はたと何かに気付いた様子でフィルゼの頬に寄る。
「ど、どうやってお水を届けるのですか……? 水甕を背負った方がヤムルまで橋を歩くのですか? とても過酷なのでは……毛玉は心配です……」
「それは俺も心配になる」
そんな非効率かつ危険なことを誰かにさせるとしたら、それは労働ではなく刑罰と言った方が相応しいだろう。かなり重いほうの。
水甕を背負い、死にそうになりながら長い橋を歩く人間を思い浮かべていると、先導する白馬からクスクスと笑い声が聞こえてきた。
吟遊詩人のような軽装はそのままに、背中に一本の騎槍を携えたレベントは、ゆるりとフィルゼたちを振り返る。
「毛玉のお嬢さんは想像力豊かだね。心配せずとも、あの橋の上部に水を流しているだけだよ」
「まあ! そうなのですね!」
「水源から引いた水が絶え間なく流れるように、橋全体に微かな傾斜をつけているらしい。土台のアーチ技術も然ることながら、大昔の人間が造った遺物には驚かされるよ」
「へえ~っ! とても古い建物なのですね……! 凄いですねフィルゼさまっ」
「そうだな」
水の運び人がいないと知って安堵する毛玉を、フィルゼはおもむろにフードの奥に押し込んだ。
直後、橋に差し掛かると同時に吹き込んだ強風が、彼の外套をはためかせる。ぎしりと音を立てた足場を一瞥し、フィルゼはもぞもぞと這い出てきた毛玉をやんわりと押し留めた。
「毛玉、下は見ない方がいいぞ」
「下ですか? ──ぴゃあっ、高い! えーん!」
見るなと言ったら見たくなるのは仕方のないことだったのかもしれない。
フィルゼはまたもや首筋を擽ったさに襲われながら、老朽化が目立つ橋をゆっくりと進む。その最中、欄干に数羽の鳥が降り立つ光景を見て、ふと口を開いた。
「……毛玉」
「はぃ」
「今朝、あんたの周りに大量の鳥が集まってたんだが、覚えてるか」
「えっ? 鳥さん?」
縮こまっていた毛玉が不思議そうに橋の欄干を見遣り、そこに並ぶ鳥たちを見つけては体を傾ける。
「そういえばさっきから、鳥さんたちが付いて来てますね。わたくし、寝ぼけて皆さんを呼んでしまったのでしょうか……。もう大丈夫ですよっ、自由にしてください!」
彼女が小さな片足を振れば、一斉に鳥が飛び立つ。
彼らが切り立った崖の隙間をゆるやかに滑空する様子を見届け、フィルゼは密かに溜息をついた。
(……やっぱり何も覚えてないのか)
今はこうしていつも通り元気に喋っているが、今朝の毛玉は少し妙だった。
毎日行動を共にしていることもあり、彼女が目覚める頃合はフィルゼも何となく把握している。唐突に起床するや否や「えい!」と上着を蹴り、自力で外に這い出てくる毎朝のルーティンも然り。
ゆえに、そのどちらもが崩れた朝に、焦りを感じるのはやむを得ないことだろう。
『うぅ……』
上着の下から聞こえてきた呻き声は、すすり泣きのようにも聞こえたから。
「……」
フィルゼが瞑目する傍ら、彼の心配など知る由もない毛玉はのんびりと鳥たちの行く先を眺め、おもむろに小さく跳ねた。
「フィルゼさま、これからどちらへ向かうのですかっ? 昨日、セダさまをお迎えしに行くという話は聞いていたのですが……えっと、途中で寝てしまって……」
「ああ、まだ毛玉のお嬢さんには話していなかったね」
フィルゼに向けられた質問を、レベントがやんわりと手繰り寄せる。彼は白馬に跨ったまま毛玉を振り返ると、小さく手招きをしたのだった。
「どうかな、お嬢さん。たまには僕に狼月の案内をさせてくれないかい?」
◇
──多様な部族民が集い、それぞれの文化が入り乱れる辺境の町、ブルトゥル。
狼月の主要都市が鮮やかな碧色や黄金を基調とした壁画で彩られるのに対し、ブルトゥルの町並みには赤や緑の色ガラスが用いられ、非常に色彩豊かな景色がそこに広がる。
町で暮らす人々も、どことなく服装や装飾品にバラつきが見られ──とりわけ、ある部族民に関しては分かりやすい特徴があった。
逞しい体躯を持つ男は、右腕に狼を象った赤い刺青を。
多くの子供を産んだ女は、その神聖な腹に二十六夜月の刺青を。
それがギュネ族。
誇り高き狼の民、あるいは──獣神に見放された蛮族と呼ばれる者たちだった。
「……そのギュネ族さんが暮らしているブルトゥルという町に、セダさまがいらっしゃるのですね!」
メティの頭に移動した毛玉が、ふかふかのたてがみに埋まりながら足をバタつかせる。
水道橋沿いの進路を西に逸れ、入り組んだ渓谷の道を抜けた一行の眼下には、既にブルトゥルを囲う古びた城壁の一部が見えていた。
赤い町を見詰め、フィルゼが静かにフードを被り直す傍ら、レベントも同じようにスカーフで顔を隠して言う。
「毛玉のお嬢さん、ブルトゥルに入るにあたってお願いがあるんだ」
「はい! 何でしょうっ?」
「町では、僕らの名前を呼ばないでくれるかい?」
毛玉のバタ足が止まり、不思議そうに体が傾く。
「お名前ですか……? うーん、じゃあ、剣士さまと吟遊詩人さまでも良いですか?」
「ありがとう、それで構わないよ」
「……あのぅ、何か事情が?」
ブルトゥルに近づくにつれ、ただでさえ控えめなフィルゼの口数が皆無に等しくなったことは、毛玉も薄々と感じているのだろう。
だが彼女のそわそわとした視線を浴びてもなお、フィルゼは決して口を開かなかった。
そして、彼のそんな態度の理由をよく知るからこそ、レベントはブルトゥルの──否、ギュネ族に関する話題をそれとなく引き受けてくれたに違いない。
「……ギュネ族はとても歴史の長い部族でね。それこそ帝室と一、二を争ったこともあるぐらいで、かつては狼月の南半分の地域を支配していたそうだよ」
「まあ……すごい規模なのでは……!」
「でも、それももう昔の話だ。ギュネ族は今や、ブルトゥルに暮らす者たち以外は存在しない」
レベントはそこで言葉を区切ると、眼下に広がる赤色の町並みを見遣った。
「五年前に起きたギュネの乱……彼らはこのブルトゥルで、狼月軍に敗れたんだ」




