扉越しのシスター
マーヴィ城へ向かう道中のこと。
その日は雲ひとつ見当たらない、ぽかぽか陽気の晴天であった。
いつものごとくたっぷりと熟睡した毛玉は唐突に目を覚まし、「ふんん」と足を生やしては、視界を覆う黒い壁をぽすぽすと蹴り上げる。
「えいっ、ほっ」
リーチが致命的に足りていない足を伸ばしたところで道が開けるわけではないのだが、そこは気持ちの問題である。何となく自分の周りに空間が確保できたような気がした毛玉は、腹ばいになって出口を探した。
眩しい隙間に頭を突っ込み、外のひんやりとした空気を吸って、また少し後ろへ戻る。彼が残してくれた温もりにほっこりしたところで、よいしょと立ち上がった。
「フィルゼさま、いらっしゃいませんね……」
大きな上着と毛布の下に埋もれていた毛玉は、周りをきょろきょろと見渡しながら簡素なベッドの上を歩く。そのままポロッと床に落ちては絨毯に不時着。と同時に、開け放たれた窓から爽やかな朝日が射し込み、毛玉のふわふわとした表面を明るく照らした。
そこでしばらく日向ぼっこをしながら部屋を眺めていた毛玉は、フィルゼが早朝の鍛錬に向かったことを悟った。
日が完全に昇ってから目を覚ます寝坊常習犯の毛玉がそれを知ったのは、ごく最近のこと。彼は朝まだきの時分に起床することが珍しくなく、そういうときは決まって一人で剣の素振りをしているのだ。彼が右腕だけで腕立て伏せをしている現場を目撃したときは目を疑ったものである。毛玉に目は無いが。
今日は宿場町で夜を明かしたので、きっと外にいるのだろう。毛玉は「うーん」と悩んでから、飛び跳ねるようにして立ち上がった。
「小鳥さーん! どなたかいらっしゃいませんか~?」
窓に向かって呼びかければ、少ししてヒッヒッと可愛らしい声が降ってくる。窓辺からちょこんと顔を覗かせたのは、真っ黒な頭にお腹のオレンジ色が鮮やかな小鳥だった。
「わあ綺麗な小鳥さん……! おはようございます! あのぅ、聞きたいことがあるのですが、銀髪の剣士様を見かけませんでしたか?」
小鳥は毛玉の傍までやって来ると、フィルゼらしき人物が宿屋の裏手にいることを教えてくれた。
「ありがとうございますっ。じゃあわたくしはフィルゼさまが戻るまで、荷物の番をしなくては!」
ふんすと気合いを入れた毛玉が、小鳥と一緒にフィルゼの荷物が置いてある場所まで移動したときだった。
「──うっ、ぷ……その声はシスター、シスターじゃあないか?」
フィルゼ、ではない。
ぬか喜びをしてしまった毛玉はしゅんと落ち込みながら、されど突然の訪問者に興味を惹かれて扉に歩み寄る。大きな木製の扉を見上げ、そのまま後ろに転がってしまったところで、再び廊下から声が掛けられた。
「おい、何とか言ってくれ。昨晩は相談の途中だったじゃないか……俺を泥酔させて酒場に置いて行くなんて、酷い女だ」
「……? 相談?」
「忘れたのかァ!? くっ、いや、良いさ……俺の悩みなんざ、高潔なシスターにゃ取るに足らないんだろう」
「いいえ! 誰しも悩みはあるものです! わたくしで良ければお話を聞きますよ!」
「な、何だよ……昨日と違ってやけに優しいじゃねぇか……」
そのシスターとやらには冷たくあしらわれてしまったのか、訪問者はどこか感動した様子で「うっ」と嗚咽を抑える。
彼が人違いをしていることは明白だったが、こんなにも苦しそうな声で懇願するのだから、話だけでも聞いてあげなくては──毛玉は使命感に燃え、オレンジの小鳥と一緒に扉の前に座り込む。
「さあ、話してみてください!」
「え……ここで?」
「はい! わたくし、一人でお外に出られないのです!」
「昨日は一人だったじゃないか……あ、いや、何でもない。き、聞いてくれるなら、頼む」
衣擦れの音が聞こえたかと思えば、男が悩ましげな溜め息をついた。
「俺はガキん頃に親を亡くしてよぉ、それからずっと長い間、盗みで食い繋いできたんだ。そのことを恥ずかしく思うことはなかったんだけどよ……今は、心底後悔してる」
「うんうん」
「少し前に、街の孤児院で貴族の女を見掛けたんだ。黒いカフタンに身を包んだ、どこか影のある美人でよぉ……俺は、彼女を一目見て恋に落ちちまったんだ……」
「まあ……!」
もしや恋のお悩み相談だったのかと、興奮した毛玉は小さな足をひょこひょことバタつかせる。
「でもよ、相手は確実に高貴な身分の女で、かたや俺は他人のモンを盗んで生きてきた卑しい野盗だ。こんな恋、叶うわけねぇだろう?」
「そうとは限りません……! あなたは今、ご自分の行いをとっても後悔しているではありませんか! これからは盗みを止めて、その御方と見合うような努力を重ねれば可能性はありますよっ」
「それは、分かってるんだ。だから狼月軍にでも志願しようかと思ったんだが……何か、あいつら俺とそう変わらねぇことしてるしよ。彼女に胸張れるかって言うと微妙なんだ。……はぁ、どっかの職人に弟子入りするにしても、年齢的に遅すぎるかもしれねぇし……」
なるほど。彼は盗みをしていた負い目から、自分に出来る仕事があるのか分からないのだ。手っ取り早く国に貢献できるはずの狼月軍も悪い噂が蔓延していて、なかなか踏み切れないと言ったところか。
毛玉は悩んだ。彼女自身、恋愛のいろはも狼月にどんな仕事があるのかもさっぱり知らないので、どう答えたものかと。
そこで不意に隣の小鳥と目が合い、毛玉はパッと足を持ち上げる。
「小鳥さん、何か良い案はありますか?」
男の相談内容をざっくり要約して伝えると、小鳥は首を傾げて「カカカ」と喉を小さく鳴らした。
「ふむふむ……なるほど! 野盗さん! まずは木の実を集めてそのメスに毎日運びましょう!」
「え、木の実…………待て今、彼女のことメスって言ったか?」
鳥の話をそのまま伝えたことでとんでもなく乱暴な物言いになってしまっていることには気が付かず、毛玉は上機嫌に揺れて助言を続ける。
「えっと、求婚時には色鮮やかな体毛を見せつけながらお歌を披露するのがよいので、芸術方面のお仕事を探すのはどうでしょうっ!」
「色鮮やかな体毛を見せつけて、歌を……?? それ捕まらないか? さすがの狼月軍も普通に捕まえに来るんじゃないか?」
「頑張ってください野盗さん! 恋は一日にして成らず、とにかく毎日お顔を見せて覚えてもらうことが肝要とのことです!」
「あ、そ、それは……確かに……」
めちゃくちゃな助言内容をゴリ押しで納得させられた訪問者は、暫しの沈黙を経て「分かった」と返事をしてしまう。
「西部に暮らしてる劇作家の元へ行って、弟子入りさせてもらえないか聞いてみる! 確かレオルフから来た新進気鋭の作家だと聞いた! きっと素晴らしい歌を知ってるはずだ!」
「まあ! それは良いですね!」
「そして芸術とは何たるかを肌で学び、シスターの言った求婚方法を試してみるぜ! ありがとうよ優しいシスター! 俺なんかの相談に乗ってくれてッ……」
「ああっ、泣かないでください野盗さん……! わたくし、野盗さんが素敵な体毛を見せて軽やかな歌声を披露できるよう、応援してますからね……!」
一人の迷える男を逮捕待ったなしの変質者の道へ導いている自覚などあるわけもなく、毛玉はおいおいと泣き咽ぶ男に釣られてえんえん泣き始めた。
そしてオスの心得を若造に伝授した小鳥は、役目を終えたとばかりに窓から飛び立ち。
二人の泣き声は、鍛錬を終えたフィルゼが男を宿屋の外につまみ出すまで続いたのだった。




