6-11
「遡ること三年前……四騎士を辞した僕は、これからどうすべきか悩んでいた」
輝く満月の下、小高い丘に腰を下ろす。
たおやかな金髪をゆるく束ねた青年は、眼下に見える賑やかな村に視線を留めたまま、横に寝かせたラバーブの弦に爪を当て、語りと共に下へ滑らせた。
「志半ばに倒れた主のため、戦い続けるべきだと思いはしたが……覚えているだろう? 賢帝を引きずり下ろし、獣神の愛した大地を貪らんとする者たちの、あのおぞましい目付きを」
爪弾く音色が微かに震え、併せて彼の瞼も重たく閉ざされる。
「敵はあまりに多かった。僕らは忘れていたのさ。素晴らしい主君がいたとて、そこに集う者までもが気高き志を持つわけではない。皆が僕らと同じように、賢帝の治世を支持していたわけではないということを……」
彼が片手で顔を覆うと、それを見た毛玉も「ああ……」と悲しそうな声を漏らす。
「繊月を覆う分厚い雲を払うには、まずは雨が止むのを待つしかない。僕は血を吐く思いで宮殿を離れ、不甲斐ない己を鍛え直す旅へと出たんだ」
「それから?」
「そう、それから僕は母の故郷であるレオルフ王国へと流れ着いた。旅の吟遊詩人と意気投合して各地を歌い歩いては、世界中の音楽家が集う祝祭で演奏して拍手喝采を浴び、二年にわたる旅路を共にした師匠からこのラバーブを受け継ぐに至った!」
「きゃあ! すごい!」
「おい待て」
静かな弾き語りから一転、背を反らしてジャンジャカジャンジャカと騒がしくラバーブを掻き鳴らすレベントと、その手前できゃっきゃと大興奮で飛び跳ねる毛玉。フィルゼはそれぞれの頭を掴み、雲行きが怪しくなってきた演奏会を強制終了させた。
「何だいフィルゼ! これからが良いところだというのに!」
「ラバーブを貰って元気が出たから狼月に帰って来たんだろ」
「三年前と変わらず実に味気ない物言いだね……」
しかしフィルゼが言った通りの流れだったのか、特に反論はせず。青年は頭を掴まれたまま、憂いを帯びた眼差しでポロンとラバーブの弦を弾いて。
「ところで、僕の拙い歌を熱心に聞いてくれた小さなレディ、貴女のお名前を伺っても?」
にこやかに彼が見やった先、毛玉がきょとんと辺りを見回す。
「……? あっ。わたくしですかっ? 初めまして、毛玉と申します!」
「初めまして、僕はレベント・コライだ。しかし、んー……毛玉? 小さな妖精姫ではなく?」
「り、リトルフェアリープリンセス!?」
小っ恥ずかしい呼び名に毛玉は大層驚き、のちに照れ照れと足を動かして、フィルゼの袖口に隠れてしまった。意外と嬉しかったらしい。
レベントはそんな彼女の仕草にくすりと笑い、ようやくラバーブを膝から下ろした。
「ふふ、隅に置けないじゃないか。君がこんなに可愛らしいお嬢さんと旅をしているなんて驚いたよ」
「毛玉を見て一つも動じてないあんたの方が驚きだけどな……それより、そろそろ本題に入ってくれないか。〈鷺鷥〉殿?」
フィルゼは袖口に嵌まった毛玉を内ポケットに移動させつつ、懐から例のふざけた暗号文を抜き取る。
それを見たレベントは、どこか安心したように口角を上げたのだった。
先帝の〈白狼〉がヤムル城塞都市に現れ、反乱軍討伐に赴いた狼月軍を殲滅した──その報は、フィルゼが予想した以上の早さで各地に広まっていた。
フィルゼの帰還に驚きと歓喜の声が上がったほか、彼が「反乱軍」と呼称されていたはずの人々を救ったことで、民衆の間ではデルヴィシュ帝に対する疑問の声も大きく上がるようになったという。
──デルヴィシュ帝は我々を欺き、罪の無い者たちを虐殺しているのではないか、と。
「僕の元にも、君の噂はすぐに届いたよ。一振の剣と弓を操る、獣のごとき眼光を持つ銀髪の若者……これはフィルゼに違いないと思った」
けど、とレベントは困ったような笑みで頬を掻いた。
「実はこの三年間、狼月で君の名を騙る男が何人も出てね」
「……何のために?」
「民を元気づけるためか、はたまた金儲けか……目的は人それぞれだよ。ともかく、実際に会ってみたら全くの別人だったということが続いたんだ」
知らぬ間に自分の偽物が出没していたとは露にも思わず、フィルゼは目を瞬かせてしまった。
しかし同時に、何故レベントが暗号文を送り、少々回りくどい方法でフィルゼとの接触を試みたのか、その理由をおぼろげに察する。
「俺が本物かどうか見分けるために、マーヴィ城の狼月軍とぶつけたのか?」
彼の推測は当たっていたのか、レベントはその微笑に苦々しいものを滲ませて頷いた。
「そういうことだね。君ならクルトの密猟を黙って見過ごすはずはないだろうと思って。……試すような真似をして悪かったよ」
「いや……偽物かもしれない奴の元に、いちいち出向くのも面倒だしな。それに……」
フィルゼはそこで言葉を一旦区切ると、こちらを柔和に見詰める琥珀色の瞳を静かに見返した。
「──俺が三年前と変わらず、陛下側の人間なのか確かめる必要があったんじゃないのか?」
それまで一定の温度を保っていた眼差しが、意外そうに見開かれる。そして次の瞬間には、レベントの爽やかな哄笑が夜の森に響いた。
「はっはっは! いやいや、それはない! 陛下の件で目も当てられないほど落ち込んで食事も睡眠も忘れて鍛錬に耽って気絶して、同じく寝不足のティムールからパンを口に突っ込まれる有様だった君が、よもやデルヴィシュ側に就くわけないじゃないか」
「うるさいな。違うのか」
当時の醜態をまざまざと思い出すことになったフィルゼが決まり悪く尋ねる傍ら、レベントは面白い冗談を聞いたとばかりに目尻を拭って言う。
「ああ、君の〈白狼〉としての忠誠や矜持を疑ったことはないよ。僕は勿論、セダ夫人もね」
「! レベント、あんたまさか……」
フィルゼの言わんとしていることはもう分かっているのか、レベントはその薄い唇に人差し指を立てて微笑んだのだった。
「──夫人は生きていらっしゃる。そして……君の力を借りたいとも仰っていた。共に来てくれるね、フィルゼ」




