6-8
──どこからか獣の唸り声が聞こえ、全身がざわりと粟立つ。
生じた震えは足裏から背中を伝い、つむじまで駆け上がる。短剣を握る手に余計な力が入り、加減なく振り抜いた刃が敵の肩を想定以上に深く抉った。
密猟者に扮した狼月兵が倒れ込む傍ら、素早く後ろへ退きながらフィルゼは耳を押さえる。
(何だ? さっきの)
堅く保たれていた意識が、根元から強く揺さぶられるような感覚だった。
相手は不本意にもクルト狩りを命じられた新兵ゆえ、端から命を奪う気などなかったというのに──あの微かな唸り声を聞いた瞬間、目の前の敵を速やかに葬らねばならないような気がして。
刃を振った直後、あらぬ方向へ走り出そうとした自身の爪先をちらりと見やり、フィルゼは不可解な面持ちで残る敵を斬り伏せた。
と、そのとき。
「!」
再び、遠吠えが上がる。
応じる声は一つ二つと増え、やがて数え切れぬほどの声が、強風と共に勢いよく眼前を通過した。
それは、狼の群れが嵐となって山々を飛び越えるかのようだった。
はらり、はらりと落ち葉が舞う中、フィルゼは目に見えぬ狼たちが向かう先を呆然と見詰め。
「……毛玉」
獰猛な声とは程遠い、ピンク色のふわふわを思い浮かべたなら。
「──い、今だ、やれっ」
死角から飛んできた矢を振り向きざまに叩き落とし、茂みの奥を鋭く睨む。そこに隠れていた二人の兵士は、己の死期を悟ったかのような顔で踵を返した。
フィルゼはそのうちの一人、何か小さな箱を抱えている方にナイフを投擲し、肩へと命中させる。
「ううっ」
もう一人は倒れた仲間を振り返ることなく、なりふり構わず逃げ出した。その無慈悲な背中を絶望的な面持ちで見詰めた兵士は、フィルゼが何かを言うよりも先に、箱を──子狼が入った簡素な檻を差し出したのだった。
「か、返します!! 返すから命だけは!」
「分かったからさっさと行け」
ひらひらと片手を振れば、付近で倒れ込んでいた兵士たちも一斉に起き上がり、悲鳴混じりに撤退を始める。
落ちたナイフを拾いに行く頃には静寂が戻り、檻に入れられた子狼だけが怯えた様子でフィルゼを見上げていた。
「くぅん」と憐れみを誘う声で鳴いた子狼を見返し、彼は肩を竦める。
「……確かに子犬と変わらないな」
ぼそりと呟き、ひとまず彼は子狼を解放することにした。
天板に取り付けられた閂を外し、外に出られるよう檻を横倒しにして放置してみたものの、子狼は縮こまって動かない。
毛玉とそっくりな丸くてふわふわとした物体を観察すること暫し、フィルゼは仕方なしに子狼をそうっと掴んで外に出した。
「ほら、この辺に仲間がいるはずだ。親か兄弟か分からんが……」
「わふっ」
「いた、あいつだ」
バサッと茂みを突っ切って現れたのは、フィルゼをこの近辺まで強引に連れて来た薄茶色の狼だった。
全身葉っぱまみれで駆け寄ってきた彼は、子狼を見付けるや否や再びフィルゼの周囲をうろつき始める。
無言の圧力を感じたフィルゼは、抱えていた子狼を目の前に置いてやった。すると薄茶の狼は瞬時に子狼を抱き込み、一心不乱に毛繕いを開始する。
もはやフィルゼの存在は一瞬で忘れたようだった。
「……おい、毛玉は……いや良い。自分で捜す」
そもそも自分は毛玉のように動物と細やかな意思疎通が出来るわけでもなし、最初からあまり期待していなかったとは言えども。
二匹の狼を森の奥へ逃がし、フィルゼが小さく溜め息をついたときだった。
「フィルゼさま~っ」
「!」
「フィルゼさま~! どこですか~っ! わたくしの声が聞こえてたら『はーい』ってお返事してくださ~い!」
毛玉だ。とりあえず元気ということが分かって安心したが──ちょっと声がデカすぎる。
まだ狼月兵がどこかに潜んでいるかもしれないのにと、フィルゼは今も一人でぺちゃくちゃと喋り続けている声の方へ走った。
「はぅ、フィルゼさまともうお会いできなかったらどうしましょう……! え? そしたら狼さんの群れに混ぜてもらえるのですか? わあっ、それは魅力的なお誘いですね! わたくし、知り合う方が皆ふわふわじゃなくて少し疎外感を覚えていたところなのです……その点、狼さんたちは何だか人間よりも同族っぽくて親近感がわきゃあ~……!」
毛玉が未だに自分と同じピンクのふわふわと出会えることを期待していたとは知らなかった。いやそんなことより最後の悲鳴は何だと、フィルゼは崖の手前ギリギリで止まっては下を覗き込む。
するとちょうど木々の隙間から、うろうろと困ったように立ち往生する黒灰の狼が見えた。その視線の先には案の定、風に飛ばされて木の枝に引っ掛かったであろう毛玉の姿がある。
「えーん……いえ、大丈夫です狼さん。毛玉はこういう状況に慣れています! えっと、まずは体を元に戻して…………あれ? 降りれない……あ!? わ、わたくし、もしや背中に枝が刺さって……!? えーん!」
わぁわぁとパニックに陥る毛玉と狼。仲良くなったようで何よりだが、早く助けてやらないと今よりもっと騒がしくなりそうだった。
この崖から毛玉のいる場所まで下りられないだろうかと、フィルゼが視線を巡らせていると。
「えーん、助けてフィルゼさま……あっ! 狼さん隠れてください!」
突然、毛玉が慌てたように言った。
黒灰の狼が素早く茂みの中へ転がり込む一方、枝先にぶら下がっていた毛玉は「ふんん」と小さな足を消しては頭の方から生やし直すと、よじよじと枝の上に登ったではないか。
あんな謎の芸当が出来るようになっていたのかとフィルゼが目を丸くしたのも束の間、狼月兵とおぼしき男二人が毛玉の近くを通りがかった。
「隊長はどこに行ったんだ!?」
「知らねぇよ、もう俺は軍なんて抜けてやるからな……!」
「ああクソッ、あのガキが来るなんて聞いてねぇぞ!」
そのまま通過すると思いきや、何やら苛立っている様子の男が傍らの木を蹴り付ける。
運の悪いことに、毛玉が隠れている場所ドンピシャであった。
「きゃあ!」
「え?」
枝の上からふわふわと落下する毛玉を、男二人が見上げようとした瞬間、フィルゼは迷うことなく崖から飛び降りた。
壁面の僅かに突き出た部分を足場にしながら、思い切って樹冠の中へと突っ込む。枝葉に紛れて落下する最中、彼は狼月兵に狙いを定めたまま短剣を抜き放った。
その研ぎ澄まされた殺気を肌で感じ取り、兵士たちがハッとこちらを振り返ったが──。
「あ! フィルゼさまだ! お会いしたかったです~! えいっ」
「ちょっ……」
再会の喜びで今の状況を全て忘れ去ってしまった毛玉が、落下の途中でとっても嬉しそうにフィルゼの顔面に貼り付く。視界の半分がピンク色に占領された彼は、すぐさま短剣の構えを解き、辛うじて捉えた狼月兵の顔面に着地した。
撃沈した男を脇に押し退け、毛玉を顔から剥がし、残るもう一人の側頭部に鋭い蹴りを入れる。不安定な体勢ながらも急所は捉えることが出来たようで、男は白目を剥いて昏倒した。
フィルゼは短く息を吐くと、鷲掴んでいた毛玉を持ち上げてみる。彼女はいつぞやと同じく、そこでぷるぷる震えていた。
「大丈夫か?」
「は、はい! あの、ごめんなさい、フィルゼさまを見付けたら嬉しくてつい……えーん……」
「……まぁ、次から気を付けてくれれば良い。それより怪我は?」
しおしおと反省中の毛玉を軽く撫でてやると、彼女は徐々に元の大きさに戻りながら体を傾ける。
「わたくしは何も……枝が刺さったぐらいです。確かこの辺に」
にゅ、と先程と同じように足が別方向に生え変わり、ころりと半回転した毛玉が頭の方を見せ付けてきた。
彼女の平衡感覚やら視界の上下やらが全て足を基準にしていることが判明したところで、フィルゼは滑らかな表面を指先で探る。
「傷跡は無いな。痛みは」
「ありません! うふふ、あっ、狼さん! もう出てきて大丈夫ですよ!」
すると彼女の声に応じて、黒灰色の狼がのそりと茂みから現れた。その後ろ脚に包帯が巻かれていることに気付いたフィルゼは、きゃっきゃと喜ぶ毛玉でそれとなく狼の意識を釣りながら患部を覗き込む。
「……毛玉、この包帯は? あんたじゃ巻けないよな」
「あっ、それはシューニヤさまが巻いてくださいました! 先程、わたくしのせいで狼月兵の人たちに見つかってしまって、狼さんにお怪我を……そしたら、偶然お散歩中だったシューニヤさまが代わりに手当てをしてくださったのです!」
「散歩」
毛玉がシューニヤに対する感謝をふわふわと述べる傍ら、何とも不可解な話にフィルゼは眉を顰めた。
山中に密猟者がいるという話を既にルマから聞き及んでいたはずのシューニヤが、何も考えずに登山道に足を踏み入れるとは考えづらい。ただでさえ彼は目が不自由で、それによる不便を想定できないほど愚かにも見えなかった。
──毛玉と狼の手助けをしたとは言え、果たして「偶然」で済ませてよいものかと。
「……。で、狼月兵に見つかった後はどうしたんだ」
「え? ……あっ。そうですフィルゼさま! よく分からなかったのですが、たくさんの狼さんが狼月兵の人たちを追い払ってくれて……! うふふ、もしかするとこちらの狼さんのご家族だったのかもしれませんね」
「いや、あれは」
「?」
被せるようにして否定の言葉を口にしたフィルゼだったが、不思議そうにこちらを見上げる毛玉に気付き、かぶりを振る。
「……何でもない。クルトの幼獣は取り返したから、俺たちも一旦村に戻ろう」
「わあ! さすがフィルゼさまです! 狼さん、弟さんはご無事だそうですよ! 良かったですね、早く迎えに行ってあげてください……!」
毛玉を通じて幼獣の居場所を伝えてやると、黒灰の狼はフィルゼの足に額をすり寄せ、山林の奥へと消えた。
これで一段落、と言いたいところだが、マーヴィ城近辺に居座る狼月軍がいなくなったわけではない。クルトの群れを守るには彼らの密猟を止めさせなければ──さてどうしたものかと悩みつつ、フィルゼは登山道を下りたのだった。




