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「え?」
威嚇と呼ぶには弱弱しい唸り声。されど耳を突き刺し、本能を直接揺さぶるような獰猛な音に、兵士たちがピタリと動きを止める。
彼らの顔色がみるみる青褪めたかと思えば、一人、また一人と腰を抜かし、尻餅をついたまま後ずさった。
「おい! どうし」
「け、獣の声がします! 近くに!」
隊長の不機嫌な問いかけを遮り、彼らが裏返った声で答えれば、どこからか上がった遠吠えがそれすらも掻き消す。共鳴するかのように幾つもの遠吠えが応じ、彼らは段々とこの場に近付いているようだった。
鳥の声も、風の音も聞こえない、刺すような冷たさを纏った静寂の中、重なり木霊する遠吠え。それがただの狼ではないと兵士たちが気付いたなら、一際大きな遠吠えが響き渡った。
「て……撤収、撤収! 今すぐ山を下りろ!!」
遠吠えが止むや否や、隊長の男が引き攣った声で命じる。しかし彼の命令を待たずに、既に兵士たちは我先にと走り出していた。
彼らが武器さえも放棄して登山道へ駆ければ、その後を追うように山林の影がうごめく。茂みを駆ける無数の追跡者に悲鳴を上げ、兵士たちはあっという間に逃げてしまった。
取り残されたのは、未だ地面に横たわる一匹の狼と、球体に戻ったピンク色の毛玉だけ。
「……? えーん……今の、狼さんの群れ……? 助けてくれたのかな……」
きょろきょろと辺りを見渡した毛玉は、登山道に人影がないことを確かめて恐る恐る立ち上がった。そして急いで狼の正面に回る。
「狼さん、後ろ脚っ……あぁごめんなさい、わたくしが軽率に飛び出したから……! どなたかに手当てをしていただかなくちゃ、ちょっと待っててくださいね」
狼の頭と後ろ脚を行ったり来たりしながら、毛玉は再び「ふんん」と体を揺らして鳥もどきに変身しようと試みる。途中で墜落する可能性が非常に高いが、何とかしてフィルゼの元へ飛ばなくてはと、彼女が短い足を浮かせたときだった。
「──……お困りかな。お嬢さん」
トントン、と地面を突く音。
変身の途中で動きを止めた毛玉が後ろを見上げれば、そこには目元を包帯で覆い隠した巡礼僧、シューニヤが立っていた。
「へ……?」
意外な人物に毛玉がポカンとしてしまえば、彼はやはり柔和な笑みを浮かべて見せた。
「その声、フィルゼ殿と一緒にいたお嬢さんだろう? 村までの道中は、随分と小声で話していたが」
「は……はい……」
聞こえていないと思ったのに──目が見えない分、聴力が優れているのだろうか。そんなことを考えながら足を下ろした毛玉は、そこでハッとして飛び跳ねた。
「シューニヤさま! あの、突然で申し訳ないのですが、狼さんの怪我を診ていただけませんか? 後ろ脚を矢で射られてしまったのです。わたくし、お手伝いいたしますから……!」
「……狼」
シューニヤは驚いたような声で呟いてから、ゆっくりとその場に片膝をつく。そして大人しく横たわる狼の腹を手探りに撫でては、苦笑まじりにポーチを開いたのだった。
「良いだろう。血はどうだ? 止まっているかね」
「えっと、えっと……はい、止まっているみたいです」
「それほど深い傷ではなかったようだな。どれ、包帯は巻かせてくれそうか?」
「狼さんっ、今から後ろ脚を布でぎゅっとします。怖くないですよ……! あっシューニヤさま、傷はもう少し下です!」
毛玉の誘導に従い、慣れた手つきで傷口に処置を施しながら、シューニヤが小さく笑う。
「まるで狼と話しているみたいだな」
「はい! 何かあればわたくしがお伝えしますっ」
「……本当に話しているのか。驚いた」
そう呟いた彼は少しの沈黙を経て、再び手を動かした。
──やがて包帯を巻き終わると、やっと終わったとばかりに狼が立ち上がる。シューニャの見立て通り傷自体は浅かったのか、しばらく休憩したことでだいぶ回復したようだった。
「狼さん! わぁ、ふふっ、こちら暫く巻いててくださいねっ」
狼にまたもや柔らかく抱き込まれた毛玉は、ふすふすと笑いながら患部の少し上を足で撫でる。
そうして二人でじゃれていると、片付けを終えたシューニヤがふと顔を他所へ向けた。
「……お嬢さん、フィルゼ殿はどこに?」
「はあっ! そうでした、フィルゼさまと合流しなくては! ふんん」
毛玉はわたわたと狼の懐から抜け出すと、体を鳥もどきに変身させながら口を開く。
「シューニヤさま、本当にありがとうございました。このご恩は決して忘れません……!」
「ああ、それは別に……。……フィルゼ殿の元へ行くなら、私も付き添おうか」
「いえ! これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきませんので、わたくし一人で……あぅ、狼さんも一緒に来てくださるそうですので、大丈夫です!」
話している途中でつんつんと鼻先を擦り寄せてきた狼が、背中に登りやすいように頭を下げてくれる。鳥に変身した毛玉はその厚意をありがたく受け取り、ぴょんと飛び乗っては黒灰の背中にしがみついた。
彼女はもぞもぞと安定する体勢を探しながら、ふとシューニヤを見上げる。
「あのぅ、シューニヤさま。この辺りは狼月兵の方々が多いみたいなので、どうか気を付けてくださいね」
それが包帯の下にあるであろう目元の傷を慮っての言葉だと気付いたのか、シューニヤは控えめに微笑んだ。
「……ありがとう。散歩のつもりが遠くまで来すぎてしまったからな。そろそろ村に戻るとしよう」
「はいっ、またお会いしましょう! ──狼さん、わたくしのことは気にせず茂みの中を通ってください……!」
毛玉の言葉にひと鳴きした狼は、軽やかな足取りで茂みの中へ突入したのだった。
「きゃ~!」という楽しげな声が山林の奥へと消えれば、じっとその場に佇んでいたシューニヤは溜息をこぼした。
杖に体重をかけ、空いた手で目元の包帯をずり下ろす。しかし、そうして露わになった皮膚には何の傷跡もなく、押し上げた瞼からは色の違う双眸が現れた。
彼は視界を白く染めた陽光に目を眇め、「お嬢さん」が消えた方向を静かに一瞥し、独りごつ。
「……まだ狼月にいたことを、喜ぶべきか、嘆くべきか……」
低く掠れた声は、木々のざわめきよりも小さかった。




