6-5
狼の遠吠えには、主に三つの役割がある。
第一に、不要な争いを避けるために縄張りを主張するもの。
第二に、はぐれた群れの仲間を捜すために行うもの。
そして第三、獲物を見つけた群れのリーダーが、狩りの合図として行うものだ。
──たった今聞こえた遠吠えがどれに当たるのか、フィルゼには判別がつかなかった。
「フィルゼさま! 今の、狼さんでしょうかっ? とっても綺麗な声でした……!」
長く尾を引くような遠吠えが止むと、毛玉が内ポケットの中でぽすぽすと動き出す。大興奮の毛玉を宥めつつ、一方のフィルゼは少々剣呑な眼差しでマーヴィ城を見据えていた。
「……おかしい。随分近かったぞ。縄張りはもっと北のはずだが」
「…………。はっ。はい! フィルゼさま、はい!」
呼び声に応じて上着の合わせを開いてみると、毛玉が片足をひょこっと持ち上げていた。きっと挙手のつもりなのだろう。
「どうした?」
「鳥さんに、狼さんを見かけたか聞いてみますっ。もしかしたら向こうの様子も見てもらえるかも……」
鳥。そういえば毛玉には優秀な斥候班がいたのだったと、フィルゼは逡巡の末に「頼む」と頷いた。
「あまり大きな鳥は呼ばないでいい。密猟者に射られるかもしれない」
「はい! じゃあ、えっと、小鳥さーん! この山に詳しい方はいらっしゃいませんか~!」
「……あ、待て、人数を絞っ──」
いや鳥数、と無駄な言い直しを挟む頃には大量の小鳥が山林から飛び出し、ピーピーチュンチュンと喧しく鳴きながらフィルゼの元へ飛来した。
小鳥は足元だけでなくフィルゼの頭や肩、メティの背中にもばさばさと降り立ち、餌でもぶちまけたかのような混沌とした光景がアーチ橋の上に生まれてしまった。
フィルゼが諦めの表情で沈黙する傍ら、毛玉は楽しげに「初めまして!」と挨拶を交わしてから本題に入る。
「皆さん、あちらの青いお城の方から狼さんの声が聞こえたのですが、群れを見かけた方はいらっしゃいますか?」
毛玉の問いかけに、団子状に並んだ色とりどりの小鳥たちが首をかしげた。恐らく人間の仕草とは意味合いが違うのだろうが、まるで考え込んでいるように見えてしまう。
やがて丸々とした黒っぽい小鳥がジュクジュク鳴いたかと思えば、毛玉がぴょんと足を持ち上げた。
「フィルゼさま、数日前から狼さんの群れが人間を追いかけているそうですっ」
「人間を?」
「はい。マーヴィ城よりもっと向こうに暮らしてた群れが、どんどんこちらに移動してきたみたいで」
「……ならさっきの遠吠えは、狩りの合図で間違いなさそうだな」
その追われている人間とやらが何か不味いことをして、群れの怒りを買ったのかもしれない。そうでなければ、縄張り意識の強いクルトがわざわざ人里の近くまでやって来る理由がない。
狼月軍との無用な接触は避けたいところだが、ルマの言っていた密猟者の件もある。クルトの群れが逆に狩られてしまうような事態を避けるためにも、フィルゼは登山道へ進むことを決めた。
どうせマーヴィ城には行かねばならないのだし、と彼はメティの鞍に手を掛ける。
「毛玉。狼がいるところまで誘導は頼めそうか?」
「はい! 皆さん、遠くからで良いので案内をお願いできますか? ……わあ! ありがとうございます!」
毛玉のお願いを聞いた小鳥が一斉に飛び立ち、マーヴィ城の方へ向かう。フィルゼもすぐにメティの背に跨ると、花に囲まれた細道を駆け上がった。
木々の枝葉に止まる小鳥を道しるべに、フィルゼが登山道を半ばまで進んだ頃、彼の耳に微かな音が届いた。
──弦音だ。その濁ったような音からは、射手の焦りが窺える。
「追い回されてるみたいだな。近いぞ」
「狼さんは何に怒っているのでしょうか……。あっ、小鳥さんが来ました!」
メティに並走するような形で飛んで来た小鳥は、そのままフィルゼの肩にちょこんと着地した。かと思えばフィルゼの上着の合わせに趾を引っかけ、毛玉のいる内ポケットを覗き込む。
「ふんふん……フィルゼさま! 小鳥さんが、そこの森で狼さんを見たそうなのですが……」
「何だ?」
「小鳥さんは狼さんも人間も怖いので、これ以上近くに行きたくないそうです」
「なら仕方ない。礼を言っておいてくれ」
毛玉が道案内の礼を述べれば、小鳥は彼女に頭を擦りつけてから飛び去った。相変わらずの好かれ具合に首を傾げつつ、フィルゼは左手に広がる山林を見上げる。
この奥で何者かが狼の群れに追い回されているとのことだが──果たして本当に密猟者なのだろうかと彼は眉を顰めた。獲物から逆に追跡されたり、焦りのせいで弓を上手く扱えていなかったりと、些か手際の悪さが目立つが……。
「うわああ!!」
「!」
そのとき、バキバキと枝が折れる音と共に、男の叫び声が滑落する。急勾配を転がり落ちてきたのは、片足から血を流した若い男だった。
男の手にはナイフだけが握られており、腰に矢筒はあるものの肝心の弓は見当たらない。荒い呼吸を繰り返しながら地を這う男は、そこでフィルゼの存在に気付いては大声を上げた。
「た、助けてくれ、お、狼が!」
「落ち着け。追いかけてきてない」
男は崖と言っても差し支えない急勾配を恐る恐る振り返り、盛大な溜息をつく。しかし足の痛みは健在のようで、すぐに呻き声を漏らして蹲った。
「ううう、くそ……だから嫌だったのに……クルトに手を出すなんて……」
「……」
フィルゼはメティの鞍から降りると、動けない男の腕をおもむろに担ぎ、ゆっくりと木陰に移動させる。
その親切な行動に男はホッと安堵の表情を浮かべたが、次の瞬間には喉元に突き付けられたナイフを見て悲鳴を上げたのだった。
「ひええええ!! 何だよ急に!?」
「二つ聞く。素直に答えれば狼の餌にはしない」
頬を引き攣らせたまま男が小刻みに頷いたので、フィルゼはちらりと狼がいる方向を見上げて尋ねる。
「あんたは密猟者か? グリの村の住人が、昨日追い返したはずの」
「……そ、そうだ」
「クルトの縄張りに入って、何をした?」
二つ目の問いに、男が言葉を詰まらせた。忙しなく目を泳がせては、何と答えるのが正解かを必死に考えている。
無論、この問答に駆け引きなど求めていないフィルゼは、静かにナイフの先を男の喉に食い込ませた。
「『素直に』と言ったんだがな」
「いぃぃッすみません!! く、クルトの、幼獣を攫いました!!」
「何だと?」
フィルゼが呆れ混じりに目を見開けば、男は観念した様子で早口に語る。
「お、俺は狼月軍の新兵なんだ! 皇都勤務かと思ってたら、平民出身だからってクソ田舎に配備されて毎日毎日誰も来ない城の警備させられてさぁ! それでやっと初任務が来たと思えばクルトの捕獲だぜ!? クルトって神聖な獣なんだろ!? それを捕まえろって、もう意味わかんねぇよぉ!」
堰を切ったように不平と困惑を垂れ流した狼月軍の男は、そのまましくしくと泣き出した。彼としては、意図の分からない上官命令に逆らえないままクルトの縄張りへ赴き、理不尽にもその報復を食らっているのだから、嘆きたい気持ちは分からないでもない。
しかし──彼の話が事実だとすれば、この山に入り込んでいる密猟者は、無法者を装った狼月軍ということになる。
よもや黙認どころか自ら進んでクルトの縄張りを侵していたとは露にも思わず、フィルゼは忌々しい気分で舌を鳴らした。
「馬鹿なことを……。クルトの毛皮を国外の貴族にでも売りつけるつもりだったのか」
「た、多分……でもあの狼、すげぇ賢いから全然罠に掛からなくて……。ようやく幼獣を一匹だけ捕まえられたから、もう諦めて帰ろうと……」
泣きべそをかく男の喉からナイフを外したフィルゼは、おざなりな仕草で登山道の入口を指す。
「すぐに下山しろ。……縄張りから他にも何か持って来てないだろうな」
「も、持ってない!」
「なら良いが……」
逃げるよう促そうとしたフィルゼはしかし、突然ぞわりと背筋が冷え、弾かれたように短剣に手を掛けた。
身構える間もなく背後から枝の折れる音が聞こえ、咄嗟に振り返ったものの、そこには何もいない。
(──しまった)
誘導されたと気付いた直後、視界の外から男の悲鳴が上がる。
「うわあああッ! 助けてくれ!」
見れば、茂みから飛び出した黒灰の毛並みを持つ狼が、男の腕に容赦なく噛み付いていた。そのまま引き千切らんと頭を振る様を見て、フィルゼもすぐに短剣を抜こうとしたが。
「あわわわ、待ってください、狼さん!」
衝撃的な光景を前にして、毛玉が慌てて声を張り上げる。そして勢い余って内ポケットから落下した。
地面に落ちた毛玉が「あぅ」と間の抜けた声を漏らすと、ピンク色のふわふわを目だけで追っていた狼がゆっくりと牙を外し、男の腕を解放する。
しかし当の男は恐怖が限界に達したのか気絶しており、ぐったりと倒れたまま動かない。フィルゼも下手に男を助けようとはせずに、慎重に身を低くした。
(……毛玉は狼にも有効なのか?)
狼はじっと毛玉を見詰めてはいるものの、体毛が逆立っており未だ興奮状態と分かる。少しでも刺激すれば今度こそ男の四肢と首を噛み千切るだろう。
ここは毛玉に賭けてみるべきなのかと、フィルゼが密かに唾を飲み込んだなら、彼と狼の間で「よいしょ」と毛玉が身を起こす。
「狼さんっ、初めまして。わたくし毛玉と申します!」
と、いつものように初対面の挨拶をした毛玉は、平然と狼の方へふわふわ歩み寄っていく。
大丈夫だろうか。そのままガブリと行ってしまわないだろうかと、内心冷や冷やしながらもフィルゼは彼女の後ろ姿を見守る。
「群れの赤ちゃんが攫われたと聞きました。わたくしでよければ一緒に捜しますから、この方を許していただけませんか……? あっ、ほら、こんなに頭を下げて! とっても反省してるようです」
いやそれ気絶してるだけ──という言葉は静かに飲み込んだ。
毛玉が優しく話しかけているおかげか、段々と狼が落ち着きを取り戻し始めているのだ。この調子なら穏便に男を回収できるかもしれない。
いつでも動けるように踵は上げておきつつ、フィルゼがちらりと狼を見遣ったとき。
「大丈夫ですよ。こちらのフィルゼさまが、悪い方々から赤ちゃんを取り戻してくれま、す?」
はぐ、と狼が毛玉を咥える。
毛玉の両足が地面から離れるのと、フィルゼが「あ」と声を上げるのは同時だった。
「毛玉!!」
「あ~~~~れ~~~~……──!!」
毛玉を咥えた狼が、フィルゼには目もくれずに駆け出す。
食われることは無いにしても、このまま縄張りまで持ち帰られたら不味い。狼を傷付けるのは不本意だが致し方あるまいかと、フィルゼは遠ざかる狼に向かってナイフを投げようとしたが──ぐん、と上着の裾を後ろから強く引かれたことで、それは叶わなかった。
「!?」
振り返ってみれば、そこには先程わざと枝を折り、フィルゼの気を引いた「囮役」の狼がいた。
薄茶色の狼はフィルゼの裾を咥え、ぐいぐいと別の方向へ引っ張っている。まるでこちらへ来いとでも言いたげな行動に、フィルゼは毛玉が連れ去られた方向を一瞥し、小さく溜息をついた。
「……早く幼獣を取り返せって? 分かったよ」
幸いなことに野生の狼を追うよりも、人間を追う方が慣れている。幼獣を無事に奪還すれば毛玉を返してくれることを願って、フィルゼは愚かな密猟者を捕まえに走ったのだった。




