6-4
「──わあ! フィルゼさま! あれがマーヴィ城ですね!」
手のひらでぽすぽすと跳ねる毛玉に生返事をしながら、フィルゼは目の前に広がる七彩の絶景に足を止めた。
彼らの前から真っ直ぐ奥に伸びるのは、階段状に幾重にも連なった清流。赤レンガのアーチ橋に、煌めく水路を両脇から彩る満開の花々。
そして、その鮮やかな景色の最奥に聳え立つ真っ青なドームこそが、フィルゼたちが目指しているマーヴィ城だった。
「あのアーチ橋の上に宝石を乗せたみたいに見えます……! 指輪です!」
毛玉がぺたりと腹這いになり、楽しそうに足をばたつかせる。フィルゼも試しに彼女と同じ高さまで目線を下げてみれば、確かに──アーチ橋と城が重なって、青い石を戴く指輪に見えなくもない。
「メティ、見えますか? ほら指輪……え、指輪って何? えっとですね……人間の指を飾るキラキラした輪っかです! フィルゼさまは、うーん、着けてませんね……」
フィルゼに手綱を引かれているメティは、よく分からない様子で耳を動かしていた。毛玉がどうにかこうにか感動を伝えようとしているが、メティにはその辺に生えている雑草の方が価値のあるものに見えていることだろう。
グローブに包まれた指をふわふわと毛玉に探られながら、フィルゼは遠くのマーヴィ城に目を凝らした。
「こんな道があるのは知らなかったな。例の詩人はここからマーヴィ城を見たのか……」
「フィルゼさまも初めて見たのですかっ? うふふ、毛玉といっしょ」
ふすふすと嬉しそうに笑いだした毛玉に首を傾げつつ、川の隣に敷かれたなだらかな坂道を進む。
先程グリの村の住人に聞いたところ、この道を抜ければ登山道に出られるのだとか。そしてマーヴィ城を更に近くで見たいのなら、隣の山から外観を眺めるのが安全だ、とも。
マーヴィ城は築城当初から帝室の管理下にあるのだが、最近は狼月軍が随分と広い範囲を巡回しており、不用意に近づくと厳しい尋問を受けるのだという。それが例えグリの村に暮らす地元の人間であっても、荷物を全て検めるまで帰してもらえなかったと、実際に面倒な検査を受けた住人は愚痴をこぼしていた。
中には、通行料と称して金品や食料を渡さなければならなかった者もいたらしい。
(なぜ荷物を……? マーヴィ城にいる連中は、毛玉を捜しているわけじゃないのか?)
フィルゼが思考に耽ったままアーチ橋の上に差し掛かったとき、手のひらで楽しげに周りを眺めていた毛玉がぴょんとこちらを振り返った。
「ねぇフィルゼさま。マーヴィ城って何のために、あんな高いところに建てたのですか?」
「ん? ああ……。あそこは戦争に使うような城じゃなくて、帝室の人間が滞在するための城なんだ。立太子の儀に臨むためにな」
「りったいし?」
「皇太子の資格を得るための儀式だ。皇太子ってのは、次の皇帝に内定してる人間だな」
「なるほど!」
立太子で横に半分転がり、皇太子で逆さまになるまで転がった毛玉は、フィルゼの簡潔な説明で元の角度に戻った。
「狼月では、皇太子になるために何か儀式が必要なのですねっ。それでマーヴィ城にお泊りしなきゃいけないと」
「……ああ」
「皇太子に決まった方は、あのお城で何をなさるのですか?」
毛玉にわくわくと尋ねられ、フィルゼは少しの間黙り込み、青色に輝くマーヴィ城のドームを見遣る。
「……母親から貰った組紐を、狼に渡すそうだ」
「組紐?」
「ああ。……皇太子はたった一人で山に入り、自分と深く結びついた狼を見つけなきゃいけない。それこそが獣神の承認を得る儀式に当たるらしい」
──狼月の皇帝とはすなわち、獣神に認められた者と同義である。
その特殊な立太子の儀は他国にも広く知られており、狼月を統べる者がしばしば他の王族と区別される大きな要因だった。
隣のレオルフ王国でも太陽に因んだ伝統的な儀式があるのだが、やはりそれも手順に則って行えば恙なく終えられるもので。実際に太陽神と相見えるわけではない。
レオルフ王曰く、「狼月ほど神と近い国は他にないだろう」とのことだった。
「過去には立太子の儀に失敗して、皇太子の資格が別の者に移った事例もあるらしい。……そのせいで殺し合いに発展することも珍しくなかったみたいだな」
「ま、まあっ……大変です……」
いくら狼月が獣神の加護のもとに成り立った国と言えども、実在するかどうかも曖昧な存在に認められなかったというだけで皇太子の座を逃すとなったら、納得できない者も出たことだろう。
それこそ神話の時代から遠ざかり、時が下れば下るほど──。
「……狼さんを見つけられなかった人が、皇帝になったことはあるのですか?」
「何度かあったが……長続きしない。例え本来の皇太子が宮殿を追い出されたとしても、そういうときには決まって〈白狼〉の称号を持つ優れた戦士が傍にいた。それだけで正統性が保証されて、民もそっちに味方する」
毛玉はふんふんと体を縦に揺らしながら、心なしかフィルゼの親指の方に擦り寄った。
「何だか不思議なお話です。〈白狼〉が単なる称号ではないのは、そういった背景もあるのですね……」
フィルゼは小さく頷きつつ、出かかった溜息を飲み込む。
毛玉の言う通り、〈白狼〉が獣神の象徴に留まらない理由はそこにある。狼月を治めるべき真の主君が危機に瀕したとき、〈白狼〉は必ず現れる。
──それが獣神の意思であるかのように。
『……組紐を預かる狼は、獣神の使いであり分身でもある。その者と最も強く結びつく霊と言われ、危難が訪れたときは必ず助けてくれるそうだ』
主人の危機に駆けつけたときには既に遅く、あまつさえ命を失わせた自分は、やはり〈白狼〉などではない。これは弁解や自己嫌悪でも何でもなく、純然たる事実だった。
フィルゼが静かに瞑目する傍ら、そわそわと小さな足を動かしていた毛玉が、その足で彼の親指を挟む。
「……フィルゼさま、わたくし、今、怒るべきなのでしょうか……?」
「え」
「以前、ご自分を悪く言ったら怒ると言ったの、覚えていますかっ? 何だか今、フィルゼさまがそんな空気を醸し出しましたので……!」
「覚えてるから何も言わずにいたんだけどな」
「あっ、そうでしたか、えへ……わたくし怒るの苦手なので安心しました! それにやっぱり怒るよりも、わたくしがフィルゼさまのお話を聞く方が建設的だと思いませんか? 毛玉はそう思います! なのでここはお悩み相談をですね……」
何が何でもお悩み相談室を開きたいらしい。あまりにも真っ直ぐな気遣いにフィルゼはついつい笑ってしまいながら、おもむろに毛玉を自身の額へ近付けた。
「きゃあ、何ですかっ?」
「あんた、額はどこなんだ」
「ここです! あれ? もう少し上かな……おでこ……」
ぽす、と毛玉がすり寄ってきたので、フィルゼは互いの額を合わせたまま瞼を閉じた。
さらさらと清らかな音に包まれながら、心臓の鼓動を三つ数えて、額を離す。そうして触れていたところを指先で軽く撫でれば、じっとしていた毛玉から花びらのような綿がひとつ浮かんだ。
「フィルゼさま、今のは?」
「まじない」
「まじない?」
「感謝を伝えるときにやる」
端的に説明すれば、また花びらが増えて。
「かんしゃ……うふふ、感謝だなんてそんな……………………それはわたくしがやるべきでは?」
「誰がやったって良いだろ」
「確かに! あっ、あっ、待ってくださいフィルゼさま、毛玉もおまじないしたいです! おでこが! おでこが遠い! えーん!」
足をじたばたとさせる毛玉を内ポケットに収納し、フィルゼは何食わぬ顔で歩みを再開した。
というのも、今しがた毛玉に行った「まじない」は、彼自身もそれほど詳しく説明できるものではなかったからだ。
このまじないを教えてくれたのはルスランでも、ティムールでも、セダでもない。顔も名前も覚えていない、されど決して忘れることのない温もりを残した人。
母と呼ぶにはあまりにも思い出がないが、フィルゼの命が長く続くように、あるいは何にも苦しまないようにと、額を突き合わせて彼女が微笑んだことだけは、鮮明に。
「むむ……おまじないをするにはまずフィルゼさまを横に倒さないと……」
内ポケットの中でもごもごと無茶な作戦を練っている毛玉を、フィルゼが上着越しに軽く撫でた、直後のこと。
「!」
──山々に、狼の遠吠えが響き渡った。




