6-3
『狼月の帝位を継ぐ者は、立太子の儀として山へ赴かねばならないんだ』
タン、と澄んだ音が反響する。
的の中央に突き刺さった一本の矢。鷲の翼から作られた黒い矢羽根を見詰めていると、「君もやってみるかい」と隣から声が掛かった。
ずいと眼前に差し出された漆塗りの弓と、柔和な笑みを湛えた男を交互に見る。
『弓を習い始めたと聞いた。見せてくれ』
頷き、少年は教わった通りに弓を構えた。的の中央を見据えたまま矢を引き絞り、限界まで呼吸を抑える。瞬きを知らぬ鮮やかな碧色の瞳を微かに細め、最低限の動作で右手を離す。
澄み渡った弦音が空気を裂き、放たれた矢が先客を押しのけるような形で的の中心へ刺されば、男が感心したように笑った。
『見事だ。本当に初心者か?』
『訓練用の弓より射やすかったです』
『普段からコレと似たようなものを使っている貴族が泣いてしまうぞ』
男はくつくつと肩を揺らして、少年から受け取った弓を侍従に預けると、ゆったりと歩き始める。その足取りは緩慢なものでありながら、意外にも隙がない。それに少年が気付いたのはつい最近のことだ。
曰く「そう見せかけているだけ」らしいが、男の立場上、立ち振る舞いというものは想像以上に大事なのかもしれない。
『さっきの話だが』
歩きながら、男が語る。
『立太子の儀では、山に入って狼を見つけ出さなければならない。誰の手も借りず、己の力だけで狼の居場所を探し、供物を渡すことが求められる』
『……狼に、渡すんですか?』
『そう。変な話だろう? 私も当時は、野生の狼が供物なんて受け取るわけないだろうと思っていたよ』
しかも、その供物というのは食べ物でも何でもなく、男が生まれた日に母親が編んだ組紐なのだという。
皇帝になる者は必ずその組紐を母親から受け取り、立太子の儀で自らが見つけた狼へ渡すのだと、男は懐かしげに言った。
『……何日か山を彷徨って、とうとう私が見つけたのは小さな狼だった。丸々とした、子犬のような大きさでね。ああ、これは後で父に笑われるかなと思ったら──』
その小さな狼は怯えることもなく、男が持つ組紐に鼻先を近づけると、ぱくりと咥えて立ち去ってしまった。男は立太子の儀が唐突に終わったことに呆気に取られ、しばらく立ち尽くしたという。
『渡すというより強奪だったな。早く寄越せと言わんばかりだった』
当時の記憶を鮮明に覚えているらしい男は、一目散に駆けていく子狼の尻尾がどんな形だったとか、遠くから聞こえてきた鳴き声が「キャンキャン」で子犬そのものだったとか、いろいろと楽しげに語っていた。
『帝室ではこう言われている。組紐は、我々と獣神を結ぶものなのだと』
『獣神って……神話に出てくる狼ですか』
『そうだ。獣神は今もなお、初代皇帝の末裔である我々を見守っている。だから挨拶代わりに自分の匂いが染みついた組紐を渡して、存在を覚えてもらうのさ』
そして、と男が振り返る。
『……組紐を預かる狼は、獣神の使いであり分身でもある。その者と最も強く結びつく霊と言われ、危難が訪れたときは必ず助けてくれるそうだ』
──そんな状況が訪れないことを祈るばかりだけどね。
◇
「ルマ! また一人で山に入ったんだね!? この馬鹿娘! 密猟者がいるから気を付けろって言ったばかりだろう!」
「ええー! あんな奴らに捕まったりしないわ! それより自警団の人たち呼んでよ、昨日の密猟者がまた山に」
「いたんじゃないか!!」
ルマと、彼女の母親とおぼしき女性の口論を遠目に眺めながら、フィルゼは長いこと歩かせてしまったメティに餌を与えていく。
小雨が止み、靄がすっきりと晴れたグリの村は、瑞々しい緑と色鮮やかな花が咲き乱れる美しい場所だった。小さな柵で仕切られた小道には素焼きのタイルが敷き詰められ、その先には小ぢんまりとした民家が山の斜面に沿って建ち並ぶ。
民家の玄関口や窓、それから勾配屋根にも蔓や花が絡みつき、残った雨粒が日差しを跳ね返して輝いていた。
「綺麗な村ですね、フィルゼさまっ。お花がキラキラしてます……!」
「そうだな」
「今なら瑠璃の指輪も見えるでしょうか?」
いそいそと首の横まで這い出てきた毛玉が、グリの村周辺に聳え立つ山々を見渡す。フィルゼも軽く視線を巡らせてみたが、この辺りは位置が悪く、マーヴィ城の方角は背の高い木々や岩壁に阻まれてしまっていた。
「……ここからは見えないな」
「えーん……」
「──フィルゼ殿は瑠璃の指輪を見に来たのかい?」
そこへ、一足先に村の宿屋へ向かっていたシューニヤが戻ってきた。宿を取るついでにルマの擁護もしてきたのか、彼のとりなしで母娘の口論は既に収まったようだ。
「ああ。見に来たというか……知人がここにいると聞いてな」
「そうか。少々騒がしいが、会えると良いな」
「……シューニヤ。あんたはしばらく村に滞在するつもりなのか?」
フィルゼの問いに、シューニヤは少し考え込むような仕草で杖を動かす。くるりと円を描いた後、ゆっくりと二度、杖の先で地面を突いた。
「うん……ルマには世話になったから、聖職者らしく皆の相談ぐらいには乗ろうかな。フィルゼ殿も、何か悩みがあったら私の元においで」
ではまた、とシューニヤは口角を上げて笑い、ゆったりとした歩調で村の奥へと消えていった。
杖で周囲を探りながらの、危なげない足取りを見送ったフィルゼは、無意識のうちに短剣の柄に乗せていた手をそっと下ろす。
穏やかな口調に緩慢な仕草、どこにも怪しい部分は見当たらなかったが──彼の前に立つと、不思議と背筋が伸びるのは何故なのか。
(……少しだけ、陛下と雰囲気が似ているからか?)
ならばこの緊張は昔の名残かと、フィルゼが些か腑に落ちない面持ちでかぶりを振ったとき。
「……フィルゼさま」
「ん?」
まるで彼と同じ疑問を抱いたかのように、とても神妙な声で毛玉が呼び掛けてきたので、何かと思って相槌を打つと。
「──毛玉もお悩み相談、できます! 随時受付中です……!」
フィルゼの思考とは全く無関係のことで対抗心を燃やしていただけだった。
笑いを誤魔化すために顔を背ければ、そのつど毛玉が「わたくしの方が一緒にいる時間は長いですよっ」「勿論お金も取りません!」と言ってフードの中を右へ左へ移動する。
毛玉の必死な催促を受けながら、フィルゼは村の奥へと向かった。




